物事には原因があり、そしてそれに起因する結果があります。しかし、それを「逆転させる」ことによって文学の世界観を新たに創造した人がいました。今回のメルマガ『前田安正の「マジ文アカデミー」』では、朝日新聞の校閲センター長を長く務め、文章・ことばから見る新たなコンサルティングを展開する著者の前田さんが、世界的に有名な歌人・劇作家の寺山修司が作り出した世界観について紹介しています。
この記事の著者・前田安正さんのメルマガ
原因と結果を逆転させて新しい文学の世界観を生み出した寺山修司。文学から生まれるバーチャルの世界
「笑う門には福来たる」。これは僕の座右の銘です。この場合の「門」は「家」という意味です。本来は「家族の仲がよく、いつもにこにこしている家には、自然に幸運が巡ってくる」という趣旨のことばです。
ですから、座右の銘とするのは、若干趣旨がずれるのかもしれません。
とはいえ、いつも笑っていたい、と思っています。辛いときこそ笑っていよう、そんな自戒をこめてのことばとして、胸に納めています。
アメリカの心理学者W.ジェームズは1884年に、情動とは原因的場面の知覚にすぐ続いて起こる内臓と筋肉の変化を体験することであると主張しました。1885年には、デンマークの生理学者C.ランゲは脈管における変化を体験するのが情動であるとしました。つまり内臓,筋肉そして脈管における変化は情動の結果というよりはむしろ原因であるという説を唱えたのです。これをジェームズ=ランゲ説と言います。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」
このことばは、ジェームズ=ランゲ説を表現したものだと言われています。心理学や生理学にひも付いたことばですが、どこか文学的・哲学的な匂いがします。
先に座右の銘とした「笑う門には福来たる」も、
「おかしいから笑うのではない、笑うからおかしいのだ」
と言えるからです。
仮想現実に見えるリアル
これは、最近のバーチャルリアリティー(仮想現実)の世界でも、一部立証されているのだと言います。
被験者の顔をスキャンしてパソコンに取り込みます。そしてスキャンした顔を鏡に映し出し、被験者に見せます。その際、鏡に映った顔を笑顔に変化させるとそれにつられて被験者の顔は緩み、悲しい顔に変化させると被験者も悲しい気持ちになるというのです。
つまり、笑ったり泣いたりするは、結果としてではなく原因として作用しているというのです。
悲しいときに悲しい音楽を聴いて涙を流したり、気持ちを上げたいときに明るい音楽を聴いたりします。これも音楽を一種のバーチャルな情動として自らの思いを重ねているのかもしれません。
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気持ちのありようが及ぼす精神性
会社勤めを始めたときに、先輩から言われたことがあります。
「忙しい、忙しいと言っているヤツほど暇だ」
「大変だ、大変だと言っているヤツほどラクをしている」
かなりスパルタな教訓ではありました。しかし、いやいややっている仕事は苦痛だったし、忙しさだけが全身にまとわりついてくるようだったことは僕自身も経験したことです。
どんなに大変な仕事でも、仕事が楽しいときは気持ちも高揚していて、疲れも感じませんでした。多少の睡眠不足も気になりませんでした。仕事の仕方として良い悪いは別にしても、気持ちのありようが精神的な影響を受けることは間違いないと思います。
先輩の教訓と自らの体験を踏まえて、ことばというのは、自らを表現する手段であると同時に、自らに制限をかける作用もあるのではないか、と思ったのです。
普段、20回の腕立て伏せを3セットしています。一人だと2セット目の18回くらいからだんだん体を支えることが厳しくなります。ところが、そこにトレーナーがいて「いけるよ、もっといける」と声をかけられると、なぜか3セット目もさほどきつくなくなるのです。かけ声がリミッターを外してくれるのです。
逆転の発想から生まれる文学世界
文学にも、その作用があります。
「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」
「おかしいから笑うのではない、笑うからおかしいのだ」
というように、いったん原因と結果を逆転させてみるのです。それによって、新しい世界観が見えてきます。これを電子的応用しているのが、バーチャル世界とも言えます。いまある世界と異なる世界を、自らのアバターに経験させ、それを実体験のように味わうことができるのです。
通常、逆転できない=体験できない世界を実態のあるもののように見せてくれます。ことばによる世界観の転換を、視覚として表現されたものがバーチャル世界だからです。
仮想現実で実現される想像の世界
「私は豊かな肉体をもったダンサーです。結婚しましょう。そうするとあなたの頭脳と私の肉体で素晴らしい子が生まれます」
「よしましょう。もし、あなたの頭脳と私の肉体を持った子が生まれたら困るからね」
20世紀初頭のノーベル文学賞作家バーナード・ショーと、当時トップダンサーだったイサドラ・ダンカンのやり取りだと言われています。
この話の真偽はともかく、結婚をしようというダンカンの理由(原因)と二人の間に生まれる子ども(結果)を、ショーが逆転させています。この手法は、一種のバーチャルな世界を想像させています。いまであれば、この原因と結果をバーチャルで再現できるかもしれません。
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文学的「死と生の逆転」
原因と結果を逆転させて新しい文学の世界観を生み出したのが、寺山修司です。自らの死についても、次のように表現しました。
昭和十年十二月十日に
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかかって
完全な死体となるのである
そのときが来たら
ぼくは思いあたるだろう
青森市浦町字橋本の
小さな陽あたりのいい家の庭で
外に向かって育ちすぎた桜の木が
内部から成長をはじめるときが来たことを
子供の頃、ぼくは
汽車の口真似が上手かった
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
*踊り字部分は、通常の平仮名に直しました。
(1982年9月1日付朝日新聞夕刊『懐かしのわが家』)
生きることは、不完全な死体を完全な死体に変える行為だとする発想は、僕たちが普通持っている原因と結果を逆転させてみせます。
完全な死体になったときに見える限界と無限界
ことばによる表現の制限を取り払った一例として、文学の可能性を見せるのです。
しかし、完全な死体になったとき、と寺山は続けるのです。
外に向かって育ちすぎた桜の木が内部から成長をはじめるときが来たことを知り、そして次のように結びます。
世界の涯てが自分自身の夢のなかにしかないことを知っていたのだと。
桜に象徴される現実世界の限界と、夢にのみ存在する無限界の世界を、自らの死に沿わせて描いたのかもしれません。
これが発表された翌1983年5月4日、寺山は世を去るのです。
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