稼ぐこと以上に難しいとされるのが、お金の使い方。その「履歴」を見れば人格がわかると言っても過言ではありません。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、要支援者への学びの場を提供する「みんなの大学校」を運営する引地達也さんが、支援の現場や私生活で遭遇した人々の「お金との付き合い方」を回想しつつ、自身がお金というものに対してどう向き合うべきかについて思索を巡らせています。
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お金をどう使うか、で問われる人生の真価
最近、お金について、意識しなければいけない機会が多い。
引きこもりで悩みながらも、海外の株式運用で日本人の平均年収の何十倍も稼ぐ人、これまでの蓄財をどうしたらよいか悩む人など。
持っている人の使い道はその人の自由である分、その自由の中で何に使うのかは人格が問われるから結構難しい。ただ「人格を問われる」ことに意識が行かない人には、何に使おうが自分の勝手なのだから、とても気楽かもしれない。
ただ、その場合によくあるのは「持っていること」に慣れると持たない不安も出てくるらしく、妙にケチな体質になることもあるという。
この「お金との付き合い方」は、当事者がよく支援者の「付き合い方」を見ていると感心することがある。
持ち物や家、実家の経済状態など、断片的な情報からその人の経済感覚や実際の「お金回り」を想像しているようで、これが微妙に関係性にも影響を与えることもある。
ここで私がこんなことを書けるのは、お金に関して達観しているからで、今、お金で買えるもので欲しいものはない。
むしろ、モノは無駄だと考えている。
日々屋根があるところで寝て、食べていけることに十分な幸せ。
お金から気持ちが解放されるのは気持ちよいこと、が持論ではあるが、個人によって感覚は違うから難しい。
その感覚はアイデンティティーに連動していることが多いから、その使い方を私は尊重する。
重度障がい者の方が月々にいただいている障害年金で趣味の人形を買い続けているのを見ては、それはその人にとっての社会との関わりでかけがえのない品々だから、そこに関心を向けて話をする。
高級な自動車をやっとの思いで手に入れた人の車を語る言葉の数々も尊い。お金で何かを実現しようとすることで、この経済と社会は成り立っているし、そこに意志があって、人生に苦楽が存在する。
当事者はそれに関わる権利がある。それを温かなまなざしで見つめるのも支援者の仕事だと思う。
そんなまなざしで関わっていたある引きこもりの人が、運用である程度の資産を得たので、障がい者の方に対して、いくばくかお金を預かって将来のために運用したい、という要望があった。
この人は純粋に運用で利益を出す仕組みを会得したから、それを親亡き後の障がい者の楽しみのための資金に充てられないかという。
しかし、不特定多数の人に出金を募って運用するには出資法に抵触するし、他者のお金を運用するには金融取引業の免許がなければいけない。
そう考えると、障がい者と運用は非常に距離が遠いのだと実感するが、その志もよしとしながら、日本文化に障がい者支援と運用はまだなじみが薄い。生きるためのお金を制度で保証されても、楽しむためのお金はどうするのだろう。
この引きこもりの人が思い描いているのは、引きこもったことによって、多くの方に蔑まれてきたので、それを逆転したいとの思いもあるようだ。
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数年前、オーストラリアの40代の友人が秋葉原にある古風な自販機だけが置いてある一画で、弁当箱のような箱が簡易包装されているだけの商品を500円で買った。
開けると中身は100円もしないスナック菓子「たべっこ動物」で、たべっこ動物は白い紙に包まれ、その紙には政治的なメッセージが油性マジックでびっしりと書かれてあった。
包装紙の中身は何かと友人の中学生の息子と小学生の娘は緊張した様子だったが、その書かれてある言葉が主張したい人の個人的な政治的メッセージだと翻訳すると、落胆したような顔で「なんでそんなの買ったんだ」と母親に嘆くが、母親は一言。
「うるさい、私のお金よ」。
この母親は自分のお金で、いかがわしい秋葉原の一画で日本のレアな文化体験を買ったのだから、満足であろう。
息子にとってはポケモンのグッズの1つでも買えたと思っているかもしれない。
そして、私にとってこの経験は、私が一生買うことのないいかがわしい自販機の体験を得て、その時代の文化を享受することができたので感謝しかない。
お金は難しい。
少なくとも感謝とお金をセットで考えていきたい。
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