以前の記事で、戦争が頻繁に起きている今の時代に「反戦歌が歌われていない」ことについて嘆いていた、生きづらさを抱える人たちの支援に取り組むジャーナリストの引地達也さん。引地さんは自身のメルマガ『ジャーナリスティックなやさしい未来』の中で、ユダヤ人でありノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの「反戦歌」が聞こえてこない現状を振り返りながら、ディランが引き受けた(引き受けさせられた)「役割」について私見を述べています。
ボブ・ディランが背負った米国、自由を求めるすべての人に向けて
戦争が日常化した世界で、反戦歌が歌われていない、との私見を先般のコラムで書き、ガザ地区への攻撃が激化している中で、ユダヤ人であるノーベル文学賞受賞者のボブ・ディランの歌が聴こえない、と嘆いてみた。
そう書いてみたものの、偉大な音楽家であるボブ・ディランを語るのはあまりにも言葉足らずで、補足が必要だ。
今回も文字の制限を意識しながらも、ボブ・ディランが背負ってきたものを想像し、そして現実社会に語ってきたものを、感傷的な気分に浸りながら整理したい。
ノーベル賞選考委員会は「偉大なアメリカ歌曲の伝統のなかで新たな詩的表現を創造した」と評し、彼が歌手であること、フォークシンガーとして米国の誇りを負っている(負わされている)立場は明確で、彼がノーベル文学賞の受賞コメントで「歌は歌われるべきものであり、読むものではない」と語ったのは、自らが文学者ではなく歌手であることへの強い表明なのだろう。
負わされたフォークシンガーという宿命だが、そもそも彼の歴史はフォーク歌手の祖と言われるウディ・ガスリーから直接、フォーク歌手になるよう進言されたエピソードが自伝等に書かれている。
黒人のブルース歌手の影響を受け、各地を転々とし、ウディ・ガスリーに会いにニューヨークに行き、ガスリーから「自作を歌うフォークシンガー」になるよう勧められた事実はその後の彼の姿と重なる。
一方で、ノーベル文学賞受賞の記念講演では「全ての始まりはバディ・ホリーだった」と切り出した。
22歳で急逝したバディ・ホリーが亡くなる数日前、長旅の末にライブを見に行き、
「彼の全てを目に焼き付けた。とても22歳とは思えなかった。彼には永久に色あせない何かを感じ、私は確信したのだ。すると、突然、信じられないことが起きた。彼と目が合った瞬間、何かを感じた。それが何だかわからなかったが、背筋がゾクっとした」
との体験をし、それが「始まり」だと話す。
だから、フォークシンガーの彼にはロック歌手への憧れもあるのだろう。
この記事の著者・引地達也さんのメルマガ
1965年、ニューポート・フォーク・フェスティバルの舞台に立った彼は、手にしていたのがエレキギターだったことから観客からのブーイングに包まれ、いったんステージを降りた事件があった。
エルビス・プレスリーやバディ・ホリーのロックンロールが米国で人気を得るまでには、清教徒(ピューリタン)の理想から始まった米国の成り立ちからの歴史がある。
「ニューイングランド植民地は、そもそも厳格で偏屈な原理主義者であったピューリタンが、聖書に描かれる神の国を建設するという目的で創ったもの。
そこでは文学のみならず、音楽、絵画、彫刻その他のあらゆる芸術表現において、現世的な娯楽は罪であった。ひたすら神の国の実現に貢献する思想や振る舞いが是とされたのだ」(『70年代ロックとアメリカの風景』長澤唯史、小鳥遊書館)。
この文脈からすれば、フォーク、そしてロックは原理主義からの解放を意味する。
彼は自分の言葉や歌をこう言う。
「我々の歌は生きている人たちの世界でこそ生きるものなのだ。でも歌は文学とは違う。歌は歌われるべきものであり、読むものではない」。
そしてホメロスの言葉を引用し締めくくる。
「詩神よ、私の中で歌い、私を通して物語を伝えてくれ」。
前述書が示しているボブ・ディランの役割とは「自由とそれに伴う孤独。これはアメリカ文学の重要なテーマである。ボブ・ディランは、まさにそのテーマを自ら引き受け体現しつづける存在としての『アメリカ詩人』の称号にふさわしい」もので、彼の歌は反戦にのみならず、自由を求めるすべての人々と共鳴する言葉が基本にある。
名曲「I Shall Be Released」(私は解放されるだろう)は、このテーマを正面から捉え、人々の解放を歌ったもの。
ここでの解放とは、すべての自由を求める人に向けられ、同時に様々な解釈から人を惹きつけるから面白い。
この歌詞の解釈をめぐっては、またの機会に記したい。
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