先日、新しいローマ教皇を決める選挙「コンクラーベ」が8日行われた結果、アメリカ・シカゴ出身のロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が選ばれ「レオ14世」と名乗ることが発表されました。これは、ローマ・カトリック教会のフランシスコ前教皇が4月に亡くなったことを受けておこなわれたものですが、そもそもローマ教皇とはどんな存在なのでしょうか? メルマガ『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』の著者である作家・ジャーナリストの宇田川敬介さんが、改めてローマ教皇という存在について解説しています。
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新しいローマ教皇にレオ14世。ところで「ローマ教皇」とは?
ローマ教皇とは、カトリック教会の最高位聖職者の称号であり、一般的にはカトリック教会のローマ司教にして、全世界のカトリック教徒の精神的指導者です。
初期のローマ司教たちはペトロの後継者、ペトロの代理者を任じていましたが、時代が下って教皇の権威が増すに従って、自らをもって「イエス・キリストの代理者」と評すようになっていきました。
もともとは十二人の使徒のひとりの後継者なのに、いつの間にか格上げされたということが、なんとなくこのキリスト教の歴史を踏まえている気がします。
いい加減とか、そういうものではなく、なんとなくヨーロッパのかなり複雑な歴史の中でキリスト教がどのような役割をはたしてきたかということが、この中に凝縮されているような気がするのです。
「キリストの代理者」という称号が初めて歴史上にあらわれるのは495年で、ローマの司教会議において教皇ゲラシウス1世を指して用いられたものがもっとも初期の例とされています。
これも、もしかしたら内部ではもっと早くからあったかもしれませんが、記録に残っているのが「これが初めて」ということでしかないということです。
これは五大総大司教座(ローマ、アンティオキア、エルサレム、コンスタンティノープル、アレクサンドリア)の中におけるローマ司教位の優位を示すものとして用いられています。
教皇はカトリック教会全体の首長という宗教的な地位のみならず、ローマ市内にある世界最小の独立国家「バチカン市国」の首長という国家元首たる地位をも担っています。
1870年のイタリア半島統一以前には教皇の政治的権威の及ぶ領域はさらに広く、教皇領と呼ばれていました。
教皇領の成立の根拠とされた「コンスタンティヌスの寄進状」が偽書であることは15世紀以降広く知られていたが、教皇領そのものはイタリア統一まで存続しました。
1870年以降、教皇庁とイタリア政府が断絶状態に陥ったため、教皇の政治的位置づけはあやふやでしたが、1929年に結ばれたラテラノ条約によってようやくイタリア政府と和解しているのです。
初代教会の時代から一貫してローマ司教が教皇という特別な地位を保持したわけではなく、ペトロのローマ到着以降、数世紀をかけて徐々に発達していったということはカトリック教徒も含めて広く受け入れられています。
古代のローマは、ローマ帝国の首都として初代教会の信徒たちにとっても特別な場所でした。しかし、そのころのローマ司教の権威と影響力はローマの外へおよぶものではなかったのです。
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ローマのクレメンスが96年ごろ、コリントの信徒へあてて書いた手紙にローマ司教の権威に関する言及があり、アンティオキアのイグナティオスも105年ごろにローマの信徒へあてて書いた手紙の中でローマ司教の「裁治権」にふれています。
この「裁治権」について、ある者はこれこそが古代からローマ司教が特別な権威を持っていたと考える人と、単に名誉的なもので実際的な権威はなかったというようなことを言う人もいます。
2世紀(189年ごろ)になって、リヨンのエイレナイオスが『異端反駁』3:3:2でローマ教会の首位権について述べています。
そこでは「ローマの教会が特別な起源を有し、真に使徒に由来する伝承を保っていることはすべての教会で認められていることである」とされているのです。
この記述は史上初めてローマ教会の特別な地位について明確に述べたものですが、ギリシャなどの東方地域においてはローマの首位は受け入れられていなかったと考えられています。
特にローマ皇帝がローマを離れてコンスタンティノープルに移ったあとで、その傾向は顕著となりました。381年の第1コンスタンティノープル公会議において、教皇が出席を見合わせたのも、その地位と権威についてローマ帝国の東西で見解が分かれていたからなのです。
半世紀後の440年に着座したレオ1世大教皇の時代になると、ローマ教皇こそがイエスから使徒ペトロに与えられ、ペトロから代々引き継がれた全教会に及ぶ権威を持っているという見解が公式に唱えられるようになります。
451年のカルケドン公会議ではレオ1世は使節を通して「自分の声はペトロの声である」と述べています。
当時ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威が上なのか議論になっていました。この公会議の席上、コンスタンティノープル大司教は「コンスタンティノープルは新しいローマ」であるため「名誉ある地位をローマに譲るものである」という声明を出しましたが、ローマ側から「事の判断をうやむやにしている」という意見が出て受け入れられなかったのではないでしょうか。
世俗君主との関係では8世紀頃まで東ローマ皇帝の主権下にあり、教義問題で皇帝と対立した教皇が逮捕され、流刑に処されるということもありましたーーー(『宇田川敬介の日本の裏側の見えない世界の話』2025年5月12日号より一部抜粋。続きはご登録の上お楽しみください。初月無料です)
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