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池田教授が憂う、大川小学校の惨事と重なるワクチンなき五輪強行の今

東日本大震災から10年となった今年3月、『クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究』(西條剛央著、山川出版社)が刊行されました。全校児童108名のうち74名が犠牲となった惨事が起きた理由に迫ったこの著作を、CX系「ホンマでっか!?TV」でおなじみ、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』著者の池田教授が読み解きます。池田教授は西條氏の分析の中でも「埋没コスト」の影響に注目。コロナ禍においても五輪を強行しようとしている状況に通じるものがあると教訓を感じ取っています。

西條剛央著『クライシスマネジメントの本質』を読む

西條剛央『クライシスマネジメントの本質 本質行動学による3・11大川小学校事故の研究』を読んだ。東日本大震災の津波に飲み込まれ、多数の死者を出した石巻市立大川小学校の惨事はなぜ起きたか、という謎に迫った渾身のレポートである。津波来襲時に、学校の管理下にあったのは90名。学校にいた児童78名(全校生徒108名のうち残りは欠席、早退、保護者が引き取りに来た等の理由により学校を離れていた)、教職員11名、スクールバスの運転手1名であった。

その中で生き延びたのは児童4名と教員1名の5名だけ。生存率僅かに5.6%という未曽有の惨事となった。地震が起きてから津波到来まで50分の時間があり、学校のすぐ傍には校庭から走って1分で登れる裏山があったにもかかわらず、なぜここに避難しないで、50分もの間、校庭に待機していたのか。いざ津波が来た時も標高がある裏山に避難しないで、北上川からほんのわずかに高いだけの三角地帯と呼ばれる場所を目指したのか。

西條は何度も事故現場に足を運び、関係者の聞き取りから、事故当時大川小の校庭で、児童や教員がどんな会話をしていたかを、できる限り忠実に再現して、事故は、多かれ少なかれ組織が陥りやすい、事なかれ主義、責任回避志向、前例主義、危機管理システムのずさんさ等の多くの原因が積み重なって起こったことを明らかにしている。分析は緻密で、断片的なエビデンスを有機的につなげた力業で、並の努力でなし得るところではなく、大川小の事故のレポートとして、これ以上のものは望めないだろう。

このレポートに比べると、事故後の石巻市教育委員会の対応や、さらにその後、文部科学省主導のもと5700万円の費用をかけて行った「大川小学校事故検証委員会」の報告書は、事故原因を明らかにするというよりも、石巻市教育委員会の希望に忖度したもののようで、大金をかけて、単なるアリバイつくりのために行ったとしか思われない。その辺りの事情は本書に詳しく述べられているので、是非紐解いてほしい。ここではさわりだけを紹介したい。

石巻市教育委員会の関心は「(大川小の児童が)避難できなかったのは仕方がなかったことにしたい」「亡くなった教員や教育委員会が責任を負わないで済むようにしたい」ということに尽き、これに忖度した検証委員会の関心も全く同じであったというのが西條の分析である。

「山に逃げようと訴えた児童がいたことをなかったことにする」「複数の教員が山への避難を訴えたという証言をなかったことにする」「1分で簡単に逃げることができた裏山の存在をなかったことにする」「根拠となる調査記録、報告書、エビデンスを、吟味できないように隠蔽したり、不都合な事実を削除したりした」等々といったもので、組織防衛と責任回避と事なかれ主義に支配されているという点では、責任を取るのが嫌で、裏山への避難指示をためらった大川小の指導者の心情と軌を一にする。

他にも本書の論点は多岐にわたるが、私の関心に引き付けていくつか私見を述べたい。たびたび津波に襲われた三陸地方には「津波てんでんこ」という標語がある。「津波が来たら、取るものもとりあえず、肉親にもかまわずに、各自てんでんばらばらに一人で高台に逃げろ」という意味だ。大川小学校でも地震の直後、一部の児童たちは裏山へ向かっていたというが、6年の担任に止められて校庭に引き返している。学校組織の論理としては「勝手なことはするな」ということだろうが、勝手にさせておけば少なくともこの児童たちは死なずに済んだことは確かだろう。

私は都立上野高校に通学していた頃、受けたくない授業があると勝手にさぼっていたし、残りの授業は全部受けたくないと思えば、勝手に早退していた。私たちは自主早退と言っており、早退届などは出さなかった。そもそも早退届なるものがあるかどうかもよく知らなかった。それでも、高校は崩壊せずに存続した訳だから、高校に雇われてもいないのに、勝手にするなという理屈が私にはよく分からない。

学校管理の論理としては、災害が起きたとしても、一人の犠牲者も出してはならないという建前があるのだろう。そのためには児童生徒を整列させて点呼を取り、全員安全な場所に避難させるという話になるのだろうが、大川小の事故のように安全だと思っていた場所が実は極めて危険な場所だった場合、ほぼ全員が犠牲になるわけで、この場合は一人の犠牲者も出すことなく、という完璧主義が裏目に出たわけだ。

大川小を襲った津波にしても、校庭に避難する間もなくいきなり襲ってきたら、かなりの数の児童は裏山へ逃げたはずで、50分もの時間的余裕があったことがかえって命取りになったとも考えられる。地震発生から津波到達まで3~5分しかなく、津波警報が間に合わなかった1993年の北海道南西沖地震の奥尻島のようなケースであれば、教職員、児童のほとんどは一番近くの高台である裏山に逃げたに違いなく、犠牲者の数は遥かに少なくて済んだろう。

当時、校長は不在で、現場にいた中で最高責任者である教頭、補佐役の教務主任、安全担当の教諭という、その場で最も決定権を持つ教員が、裏山への避難を主張したのに、学校の川向かいに住み、唯一学校に長期間(6年間)勤務していた6年の担任と、その場に居合わせた地域住民の、津波は来ないという思い込みに押されて、裏山へ逃げろという指示を出さなかったのが、事故の直接的な原因であるが、問題は責任者の3人の教員がなぜそのような心理状態になってしまったのかということであろう。

西條の分析の中で、私が一番腑に落ちたのは「埋没コスト」による説明である。埋没コストとは、回収ができなくなった投資コストのことで、埋没コストを避けたいというのは多くの人間が持つ心理なのである。賢い人間は埋没コストを捨てて、被害を最小限に食い止めるが、凡人は埋没コストに引きずられて、さらに被害を重ねることになり易い。

卑近な所では、株の損切がなかなかできないのもこの心理に起因する。現在の客観状況を判断して、この株はさらに下がると判断したら、損切する方が結局は埋没コストを最小に食い止める方途なのだが、凡人は客観的状況ではなく希望的観測を優先して、ドツボに嵌ってしまうことが多い。

最近では東京オリンピックの中止問題がまさにこの好例であろう。ワクチン接種が遅々として進まない日本で、オリンピックを開催するのは無謀であるというのがごく常識的な考えであるのは論を俟たないが、関係者は膨大な埋没コストを捨てることができずにいる。この埋没コストには経済的な面ばかりではなく、オリンピック開催に向けてここまで努力したのは、何のためだったのだという心理的な面も含まれている。

時間軸を遡れば、太平洋戦争は、埋没コストを切れなかったために、何百万の人の命を犠牲にした最悪の例である。ミッドウェー海戦に大敗したところで、日本が勝つ見込みはほぼなくなっていたにも関わらず、それまでに費やした、戦費と人命と思考方法を捨てることができずに、一縷の希望的観測にすがって、無益な戦いをずるずると続けて、最後はクラッシュして終わったわけだ。

image by:Nishi81 / Shutterstock.com

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