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クマ出没のニュースで気づいた、学校と家庭の「領域侵犯」問題

最近、地元の猟師も驚くほど熊が人間の生活圏に踏み込んできていることが連日ニュースで取り上げられています。メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』の著者で現役小学校教師の松尾英明さんは今回、この「熊出没」から学んだ、学校教育にも通じる「領域侵犯」の問題について語っています。

「熊出没」から学ぶ「互いの領域を侵さない」心得

今回は、働き方改革などではなく、ちょっと目先を変えた話。

最近、ちょくちょく話題になっている、北海道や東北の熊出没のニュースが気になっている。

熊が里に下りてきたり町中に出没したりするので、これをどうするかという話である。

ちなみに昨日知ったばかりのことだが、千葉県は本州で唯一、熊の出没が未だにない県だとのこと。

しかし私の住んでいる地域でも、イノシシやキョンの繁殖が同じように問題化している。

毎朝のランニングコース上でも、最近はイノシシに出遭う確率がかなり高い。

(特にウリ坊に出遭った時は、近くの母親が殺気立っているそうなので、危険である。)

目の前の事実からも、確かに増えている実感がある。

自然愛護の観点からの方々が言いたいことはよくわかる。

しかし、そのせいでこちら(人間側)が死んでしまっては元も子もない。

生物界は基本的に自己中心的であり、人間相手に忖度はしてくれないからである。

イノシシでもそれなりに危険なのに、相手が熊となればその危険度は桁違いである。

熊の駆除に対し批判的な意見を見るが、自分の家の周りに熊が出るとなればどうするのか問いたいところである(私の祖父母の家がある宮崎県の山の中では、家や田畑を荒らすイノシシを捕獲して食べるなど日常茶飯事であった)。

問題の本質は、領域侵犯である。

人と熊(あるいは他の獣)、それぞれの領域を侵しているから問題が起きる。

人は熊の領域に近づかない。

熊が恐ろしいからである。

熊も人の領域に近づかない。

人が恐ろしいからである。

ここが互いに共通認識されていると、互いが平和に暮らすことができる。

「危険・立入禁止」の看板があるのに、それを敢えて越えれば危険な目に遭うのは必至である。

人が、知らずに熊の領域を侵している面があるという。

例えば、熊の食糧への侵犯である。

本来は熊の食糧であるタケノコなどを高価だからといって乱獲すれば、熊が襲ってくる確率は高まるという。

また登山ブームにより、熊に対して無警戒な登山者が出てきているのも危険度を高めているともいう。

いずれにしろ、きっかけは、人間の側である。

何もなしに熊から積極的に向かってくることはないはずだという。

熊からしても、本来ハイリスクだからである。

熊が人を恐れなくなったという面があるという。

熊の側に「人に遭う」=「怖い目に遭う」という認識があれば、まず寄ってこない。

しかし、動物愛護の観点から、そこが難しくなったという。

マタギの人々も、正式な許可が出ねば撃とうにも撃てないという状況である。

結果的に、熊が以前よりも人を恐れなくなったらしい。

これは「然るべき時には叱るべき」という教育の原則にも似ている。

「不適切な行為も叱られないので、気付かずにやりたい放題」という状況は、互いに不幸である。

領域侵犯をしないことである。

ただでさえ追い込まれている熊の領域を侵せば、相手が熊だけに「窮鼠猫を噛む」どころでは済まなくなる。

余裕がある相手ならまだしも、余裕がない相手を更に追い込めば、結果はそうなる。

そして、熊の方は何も知らずお構いなしに領域侵犯をしてくるのだから、狙撃等による安全確保も止むを得ないといえる。

正直、熊出没の問題の根深さと解決策については、熊なし県の人間であり完全に門外漢なので、さっぱりわからない。

ただ、この教訓を教育の分野に当てはめて考えることならできる。

相手の領域を侵せば、いずれ反撃してくるということである。

国際紛争においても「相手が侵略してきた」という事実がきっかけで初めて戦争が始められる。

これは、対家庭、対子ども、対同僚など、全ての「対○○」に当てはまる。

領域侵犯は、全ての争いのもとである。

家庭教育の領域は何なのか、学校教育の領域は何なのか、あるいは社会教育の領域は何なのか。

ここをはっきり自覚していないと、互いに余計なところまで口出しすることになる。

これについては以前に『不親切教師のススメ』でも書いている。

家庭にあれこれ余計な口出しをするから、学校に余計な口出しをされるのである。

お互い様であるが、そもそもは子どもを預かる立場である、学校の側がきっかけであることは否めない。

「宿題」などもその一つである。

全員に学力をつけるのは学校の領域である。

一方で、個人的に足りない部分を埋める努力をするのは個人(=家庭教育)の責任である。

だから、学校から課す一律の宿題は、必要ない子どもには全く必要がないどころか、有害ですらある。

必要な量は個別に違うのである。

文字通り、宿(家)でやるものなのだから、本来的に学校教育の管理外である。

学校がその取り組みに対しあれこれ細かく管理・監督するなど、余計なお世話である。

一方で、子どもや家庭の学校への依存性を高める(=主体性を失わせる)ためには、特に効果的である。

知らず知らずのうちに、学校が家庭領域の分野を侵犯しているのである。

本来、「我が子」という視点から見た家庭学習の習慣は、完全に家庭教育の領分である。

一方、例えば学校での子どもの態度が悪いという状態を仮定する。

これを学校側から「困るのでご家庭で指導してください」と要望するのは、学校教育への領域侵犯を勧めていることになる。

「学校での態度が悪い」のだから、それはあくまでも学校教育の領域である。

それを気に入らないのも、学校の側なのである。

そうだとしたら、褒めようが叱ろうが、工夫して望ましい状態に自ら指導するべきである。

その指導自体を家庭に要望するのは、お門違いである。

必要があるとしたら、「学習態度に改善すべき点があり、現在試行錯誤しながら、〇〇さんに合う指導を模索している最中です。必要に応じて個別の指導をする場合もあるかもしれませんが、どうかご了承ください」というのを予め伝えて了承を得ておくことぐらいである。

(ちなみに、家庭の側が「先生の言うことなんか聞かなくていい」ということを子どもに教えている場合はまた別である。それは、家庭の側が先に学校への領域侵犯をしているのである。)

学校教育への領域侵犯を勧めた以上、当然家庭から様々な要望が来る。

「学校でもっとああしろ、こうしろ」という声が出てくるのも当然である。

あくまで先にこちらが勧めたのであり、自業自得といえる。

領域侵犯をしないということは、「節度」という日本語で言い換えられる。

節度が大切なのである。

竹にある、あの節目である。

自分の領域の節目を自覚し、相手との節目を越えないことである。

学校側も、節度を越えているのではないかという命令を受けることが結構ある。

例えば「学力調査の点数を向上しろ」とか「体力テストでもっと良い成績を報告しろ」とか、色々ある。

ずっと上の組織から降ってきた命令により、過度な「管理」を求められることも多い。

それらは単なる「対策してますよ」の言い訳づくりであることがほとんどである。

もしそれで現場に落ち度があれば、命じた側はそこを突っ込んで責めることができるという構造になる。

要は、相手を信用していないからこそ、意図的な領域侵犯をしてしまうのである。

「こちらが命令しないと必要な学習をしないだろう」という前提が、一律の宿題にはある。

「学力向上対策をやってますよ」の言い訳づくりのためが根底にあるなら、有害そのものである。

本当にその宿題は学力向上に貢献しているのかと問う姿勢が必要である(繰り返すが、家庭学習の習慣づくりは、完全に家庭教育の領分である)。

「管理」の名の下においては、全てを自分の下に置くこともできる。

だからこそ、子どもを「管理」する立場にある自覚をもち、余計な手出し口出しを控えるようにする必要がある。

一方で「管理」する立場にある以上、危険なことに対してははっきりと「NO」を示す毅然とした態度も必要である。

また「管理」という言葉自体に拒否感をもつ人もいるかもしれないが、子どもの管理者であることは紛れもない事実である。

教員という立場は友だちでも仲間でも家族でもなく、子どもを預かる管理者としての責任が常にある。

そういう「領分」なのである。

互いにとって丁度良い距離感を保つ。

互いの領域侵犯をしない。

自然と人間というだけでなく、教育においても重要なポイントである。

image by: Shutterstock.com

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