侍ジャパンを世界一に導いた栗山英樹監督。『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、選手たちに信頼され続ける栗山監督の指揮者としての基礎を作った、あるエピソードについて語っています。彼の野球人生は「選手引退から始まった」といえるかもしれないのです。
不満に思うか、ありがたいと乗り越えるか
「私にとって『致知』は人として生きる上で絶対的に必要なものです。私もこれから学び続けますし、一人でも多くの人が学んでくれたらと思います。それが、日本にとっても大切なことだと考えます」
WBCで侍ジャパンを世界一へと導いた栗山英樹監督が愛読する『致知』に寄せてくださった言葉です。
これまで誌面にも何度もご登場いただき、ご自身の人生観や勝負哲学をお話しくださいました。
本日は、『致知』2019年4月号に掲載され、『1日1話、読めば心が熱くなる 365人の仕事の教科書』にも収録されているお話をご紹介します。
─────────────────
僕は現役の選手時代、一人前になりたいという思いがとても強かったのですが、成功できないまま29歳で引退しました。
選手として才能が発揮できなかった分、その後は野球解説などマスコミの仕事にがむしゃらに打ち込むようになったんです。
最後の3年間、「熱闘甲子園」という番組を担当した時も、とにかく必死でした。
この年齢になって、高校球児に関わらせてもらうことへの意味を感じ、高校生たちに敬語を使って取材をする中で出会ったのが当時高校1年生だった大谷翔平であり、彼を育てた花巻東高校監督の佐々木洋さんだったんです。
この縁がなかったら、彼はファイターズに来てくれなかったかもしれませんね。
僕は本当に野球が好きなので、北海道に自分で野球場をつくったりもしました。
「何でそんなことをしているのですか」と揶揄されながらも、自ら種を蒔いて子供たちのための天然芝の球場をつくりました。
思わぬ監督のオファーが来たのも、そうやって必死になっている姿を神様が見ていてくださったからではないか、と思うことがあります。
考えてみれば、苦しい時にそれを不満に思うか、ありがたいと思って乗り越えるか。
この二つの違いは実に大きいですね。
実は僕自身、ダメな選手だった時に、ある人によって助けられた思い出があります。
入団した年、優秀な二軍選手が何人もいる中で、テスト生の僕は誰からも相手にされませんでした。
しかし、二軍監督の内藤博文さんだけは練習が終わると「栗、やろうか」とノックを打ってくれたり、ボールを投げてくれたり、いつも練習に付き合ってくださったんですね。
その年の一軍が開幕すると、僕と同期で入ったドラフト一位指名の高野光がすぐに開幕投手に選ばれました。
悔しくて、さらに落ち込んでいる僕に内藤さんは「栗、人と比べるな」とひと言声を掛けてくださったんです。
「俺は、おまえが少しだけでも野球が上手くなってくれたら、それで満足なんだ」と。
その頃の僕は、中学生に負けるくらい野球が下手になっているんじゃないかとすっかり自信をなくしていましたが、内藤さんのこの言葉によって救われ、その後も野球を続けることができたんです。
内藤さんが亡くなる前年、ある喫茶店でやっとお会いできた時、体調を崩されていた内藤さんが、近くにあった箒を持って監督になっていた僕にバッティングを教えるんですよ。
あまり言葉になっていませんでしたが、「内藤さん、俺のことをまだずっと心配してくれていたんだ」と思ったら涙が出てきちゃって……。
そういう人と出会えて指導者としての基礎をつくっていただいたことは、まさに幸運だったと思っています。
image by: Shutterstock.com