ロシアのウクライナ侵攻によるニュースが連日多くのメディアで報道されています。世界中がプーチン大統領の一挙手一投足に注視、情勢が毎日変化する中、こうした状況に精神疾患を抱える方々が苦しんでいると、メルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』著者の引地達也さんが語っています。
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精神疾患から見る「強要された」ロシアへのシンパシー
ロシアによるウクライナの侵攻は私たちにいとも簡単に戦争が始まってしまうことを突き付けている。この現実に戸惑いながら、どのように受け入れていいかを悩む精神疾患の方々がいる。
ベラルーシで展開されたロシア軍とベラルーシ軍の合同軍事演習で展開される戦車の砲弾と機銃を構え発射する兵士たち、ランチャーから発射されるミサイルが映像としてわれわれに届けられたという現実に、傷つきやすい心にギスギスと突き刺さるようで、痛ましい。
これら演習の威嚇行為に、対する米国はバイデン大統領やブリンケン国務長官が記者会見やメディアを使ってのロシアへの避難を強めているが、この避難合戦もまた私たちの心に圧迫を加えているようで、すでにメディアによる応酬から戦争は始まっており、それは戦闘に続く道をたどっているようにしかみえないと、疾患の方々が口にしている。
この疾患の方々の失望感は、メディアが平和への道を描ける希望になっていないことを示すと同時に、この現実を「彼・彼女らなりに」敏感に反応しているからで、それは非難の応酬に明るい未来はないことを悟ったように、平和は訪れない、と突き放す。
フランスの仲介で何とかなるかもしれない、G7の経済制裁をちらつかせることで何とかなるかもしれない、という期待は儚い夢と喝破するのを、疾患者の数人から聞いた。
さらに、悲しいかな、プーチン大統領の気持ちは分かるし、闘いたがっているようだとも言う。
私としては、疾患者のこころの問題を現実の戦争への見方から解釈すると、そこには冷静に物事を見ながら、世の中に失望する悲観的な叫び声が聞こえるようで、その正体を探りたいと思うのだ。
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彼・彼女らはこう考える。ロシアのプーチン大統領の立場からするとウクライナという「自分の領土」が、自分を敵対する勢力の思想に染められ、武装させられれば、対抗したくもなるのであろう、と。
このメンタリティは社会の仕組みを強要される疾患者に近いかもしれない。「常軌を逸した」プーチン大統領と米国や北大西洋条約機構(NATO)諸国が非難する中で、誰が中立に判断し和解への道を示せるのだろうか。
ウクライナを舞台にした場合には、米国は同盟国ではないし、NATO加盟国でもないから大義はない。
国連安全保障理事会も理事国にロシアと中国が入っていることで非難決議の可能性は低い。
この中でメディアでの威嚇と正当性を確保するデマや主張に私たちは翻弄されていて、何が真実なのかは実際にはわからない。
その中で、精神疾患者がプーチン大統領に感じるシンパシーはいわば、この物語の本質をとらえているような気もする。
もちろん、私は侵攻を正当化するつもりはない。
冷戦が終わり米ロの関係が改善したはずなのに、いつの間にかコミュニケーションのすれ違いはここまで来てしまったと悲嘆にくれ、そして戦争を憎むのは変わらない。
戦争になれば人は死ぬ。戦闘に加わっていない人、子供も死ぬ。築き上げてきたものが破壊され、人間がぼろ雑巾のようになっていくのを見るのはもううんざりである。
私は中学校や高校に訪問しての公開授業の際に、ソーシャルメディアで拡散されたレバノン内戦で空爆される街角を街の中からの視点で撮影した映像を紹介し、戦場のリアリティを伝えた。
日本のマスメディアはもちらん、「日本語」に守られた日本のソーシャルメディア上では上がってこない、それら海外の映像は悲惨である。
あの時見せた生徒の反応は純粋で、戦争を考えるきっかけになったと思う。
こんな体験も戦争が始まってしまえば嘆くだけなのかもしれないが、その時の気持ちを結集できないだろうか。
現実を深く見極めながらメディアと接したい。戦争の中にあるからこそ、平和を真剣に考えたいと思う。
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image by: Seneline / Shutterstock.com