小学校の音読の宿題が、いつの日かなくなっていた。そんなことに気が付いた自己改革小説の第一人者である喜多川泰さんは、自身のメルマガ『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』の中で、教育現場で当たり前のように行われている「協力」の正体と、お願いや感謝が置き去りにされたときに起こる「歪み」について静かに問いかけています。
子どものために…って言うけど、それはあなたがやりたいことでしょ
娘が小学生の頃、国語の宿題で「音読」があった。
読むのは教科書だが、自分の読みたい本でもよかった。
音読表(プリント)があって、日付と読んだもののタイトル、文量、そしてそれを聞いた親の評価とサインを毎日書くというものだ。
評価は3項目ほどあって、
「つっかえずにスラスラ読めた」
「感情を込めて読めた」
もう一つは何だったか忘れたが、それらを項目別に
「◎:すばらしい」
「◯:よい」
「△:がんばろう」
で評価をする。
そして、親が「一言コメント」をしてサイン(または印)して毎日提出するというものだ。
僕が家にいるときには、寝る前に娘が近寄ってきて、
「パパ、音読聞いてて」
とよく頼まれたことを覚えている。
それはときに慌ただしい朝のときもあったが、しっかりと聞いてちゃんと評価をし、サインをした。インチキはしたことがない。
「インチキ」とは
「読んでないけどサインをする」
ことや
「聞いてないのに『読んだから』という自己申告でサインをすること」
だ。
それをやったことがない。
どうしてそんな当たり前のことをわざわざ書くかって?
「みんなそうしてる」
と、当時娘が言っていたからだ。実は娘だけではなく周りの親がそう言っていた。
「うち、聞いてないけどサインだけしてる」
と。
この記事の著者・喜多川泰さんのメルマガ
僕は、娘の音読を聴く時間がとても好きだったし、娘も音読を聞いてもらえる時間を楽しみにしていたように思う。
「聞いてもらってないけど、サインして」
と言われたことがない。逆に、登校前に、昨晩母親に聞いてもらったのにサインしてもらうのを忘れていたときなどは、
「昨日ママに聞いてもらったけど、今いないから、パパ聞いてて」
と言って、サインをもらうためにもう一度読むようなことすらあった。
先生ならわかると思うが、音読をしてきたかどうか、いつもしているかどうかは、その「音読表」を見なくても、実際に音読をさせればわかる。
毎日、全部◎で、親のサインもちゃんと書いてあるのに、変なところ息継ぎをしたり、漢字の読み方がわからないなんて起こり得ないはずだ。
ところが授業ではその起こり得ないはずのことが起こる。
大切なことは、文章を読むのが上手になること、好きになること、理解できるようになることなのに、「忘れないこと」「怒られないこと」のために、サインだけして提出するようになるのだ。
馬鹿らしいことだが、結構みんなその無意味なことを続ける。
学年が変わり、先生が変わり、気がつけば音読の宿題がなくなっていた。
以前は本屋さんに行けば、
「音読用に本買っていい?」
とよく聞かれたが、音読の宿題がなくなってからそういう会話もなくなった。
個人面談のときに、僕の妻が先生に何気なく聞いたらしい。
「音読の宿題はもうやらないんですか?」
妻は僕以上に、子どもの音読を聞く時間を楽しみにしていた人だ。そして僕以上に「音読の大切さ」を感じている人でもある。
先生の答えはこうだった。
「いろんな親御さんがいらっしゃるので…」
「その時間が好きな人ばかりではない」ということなのだろう。
残念ながら、一日の5分間、テレビやスマホを止めて、子どもの音読を聞くのが「面倒くさい」と感じる親がいるということだ。
「どうして、親がそんなことに付き合わなければいけないんだ」
「俺は(私は)忙しいんだよ」
と考えている親がいるということだ。
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実際、僕も塾の先生をしてきたからわかる。そういう親は残念ながら一定数いる。
やりたいことがある。でも親の協力が得られずにそれをするのが困難である。
「音読」に限らず、そういうことはあるだろう。
ただ、
「だからやりません」
でいいのだろうか。
もしかしたらサイレントではあるけれども、
「音読の時間って大事だし、子どもの音読聞けるって幸せよね」
と考えている親が結構いるかもしれない。そこまでポジティブではないにしても、大多数は、
「子どものために協力するよ」
と思っているだろう。
「どうして私がそんなことやらなきゃダメなの?時間ないんだけど」
という考え方の人なんてほんの一握りでしかない。
だけど、声が大きい(威圧的である)が故に、その一部の人の言うことを聞いてしまっているとしたら、多くの人が迷惑を被ることになるのでは?
一部の非協力的な親のために、大多数の人たちの楽しみや学ぶ機会が奪われてしまうのは、やはりおかしい。
僕はやはり、その先生自身が「音読の時間は大事だ」と思うのであれば、それを授業で取り入れるべきだと思う。ただ、先生の側にもそれだけの強い意志はないのかもしれない。
「そこまで大事だとは思っていない」
「実は、毎日回収しているけど、それを細かく全員分見ている時間はない」
「ほんの少しでも親と揉めるのはめんどくさい」
というのが本音かも。
そのあたりは先生本人にしかわからない部分ではあるが、
もし僕が国語の先生なら音読の宿題は絶対に出す。
国語力の向上や学習習慣の獲得以上に、親子の時間を大切にしてもらいたいからこそ出したい。
もちろん、それを面倒がる親や非協力的な親がいるのはわかっている。
ただ、彼らが協力的でないのは、単純な理不尽ではなくもしかしたら先生の側に理由があるのかもしれないと思うことがある。
先生は、
「自分のやりたいことはやっていい」
と思い込んでいる人が多い。
「私はこうやる先生です」
という大前提で授業に入り、その指導を貫き通す。それが当たり前だと思い込んでいる。
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ちょっと伝わりにくいかもしれないがこんな感じだ。
「今日から、このクラスの担任になった喜多川先生です。よろしくね。
喜多川クラスでは、毎日音読の宿題が出るからね。
自分で読むだけじゃダメだよ。ちゃんとお家の人に聞いてもらって、評価とサインをもらってきてください」
そういった説明が初回の授業にある。
子どもが家に帰ってきて親に話す。
「お母さん、音読するから聞いてて」
「ん?いいけど、どうして?」
「新しい先生が音読の宿題出してるの。聞いたらこれに一言コメントしてサインして」
こんな感じだ。
協力的な親ならそれで十分だとは思う。
でも、親の時間も使うことになるのに特に説明もお願いもなく始まっていることに、よく思わない親もいるだろう。先ほどの音読表には一言コメントを書く欄があると言ったが、毎日僕も何かしらは書いた。そのコメントに対して先生から帰ってくるのは「見ました」という意味の名前のサインのみだった。もちろん全員分にコメントを書く時間などないのはわかっているから気にはしなかったが、授業参観や体育祭など直接顔を合わせたときに、
「いつも協力してくださりありがとうございます」
といった挨拶も特にはなかった。
「学校でやることだから」
「子どものためにやることだから」
というフィルターがかかると、お願いをする側に無意識のうちに、
「それくらいやってくれて当然でしょ」
という前提が生まれやすい。
僕は講演講師を仕事としているが、
「子どもたちのためにうちの学校に講演しに来てください」
とお願いされるとき、
「学校の行事なので、子どもたちのために、喜多川先生なら無料で来てくれますよね」
と言われることがある。
その人は、ドラッグストアに行って、ノートや鉛筆をカゴに入れてレジに行ったときに、
「学校で使うんです。子どもたちのためなんです。まさかお金とらないですよね」
と言ったことがあるんだろうか、と思ってしまう。
間違えてはいけないのは、それは「子どもたちのため」ではない。
「子どもたちのために、自分(その先生)がやりたいこと」だ。
自分がやりたいことにも関わらず、勝手に始めてしまい、それに相手を勝手に巻き込むことって普通、許されるだろうか。実は学校以外ではあまり行われていない。
「子どものため」
という印籠がそれを可能にしている。
そんなやり方で勝手に巻き込まれても怒らないとしたら、巻き込まれた側が、
「子どものためだから」
と納得をしているか、
「あなたの好きなことをやってくださいね」
と最初から信頼されているかどちらかでしかないーーー(メルマガ『喜多川泰のメルマガ「Leader’s Village」』2026年2月27日号より一部抜粋。興味をお持ちの方はぜひご登録ください、初月無料です)
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