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ほぼ正反対。日本人が知らない「もはや戦後ではない」の真の意味

自分の発言や文章が、意図したものとは違った意味合いで受け取られ伝わってしまったというエピソード、しばしば耳にするものです。我々がよく知るフレーズにも、そのような形で広まり記憶されている言葉があることをご存知でしょうか。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』では時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが、そんな「独り歩きをしてしまった発言」を紹介。さらにその言葉を発した本人が、「本来言い表したかったこと」を解説しています。

歴史的人物によくある「発言の独り歩き」という功罪

本人の意図とは違う意味に伝わる発言や文章があります。

「もはや戦後ではない」というフレーズはその典型です。昭和31(1956)年の経済白書に登場するこのフレーズは、敗戦で打ちひしがれた日本が復興を遂げ、これからは大いなる発展を伴う新時代を迎えるであろうという希望を象徴するものだ、と受け止められてきました。

終戦から11年が経過、日本はGHQの占領下から独立し、朝鮮戦争が特需となって経済成長を遂げていました。この経済白書が発表されて後、日本は高度経済成長を遂げ、GNP(国民総生産)でアメリカに次ぐ世界2位の経済大国に躍進します。こうした事実もあって、「もはや戦後ではない」は日本の輝かしい未来を予告するフレーズ、と独り歩きをしてきたのです。

ところが、「もはや戦後ではない」が記された経済白書の内容は大きく意味が異なっていました。経済白書は、戦後11年が経って日本は復興需要が落ち着いた、これからは復興需要による経済成長は望めない厳しい時代を迎える、というものでした。

まるで正反対ですね。

実際、この時期、日本は経済成長するのかどうかを巡って経済学者の意見は分かれました。復興需要がなくなり、日本は経済成長などしない、という学者と、復興を遂げて、これから大きく経済成長に向かう、と考える経済学者で論争が繰り広げられたのです。経済成長肯定派の代表が下村治です。下村は池田内閣の所得倍増計画立案に中心的役割を果たすことになります。

池田内閣の経済優先策により日本は経済大国への道を歩みました。

本人の意図とは違う意味に受け取られた発言が独り歩きをしてしまう、ということで言えば所得倍増計画を推進した池田隼人もでした。池田を象徴する発言として、「貧乏人は麦を食え」があります。貧しい人々への差別的な言葉、貧困に苦しむ人々を見捨てる発言だと受け止められ、池田の人間性が批難されてきました。

これも事実は大きく異なります。

池田がこの発言をしたのは昭和25(1950)年12月の参議院予算委員会でした。吉田茂内閣の大蔵大臣であった池田は米価高騰を受け、「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人はコメを食う、というような経済の原則にそった方へ持ってゆきたい」と述べたのを、「貧乏人は麦を食え」と伝えられたのでした。

日本の歴史にもしばしば見受けられます。

たとえば、織田信長と豊臣秀吉を比較した安国寺恵瓊の手紙は独り歩きの典型です。

毛利家の外交僧であった恵瓊は木下藤吉郎を名乗っていた頃の秀吉と足利義昭の身柄を巡って交渉しました。

義昭は信長に京都を追われ、流浪の境遇にあります。交渉の内容を恵瓊は毛利家に書き送ったのですが、その中で信長は公家とり、信長の世は3年か5年くらいは持つだろうがその後は高転びに転がる、ところが木下藤吉郎は、「さりとてはの者」だと記しているのです。「さりとてはの者」が優れた人物という意味に受け止められ、尚且つ信長が本能寺で横死した後に秀吉の天下となった史実もあって、恵瓊の手紙は信長の没落と秀吉の台頭を予言するものだ、と解釈されてきました。恵瓊の先見性を賞賛する手紙だと独り歩きをします。

ところが、これも恵瓊の意図とは大きく異なるのです。

手紙が書かれた当時、義昭を追い、将軍不在となった京都を信長が治めなくてはならない状況でした。室町将軍が担ってきた朝廷の庇護、諸々の儀式、典礼を担わなければならず、多忙を極める信長は困って義昭を都に戻そうとしたのです。しかし、義昭は信長の求めに応じず毛利を頼ろうとします。毛利は義昭に来られては迷惑でした。

そこで恵瓊と秀吉が義昭受け入れを巡って話し合ったのです。話し合いの後、恵瓊は義昭が京都に戻らず、信長が足利将軍に代わって政を担わなければならないだろう、その為、朝廷から公家の官位を与えられると見通しました。

信長の京都や畿内治世はうまくはいかない、3年から5年は持つだろうがその後は挫折するに違いない、という考えも恵瓊は記しました。しかし、信長の治世を否定した後、いや、信長には木下藤吉郎のような、「さりとてはの者」、優れた家臣がいるのだから、案外巧くやりおおせるかもしれない、ともしたためました。

後年受け止められてきた信長の没落と秀吉の勃興を予言したとはかなり違う内容ですね。恵瓊は将来を見通したどころか、判断に迷っていたのです。

また、この手紙からは義昭追放後の信長の苦悩が伝わってきます。小説、ドラマで描かれる果断な信長像とは違う生身の信長が窺えます。

本人の意図とは違う意味が独り歩きしてしまう、そして独り歩きした内容が既成事実化してしまう、昔も今も怖いことですね。

image by: IgorGolovniov / Shutterstock.com

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【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

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