あの東日本大震災から今年で13年。津波で破壊された風景は、この長い歳月の間におこなわれた復興作業によって消えつつあります。今回のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』では、そんな13年の月日が経過した被災地で、著者の引地さんが見て、感じて、考えたことを語っています。
変わる風景、遠ざかる被災の記憶と新しい感性
東日本大震災の大津波で破壊された風景は今や昔になってしまったようだ。
仙台、南三陸町、気仙沼市の沿岸部を車で来訪すると、きれいな道路がスムーズに次の目的地に誘う。
震災から13年後の復興の姿として、外部の方には震災遺構があの日を伝え、地域住民の利便性の向上に道路や防波堤等、多くのインフラが役立っているのだろう。目の前に迫るほどの高さの防潮堤で自宅から海が見えなくなり、潮騒が縁側の軒先に届かなくても、あの悲惨な出来事が起こるよりはよいだろう、という解釈が優先された。外部から来訪すると、そのようなハードの変化に目を奪われてしまうが、遺族の方々をはじめ地元の方と話してみると、震災で亡くした命への思いは変わらず、今も「命」を考え、見つめ続けていることに気づかされる。
若い娘を亡くした父親は、私とともに訪問した20代前半の学生らに「命は大切にしなよ」と訥々と語りかけた。十年以上前に聞いた、その声は今も変わらない。
宮城県の沿岸部には震災遺構として当時のままの姿を記憶として遺した建物やモニュメントが点在する。
これら震災遺構は規模の大きいものから小さいものまで、第3分類から第1分類まで分けられた。宮城県での第3分類は、仙台市立荒浜小学校や石巻市の大川小学校、門脇小学校で、それらの施設は津波の脅威を伝え、子どもたちの適切な避難を学ぶ役割を担う。
一方で各地域での展示施設もそれぞれに特色がある。
町全体が津波に破壊され、町全体が嵩上げされたような南三陸町は、その中心に311メモリアルを置いた。展示は、津波の経験を伝えるとともに、そこで暮らす町民の笑顔がある。ユーモラスなポーズを取りながら、笑顔で伝える震災には心打たれる。かつての地面は底のように深い南三陸町に、かつての街に人は戻ってこないが、先ほどの父親のもとには近所から人が寄ってきて茶飲み話に花が咲くという。
「みんな集まって、楽しく、話したいんだよね」。
地域住民の軒先に集まる人たちがいる。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
宮城県では、みやぎ東日本大震災津波伝承館の特別企画として年間を通じて「3.11学びなおし塾」を開催している。大学・研究機関の研究者から震災に関する学術研究の話から、広く一般の人たちが「学びなおす」企画だという。
内容は「大災害後のメンタルヘルス-東日本大震災、福島原子力発電所事故からの教訓-」(東北大学災害科学国際研究所・國井泰人准教授)、
「津波被災地における移転事業とその後」(東北大学大学院・荒木笙子助教)、
「東日本大震災の犠牲者への対応から学んだこと」(東北大学災害科学国際研究所・ボレーペンメレンセバスチャン准教授)、
「農業・農村復興の現場知を未来に繋ぐ-農業・農村復興の現場では何が起きたか-」(宮城大学事業構想学群・郷古雅春教授)、
「災害前の記憶の伝承-被災地各地での“記憶の街”の活動から-」(東北学院大学教養教育センター・磯村和樹助教)、
「震災伝承の最新動向・最新研究」(東北大学災害科学国際研究所・佐藤翔輔准教授)。
軒先の会話からは遠いが、これも重要な話である。
震災から12年以上も経過すると、その「学び直し」は学術的には継続的な調査で見えることや、新しい発見等、新しい何かを求めているのかもしれない。
一方で被災地域の方々は、震災直後と変わらず、命を守ることを、自然に問い続け、語り続ける。被災地で障がい者の母親のネットワーク「本吉絆つながりたい」の母親は、学生らに「まず自分の命を守ることが第一、その上でほかの人を助けてほしい」と呼びかけた。風景が変わっても思いは変わらない。
震災前の風景が想像でしかなくなっても、若い世代にコミュニケーションをあきらめることなく、続けることで広がる想像はある。その若い感性が新しいケアを創造していく。学びの場として、被災地には希望があるのだと思いたい。
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