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ドイツが発表、即座に性別変更が可能な「自己決定法」の意義と問題点

6月30日、戸籍上の性別と名前の変更手続きを大幅に簡素化する方針を発表したドイツ政府。この通称「自己決定法」を巡り、同国内で大きな議論が沸き起こっています。ドイツ在住の作家、川口マーン惠美さんは今回、新法案の内容や記者会見で説明を行った与党大臣2人の主張、そして保守系の政治家や青少年心理の専門家などから上がっている懸念の声を紹介。さらに同法が抱えている問題点を指摘するとともに、社会を息苦しくしている原因について考察しています。

プロフィール:川口 マーン 惠美
作家。日本大学芸術学部音楽学科卒業。ドイツのシュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。ドイツ在住。1990年、『フセイン独裁下のイラクで暮らして』(草思社)を上梓、その鋭い批判精神が高く評価される。ベストセラーになった『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』、『住んでみたヨーロッパ9勝1敗で日本の勝ち』(ともに講談社+α新書)をはじめ主な著書に『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)、『復興の日本人論』(グッドブックス)、『そして、ドイツは理想を見失った』(角川新書)、『メルケル 仮面の裏側』(PHP新書)など著書多数。新著に『無邪気な日本人よ、白昼夢から目覚めよ』 (ワック)がある。

ドイツで発表された「性別があっという間に変えられる」新法案

ドイツで、L G B T Qをめぐる新しい法案が発表された(注・L=レスビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスセクシャル、Q=不明、もしくは未定)。新法案は、通称「自己決定法」。何を自分で決めるかというと性別と、それに見合った新しい名前だ。

6月30日、ブッシュマン法相(F D P)と、パウス家庭相(緑の党)が記者会見を開き、集まったジャーナリストらに、この新しい法案についての説明をした。これにより、1980年に制定されたトランスセクシャル法が置き換えられる予定だという。

これまでのトランスセクシャル法では、戸籍に記載された性別、および名前を変えるためには、一連の手続きが必要だった。戸籍は公文書であるから、そう簡単に変更できないことはどこの法治国家でも同様だ。例えばドイツでは、性別を変えるためには、医師などによる鑑定書が2通必要となる。

ところが、今回策定された自己決定法では鑑定書は必要なくなり、本人が届けるだけでOK。自分で男だと思えば男、女だと思えば女になれる。申請が可能なのは14歳以上からで、18歳未満の場合は、申請にあたり保護者の承諾がいる。保護者が承諾しない場合は、家庭裁判所が介入し、子供の希望に沿って性別を決定することになるという。それどころか、政府はさらに14歳以下の子供にも性の変更を認める意向で、その場合は保護者が子供に代わって申請する。

なお、これらはすべて身体の形状、つまり生物学的な性別とは関係がない。あくまでも、自分が男であると感じるか、女であると感じるかの問題だ(手術などで性器やホルモンの分泌器官に変更を加える場合には、本人の意志だけではなく、医師の判断が必要となる)。つまり、外見がどこから見ても男性で、ちゃんと男性器がついていても、本人が女性だと感じ、役所で性の変更を申請すれば、法律上は女性になる。そして、この法案を、ブッシュマン法相とパウス家庭相は、「本日は我が国の自由にとって佳き日である」と祝福しつつ、紹介したのだった。

ブッシュマン氏とパウス氏にとって、これまでのトランスセクシャル法の何が問題だったかというと、この法律がトランスジェンダー人間を病人扱いにしていること。さらに、鑑定書作成のために、精神科医がプライベートに関する多くの屈辱的な質問をしなければならなかったことが挙げられていた(また、鑑定費用が申請者持ちであることも)。「誰であろうと、他人の性的アイデンティティなど鑑定できない」。つまり、今度の法案は、「自分が自分であるための自由の確立」というのが、彼らの主張だ。

性別というのはD N Aのもたらす結果なので、生まれた時、確かにD N Aの異常などで、男女の判断がつきにくいケースがあるという。しかし、出生届には男女のどちらかを書かなければならないため、後でトラブルが起きることがあった。だからこそ、これまでは、医師の鑑定などの経過を経て、性別の変更が認められていたわけだ。これが差別かどうかは議論の余地があるだろう。

2021年12月に発足したドイツの新政権は、S P D(社民党)、緑の党、自民党の3党連立政権だ。首相府を担うS P Dと、連立党である緑の党はいうまでもなく左派政党。自民党は保守リベラルなので、経済政策やエネルギー政策などでは前者2党と対立することが多いが、しかし、L G B T Qについては問題なく共鳴した。リベラルというのは、その名の通り自由市場を信奉し、国が何かを規定、あるいは規制することを根本的に嫌うからだ。彼らにとっては、自由な経済活動のため、国家の権力は小さければ小さいほど良く、「性の自己決定」に対する共感もその一環と思えばわかりやすい。

一方、S P Dや緑の党にとっても、自民党とは違った意味で、やはり国家は邪魔な存在だ。彼らが最終的に目指しているのは、既存の国家という枠組みを超越したNo nations, no bordersといった新しい世界秩序だ。いろいろな国の人間が自由に流入すれば、自ずと国家や国境は崩れ、従来の家族制度も変化していく。彼らが難民・移民の受け入れに熱心なのは、人道上の理由だけではないだろう。

なお、左派の急先鋒に言わせれば、パスポートに、性別や、身長や、目の色などを書かなければいけないこと自体が、国家権力の暴走であるというから、話はこんがらがる。2018年からドイツのパスポートには、その国家の暴走を防ぐためか、性別欄に「男」「女」だけでなく、「その他」と書くこともできるようになった。求人広告ではすでに、「求む、男、女、その他」という書き方がスタンダードだ。

ただ、今回の「自己決定法案」について言えば、単に人権擁護や、L G B T Qの概念の強化とは言えないほど意味が大きいと思う。有史以来、男と女という観念を土台に作り上げられてきた国家の秩序が、根本から覆される第一歩となる可能性を含んでいるからだ。しかも、その大改革が、人権強化を前面に出して、いかにも簡単に実行に移されようとしている。

ドイツではすでに2017年、同性婚が従来の男女の結婚と100%同格になることが国会で決まった。つまり、結婚とは男女の間ではなく、2人の人間の間で成立するものだ。この同性婚の合法化に極端なまでにこだわっていたのも、やはりS P Dと緑の党だった。特に緑の党にとっては、男女の別というのはすでに意味をなさず、男女の性差も認めない。寛容な社会というのは、さまざまな差をあるがままに認める社会のはずで、多様性というのは、いろいろな考えの人がいてこそ多様なのに、今では何の差もないように振る舞うことが正しいとされる。

話を「自己決定法案」に戻せば、実は、これには現在、保守系の政治家、青少年心理が専門の医師たち、ドイツ倫理学会などから大いなる懸念が表明されている。問題は、18歳未満の思春期の子供たちで、彼らは属しているグループの雰囲気や、他人の極端な意見の影響などを受けやすい。そんな未熟で不安定な判断能力を過信し、性別を決定するという権利を与えてしまって、アフターケアはどうなるのかということだ。後悔したり、迷ったりで、性別変更を繰り返すことが望ましいはずはないが、今の法案ではそれも可能だ。

ちなみに、ハンガリーでは、青少年をこの風潮から保護するため、教科書や未成年用の映像などでL G B T Qの情報を与えることを禁止したが、それをE Uは「差別」だ、「人権侵害」だとして非難している。

なお、成人のトランスジェンダーに関してもすでに問題が起こっており、例えば緑の党では、地方選挙の際、党内のリストで女性候補を優先したため、本来なら男性だった人が、急に女性だと言い張って立つという嘘のような事件もあった。緑の党は、すでに党内では性別は自分で決められるとしているが、しかし、一方では男女の議席数を同数にすると言ってみたり、かなり論理破綻している。

また、スポーツ界では、やはり元男性のトランス女性が競技に参加してメダルを攫うというケースが問題化している。英国では、女性の留置所に入れられたトランス女性が、同じ部屋にいた女性2人を妊娠させるという痛ましい事件まで起きた。

私は、男でも女でも、あるいは、男と感じようが、女と感じようが、法律を犯したり、他人に迷惑をかけたり、傷つけたりしなければ、皆が共同社会の一員として助け合い、認め合いながら、それぞれの幸せを追求して生きていけば良いと思っているが、現在、社会がかえって息苦しくなっているのは、「差」と「差別」が混同された結果、一切の「差」が存在しないように振る舞わなければならなくなった結果ではないかと思っている。

今年中に国会を通過する予定の「自己決定法案」だが、これにまつわる現代社会の理想の姿の追求は、これからがいよいよ本番になるだろう。

プロフィール:川口 マーン 惠美
作家。日本大学芸術学部音楽学科卒業。ドイツのシュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科修了。ドイツ在住。1990年、『フセイン独裁下のイラクで暮らして』(草思社)を上梓、その鋭い批判精神が高く評価される。ベストセラーになった『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』、『住んでみたヨーロッパ9勝1敗で日本の勝ち』(ともに講談社+α新書)をはじめ主な著書に『ドイツの脱原発がよくわかる本』(草思社)、『復興の日本人論』(グッドブックス)、『そして、ドイツは理想を見失った』(角川新書)、『メルケル 仮面の裏側』(PHP新書)など著書多数。新著に『無邪気な日本人よ、白昼夢から目覚めよ』 (ワック)がある。

image by : Jeppe Gustafsson / Shutterstock.com

川口 マーン 惠美

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