古代、日本人は文字を持っていませんでした。そのため、大昔の日本列島に住んでいた祖先たちがどんな言葉を話していたのか確かなことはわかりません。しかし、それ故に想像する楽しさもあると言えるのかもしれません。メルマガ『8人ばなし』著者の山崎勝義さんは、室町時代の「なぞなぞ」の答えが、現代の発音とは矛盾することから、日本語のハ行音の変化の過程について、さまざまな角度から検証し、興味深い考察を重ねています。
『P』のこと
子供の頃、アニメの『一休さん』でこんななぞなぞが出て来た。「爺(じじ)は一度も会わず、婆(ばば)は二度会うものなーんだ」。答えは「唇」である。「zizi」の発音では一度も合わない唇が「baba」では「b」の発音をする時に二度合う。子供ながらに「これは良問だ」と思い、大人になるまでずっと記憶していた。
しかし、この問題はパロディであった。大学の時に『後奈良院御撰何曾(ごならいんごせんなぞ)』(1516年)の存在を知った時に分かったのである。この謎解きばかりを集めた室町時代の資料には「母には二度会ひたれど、父には一度も会はず」という謎があり、その答えとして「くちびる」というのが併せて書かれている。
現代の我々からしてみれば「haha」と発音しようが「chichi」と発音しようが、唇が合わないことに変わりはない訳だから、この謎は解けない。しかし、室町時代にまで遡れば「ハ」の音は両唇が合うことで発せられるものであったことをこの謎解きは示している。因みに、両唇が合う子音としては[p][b][Φ](=フの子音)[m]などがある。
ほぼ同時代の資料であるキリシタン版の『平家物語』は『Feiqe no monogatari(平家の物語)』とタイトルされているから、当時のハ行の音はヨーロッパ人には[f]に近い音として聞こえていた筈である。つまり、ハ行音は[Φ]の音であり「ハハ」は「ΦaΦa」と二度唇を合わせることで発音されていたであろうことがわかるのである。
では、この両唇摩擦音[Φ]はどこまで遡れるのであろうか。ここで一気に奈良時代、即ち『古事記』『日本書紀』『万葉集』の頃まで戻ってみることにする。一部の金石文を除けば、この『記紀万葉』こそが最古の日本語資料と言ってもいい。逆に言えば、ここが日本語を体系的に捉えられる遡上限界である。この時代のハ行音はどうだったのだろうか。
それを考える前にまずこの時代の日本語表記法について少し触れておきたい。独自の文字を持っていなかった古代日本人は大陸の文字、漢字で日本語を表記した。その表記方法には正訓、義訓、借音、借訓の四種類があって、このうち借音が古代日本語の発音を探るのには最適である。借音の例を挙げると
「波流」=ハル=春(springの意)
「奈都」=ナツ=夏(summerの意)
などである。一見して分かるように漢字からその意味を捨象し、表音文字として用いたのがこの借音表記である。当然それには当時の日本語の発音に近い発音を持つ漢字が用いられた筈である。このことを逆に言えば、その漢字の中国での発音を探れば日本語の発音が(少なくとも近似的には)分かる訳である。
結論を言うと、この借音表記で件のハ行音は「波」「比」「布」などほとんどが[p]音の漢字によって書かれている。ということは奈良時代のハ行音は[p]音だったということになる。やや断定的に過ぎると言うなら、[p]音に限りなく近い[Φ]音であったくらいには譲ってもいい。
しかしそれ以前には、ハ行[p]音時代が必ずあった筈である。それを理論的に裏付けるのが清濁対立である。現代においてハ行の濁音は[b]音、即ち「バビブベボ」である。然るにこの[b]音の清音は[p]音、即ち「パピプペポ」なのである(現代語ではやむを得ずこれを半濁音と呼んでいるが)。ということは過去のどこかの時点で清濁対立を乱す変化がハ行音にはあったことになる。言い換えれば、その変化以前の古い時代では美しい清濁対立があった筈であり、ハ行は[b]音の清音たる[p]音で発音されていたに違いないのである。
ここまで、ハ行が[p]音から[Φ]音になり、やがて現代の[h]音になる過程を説明してきたが、さらにいくつかの言語現象を傍証として加えたい。
まずは、地理的な現象としてアイヌ語と琉球語を取り上げたい。北方のアイヌ語においては[p]音と[b]音の清濁対立がきちんとある。また、南方の琉球語では本土から遠ざかるほど(逆に言えば大陸に近づくほど)[h]が[Φ]に、[Φ]が[p]になる傾向がある。一例を挙げるに止めるが、「日(ひ)」のことを奄美大島では[hi]、首里では[Φi]、八重山では[pi]と発音する。本土から離れれば離れるほど、原初の日本語の発音が残っているように見える。
また、乳幼児期における発話獲得にも興味深い現象がある。まだ話すことができない乳幼児は唇だけを使って言語前言語とでも言うべきものを発する。これは発話に必要な顔の筋肉(表情筋)が未発達なためである。因みに赤ん坊が寝ながら微笑したりするのはこの表情筋を鍛えるためであるというのが有力な説で、どうやら楽しい夢を見ているばかりではないらしい。
話が逸れたが、乳幼児が唇だけを使って発する言葉のようなものを喃語と言うが、それらは当然のことながら唇音系の[p][b][Φ][f][m]の音である。例えば「バブバブ」や「バブー」など赤ん坊が[b]音を多用することは経験的に納得できることであろう。また、彼らにとって最も身近な存在である父母もこれら唇音系の音で呼ばれる。その典型例は今や言語を越えて使われる「papa(パパ)」と「mama、mamma(ママ)」であろう。
以下、父について代表的な言語で例を挙げると
英 father [f]音
独 Vater [f]音
仏 pere [p]音
中 父親 [f]音
のように唇音系であることが分かる。
母に至っては
英 mother [m]音
独 Mutter [m]音
仏 mere [m]音
中 母親 [m]音
と[m]音で一致している。
一見すると日本語だけが、父(ちち)[chichi]、母(はは)[haha]といった具合に例外的な印象だが、[ch]の音は歯茎硬口蓋破擦音だから比較的唇音に近いと言えるし、[h]の音は古代には[p]であった訳だから元は唇音であった。
また「mama(mamma)」のことを日本人は、これも赤ん坊にとっては大切な、食事のこととしただけであり、赤ん坊の食事とは即ち母乳であるから間接的には母親のことを指しているとも言える。やはり言語を越えた共通点があるのである。
以上、日本語のハ行音が[p]→[Φ]→[h]と変遷して行く過程を説明してきたが、こういった言語現象に興味を持つことになったのも、やはり幼児体験としてのアニメ『一休さん』があったからである。甚だ個人的ではあるが、『一休さん』の「そもさん・説破」も『後奈良院御撰何曾』もその意味においては自分にとって同じくらい価値あるものなのである。
そして子供の頃に見知った問題を、時を経て、より洗練された別の形で学ぶという体験は、少しだけアンドリュー・ワイルズ的だな、と心の底で思うのである。
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