よく「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど火事の多かった当時の江戸ですが、一体どれほど火事が頻発していたのでしょうか? 今回、メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』では、時代小説の名手として知られる作家の早見さんが、特に火事の多かった江戸時代の「吉原」にまつわるエピソードを紹介しています。
江戸時代「吉原の焼け太り」
今日でも火事で焼け太りということを耳にします。火事と喧嘩は江戸の華と言われた江戸はまさしく焼け太りが横行しました。
その代表が吉原です。
明暦の大火(1657)で現在の人形町辺りにあった元吉原が焼失して以来、現在の地に移転してからも大火に見舞われます。江戸時代を通じて吉原は23回も火事に遭いました。建物が密集しているとあって、その内の18回が全焼です。
火事で妓楼が失われれば営業できないではないか、何が焼け太りだと思われるかもしれませんが、吉原の遊女、妓楼の主たちは逞しくも再建されるまでの間、浅草や両国、深川の料理屋や商家を借りて客を取っていたのです。
いわば、仮営業ですが、この仮営業が好評を博しました。仮営業ですから、吉原ならではの仕来りが簡略化され、吉原で登楼するよりも安く遊べたからです。その上、浅草、両国、深川は盛り場ですから、気軽に足を運べるとあって、連日大勢の男たちが押し寄せました。
お蔭で、妓楼は大層儲かり、焼け太りとなったのでした。
もちろん、吉原が焼ければ吉原関係者ばかりか再建に携わる人々も利を得ました。材木商などお商人や大工、左官などの職人たちです。このことは周知の事実で、吉原が火事になると大工が火を付けたという噂が流れたそうです。
吉原への火付けは大工や材木商に限らず女郎たちも疑われました。華やかな吉原といっても、女郎たちにとっては苦界です。自ら望んで吉原で働き始めた者など、ほとんどいないのです。どんなに辛い思いをしても年季が明けるまでは吉原から出てゆくことはできません。
脱走、いわゆる足抜けをしようとして見つかれば過酷な折檻が待っています。馴染み客に身請けされるか年季奉公を勤め上げなければならなかったのです。そんな彼女たちの中には火付けをした者もいたのでした。吉原を焼く炎は女郎たちの情念であったのですね。
吉原の仮営業は妓楼の焼け太りばかりか、大評判となった心中事件をもたらしもしました。心中したのは名門旗本藤枝外記と高級遊女綾衣です。
藤枝家は三代将軍徳川家光の側室お夏の実家でした。お夏は家光との間に男子をもうけました。甲府宰相徳川網重です。網重は将軍にはなれませんでしたが、網重の子が六代将軍家宣となりました。お蔭で藤枝家は4,500石の大身となり、外記の代に至ったのです。
そんな名門旗本藤枝外記は妻子がいながら綾衣と恋仲になりました。外記の不行跡は幕府に知られ、外記は甲府勤番に左遷されます。会えなくなることを悲しんだ二人は駆け落ちをして江戸近郊の千束村の農家で心中を遂げました。
天明5(1785)年の出来事でした。普段の吉原であれば、大門に四郎兵衛と呼ばれる見張り番が三交代で一日中詰めていましたから、遊女が郭の外に出ることは困難でした。先に記しましたように見つかれば激しく折檻されます。足抜けは、時に拷問死という無惨な末路が待っていました。
仮営業ゆえ、二人は駆け落ちできたのです。
藤枝家は断絶処分となりました。名門旗本と遊女の心中は一大醜聞となり、明治に至って「半七捕物帳」で有名な岡本綺堂が、「簑輪心中」という歌舞伎に仕立てました。
名門旗本と吉原の遊女、身分差の厳しかった江戸時代にあって、さぞ江戸っ子たちの話題をさらったことでしょう。現代なら朝から晩までSNSやワイドショーを賑わすでしょうね。
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