生きづらさを抱える人たちの支援に取り組むジャーナリストの引地達也さんの発行するメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』。今回は、クリスマスイブにヘンデルの「メサイヤ」を聞きにいったお話。そこで引地さんが感じた、現代と変わらない何世紀も前のこと、そして現代の私たちの心にたたみかけてくるその調べの意味を語っています。
ヘンデルの「メサイア」が伝える受難と喜びのクリスマス
12月24日、東京都港区のサントリーホールでのバッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデルのオラトリオ「メサイア」は、混乱が続く世相も相まって心にたたみかえるような調べだった。
歌声や演奏に宿る内面化された崇高で厳格な根源的な人への問いにも思いを寄せてみる。
「ハレルヤ」のフレーズが有名なこの曲も約2時間、じっくりと聞いてみると、現代社会にも突き刺すいくつかのメッセージが散りばめられている。
歌詞が旧約聖書「イザヤ書」と「詩編」から多く引用されているのも特徴で、キリストの生誕と受難を記述した新約聖書の4福音書が主として用いなかったことが、普遍的なメッセージにつながっているような気がする。
「彼の傷によって私たちは癒された」(イザヤ書第53章5節)。
ここにも私たちが生きていることを喜ぶための問いかけがある。
イザヤ書は「エレミヤ書」「エゼキエル書」とともに旧約聖書の三大預言書の1つ。
紀元前8世紀ごろのイスラエルの南ユダ王国の預言者イザヤによるもので、旧約聖書の記述を新約聖書が引用する中で詩編とともに多い書物である。
国々の争いの愚かさも表現しており、「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。 国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書の2章4節)は、国連ビルの礎石に刻まれているという。
詩編は旧約聖書に収められた150の神(ヤハウェ)を賛美する詩。
宗教的行事として歌う事は賛美することであり、その歌詞としても有名なものも多い。
普遍的なメッセージ性を持つイザヤ書と詩としての存在感を示し続けている詩編からの引用は自然と心に響く言葉が立ち現れ、そこにヘンデル曲が心に迫るフレーズを突き付け、そして包み込む。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
この曲は3部構成で「救世主来臨の預言から、イエスの生誕」「イエスの生涯、死と復活」の2つの世界を描いている。
台本作家のイギリス人、ジェネンズによる詩は結果的にヘンデルの故郷であるドイツの宗教改革からなる、ルター派が大切にする「説教」に通じることになった。
それがイザヤ書第53章を持ってキリストの受難を想起すること(音楽評論家・澤谷夏樹氏)である。
「たしかに彼は私達の痛みを負い、私達の悲しみを担った!私達の背きのために彼が傷つき、私達の咎のために彼が打たれた。彼の受けた懲らしめによって私達は平安を与えられた」。
この受難と安堵の関係性ははたしてよいのだろうか。
歌詞にはまたこうもある。
「なぜ国々はともに怒り立ち、なぜ人々は空しいことを思い描くのか?」。
まさに現代の空しい戦争を何世紀も前に示していたのだ。
私にとって今年の12月はクリスマスの連続だった。
東京都国分寺市の障がい者向けの学びの場である「くぬぎ学級」でクリスマス音楽会を1日に主催し、毎週火曜日の重度障がい者向けの音楽の講義では毎回、登壇するミュージシャンがクリスマスの雰囲気を演出し演奏した。
運営する就労継続支援B型事業所のクリスマス会ではゲームを楽しみ、大学でのクリスマス礼拝とレセプション、大学のゼミ学生とのクリスマス会、そしてゼミ生と自宅にいる重症心身障がい者とオンラインでの対話をきっかけにしてクリスマスカードの交換も行った。
これら喜びを分かち合う場としてのクリスマスは幸せな時間ほかならない。
しかし、この幸せはイザヤ書が示す受難があったからだと考えると、やはり感謝からクリスマスは成り立ち、私達が共に生きているのだと実感する。
メサイアの歌詞をじっくり噛み、そして世界の平和に向けて「ハレルヤ」と叫びたい。
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