各国が「対話」により妥協点を探ることが、ますます困難になりつつある世界情勢。かような状況がエスカレートした先には、どのような結末が待ち受けているのでしょうか。今回のメルマガ『最後の調停官 島田久仁彦が読み解く国際情勢の裏側戦略インテリジェンス・レポート』では元国連紛争調停官の島田久仁彦さんが、新たな局面を迎えた米国とイランの対立や中東情勢を「調停のプロ」として分析。さらにCIA長官のモスクワ訪問やドローン戦を加速させるウクライナの動向を例に取り、「条件」から「通告」へと変わりつつある国際交渉の現在地を読み解いています。
※本記事のタイトル・見出しはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:沈黙が語る交渉術-「条件」から「通告」への転換
沈黙が語る交渉術-「条件」から「通告」への転換
「今週、世界は言葉ではなく、沈黙で交渉していました」
そう言いたくなる一週間でした。米国はイランに対して制裁という名の最後通牒を突きつけ、CIA長官は外交官の代わりにモスクワへ降り立ち、ウクライナは軍人ではなくドローンだけの軍事パレードで独立記念日を祝いました。
どれも「条件を話し合う」交渉ではありません。「我々はここまで知っている、あるいはここまでやる」という一方的な通告です。
私はこれまで30年近く、紛争当事者の間に立って交渉を組み立ててきました。その経験から申し上げると、交渉が行き詰まったとき、当事者は二つの道のどちらかを選びます。
一つは、対話のテーブルに戻り、譲れる部分を探し直す道。もう一つは、相手に選択の余地を与えず、既成事実を積み上げていく道です。
今週の国際情勢を眺めていると、後者を選ぶ主体が驚くほど増えていることに気づかされます。
イランへの二次制裁、ホルムズ海峡での通航料構想、ラトクリフCIA長官の電撃訪露、ヨルダン川西岸E1入植地の入札公示、中露艦隊の共同航行など、いずれも、相手の合意を待たずに現実を動かしてしまおうとする動きです。
交渉の作法から見れば、これは決して褒められた手法ではありません。しかし、交渉が行き詰まったときに現実がどちらへ転がるかを理解しておくことは、外交官であれ、経営者であれ、リスクを管理する立場にある方には避けて通れない仕事だと思います。
付け加えるなら、通告という手法そのものを否定するつもりはありません。交渉の現場でも、明確な意思表示が突破口を開くことは確かにあります。
問題は、通告を発する側が「相手にも選べる余地を残しているか」という一点です。
「選択肢を完全に奪ってしまえば、相手は失うものがなくなり、かえって予測不可能な行動に出る」
これは私が紛争調停の現場で、何度も目にしてきた失敗の型です。
今週登場する主体のいくつかは、この境界線をすでに踏み越えているように見えます。
今週号では、この「通告の季節」とでも呼ぶべき一週間の動きを、中東、ロシア・ウクライナ、朝鮮半島、東アジア、日本自身のエネルギー戦略、そして世界各地に広がるその他の火種という、7つの窓から眺めていきます。
最後に、この一週間から私たちが引き出すべき教訓を、調停官としての視点からまとめます。
この記事の著者・島田久仁彦さんの新創刊メルマガ
【1.通告としての制裁-米国とイランの終着点】
8月24日、ベッセント米財務長官がイランに対する新たな制裁を発表しました。
米財務省の発表によれば、核・ミサイル関連の調達網、サイバー活動、そして石油収入を支える取引網などを対象に、60を超える個人・団体・船舶を制裁対象に加え、イランと取引する第三国にも圧力を広げるという内容です。
ベッセント長官はこれを「経済的追放作戦(Operation Economic Outcast)」と名付け、「世界中に広がるイランの金融ネットワークに経済的な猛攻撃をかける」「いかなる者も例外とはならない」と、かなり強い言葉で語っています。
これを交渉の言葉として読み解くと、興味深い点が見えてきます。
通常、制裁は相手を交渉のテーブルに引き戻すための「レバレッジ(交渉力の源泉)」として使われます。しかし、今回のベッセント発言には「繁栄と孤立、平和とテロ、米国とイランのどちらかを決断する時だ」という二者択一の言葉が繰り返されており、これは交渉のオファーというより、選択肢そのものを狭める通告に近い響きを持っています。
私が交渉・紛争調停の現場で繰り返し目にしてきた光景の一つに、圧力を強めれば強めるほど、相手の指導部は国内向けに「屈しない姿勢」を演出せざるを得なくなるという力学があります。
イランのマザニザデ経済財務相が「我々は万全の準備を整えている」と述べ、アラグチ外相が「以前と同じ脅しに過ぎない」と切り返したのは、まさにこの力学の表れでしょう。
圧力は必ずしも譲歩を引き出すとは限らず、時には相手の姿勢を硬化させてしまうのです。
もっとも、マーケットの反応は驚くほど落ち着いています。8月27日にはブレント原油(北海産の指標原油で、国際的な原油価格の基準の一つ)が1バレル約86ドルまで下落しました。
ただし、これを「市場が危機を無視している」と読むのは、おそらく正確ではありません。むしろ市場は、危機そのものではなく、危機が緩和される可能性─ホルムズ再開への期待─を先に織り込んでいる、と見るべきでしょう。
今回の一件において、イランの最大の貿易相手国である中国の金融機関に、米国が実際に二次制裁を科せるかどうかは不透明なままです。9月に予定される今年2回目の米中首脳会談、そして11月のAPECでの協力を模索するトランプ政権の立場を考えれば、中国を本気で締め上げる選択肢を取りにくいというのが、私の見立てです。
「強い言葉を使いながらも、実行できる範囲には自ずと限界がある」
これも交渉の常です。
この制裁劇の背景には、ホルムズ海峡という物理的な結節点があります。イランは米国の経済圧力に対抗する手段として、海峡に対する管理・影響力を強めようとしています。イラン議会の国家安全保障・外交政策委員会は、通航する船舶からサービス料を徴収する草案をまとめました。
モデルは、この4年間でサービス料を8倍に引き上げたトルコのボスポラス海峡・ダーダネルス海峡です。トルコは灯台運営や海難救助、検疫といったサービスの対価として料金を徴収する権利を、1936年のモントルー条約で認められています。
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■「タダ」で存在するものではない公海における自由な航行
イラン司法府の関係者は、これに加えてスエズ運河やパナマ運河の例も引き合いに出しているといいます。ウォール・ストリート・ジャーナルの試算では、イランがこの種のサービス料を課せば、関係国に年400億ドルの収入が入る可能性があるとのことです。
私は、この構図をライン川の歴史と重ねて見ています。The Economist誌が8月25日付の解説記事で、まさにこの構図を歴史の中に位置づけていました。
ドイツのライン川沿いには中世、川幅の狭い場所に城を構え、鎖で船をせき止めて通航料を取る仕組みが数多く存在しました。城の管理者にとって、川そのものの維持コストはほぼゼロですから、通航料はまるまる利益、つまり「経済的レント」になります。
本来のコストを超えて得られる超過利益、と言い換えれば分かりやすいでしょうか。
この種のレントは1867年にライン川で廃止され、翌年の国際条約で完全に撤廃されました。バルト海でも、デンマーク王室が長らく徴収していた通航料が、1857年に列強の圧力で放棄されています。
同誌が指摘するのは、公海における自由な航行というのは、実は「タダ」で存在するものではないという点です。19世紀から20世紀にかけては英国、1971年に英国がスエズ運河以東から撤退した後は米国が、軍事力を背景にこの自由航行という「公共財」を提供し続けてきました。
米国の経済学者チャールズ・キンドルバーガー氏が唱えた「覇権安定論」─世界経済の秩序を保つには、それを担うだけの意思と能力を持つ覇権国の存在が欠かせないという考え方─が、まさにこの構図を説明する理論です。
そして今、米国はこの役割を「意思の欠如」と「能力の限界」の両面から手放しつつある、というのが同誌の見立てです。トランプ大統領はペルシャ湾への部隊派遣に消極的ですし、安価なドローンは、かつて領海の範囲を3カイリと定める根拠になった大砲の射程を、はるかに超える攻撃力を安く手に入れさせてしまいました。
「覇権国が手を引いた後、誰がこの公共財を提供するのか」
今、国際社会に突き付けられている大きな問いです。
カナダのカーニー首相が唱えるような「中堅国」の連携に期待する声もありますが、ドイツの経済学者3人による2025年の論文は、これに懐疑的です。
国家間のパワーバランスが均衡するほど、ただ乗りや駆け引きが助長されるという理屈で、私自身の交渉経験からしても、この指摘には頷ける部分があります。当事者が拮抗している状況というのは、実は最も合意形成が難しい状況でもあるからです。「誰か一人が突出して損得を引き受けない限り、公共財は維持されにくい」というのが、国際秩序を語る際の鉄則です。
皮肉なことに、記事はライン川の水位そのものが記録的な低さにまで落ち込んでいる事実にも触れています。
「通航料を議論する以前に、そもそも大型船が航行できないほど川が渇いている」
覇権をめぐる駆け引きも、自然の前では意外なほど無力なのだと気づかされる話です。
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■板挟みの立場に置かれている「仲介役」オマーン
トランプ政権の発表に先立ち、イランの革命防衛隊の報道官は8月23日、「経済戦争を含むあらゆる敵対行為に備え、対応策を準備している」と表明しました。さらに「新たな制裁は米国が自らこれまでの軍事作戦の失敗を認めるものだ」とも主張しています。
イラン国内では、通貨リアル安やインフレが長期化する経済制裁の影響で続いていますが、その隙をついて中国などへの原油輸出も続けてきました。
今回の新制裁がどこまで実質的な打撃を与えるのかは、正直なところ不透明です。
イランのSNSC(最高安全保障委員会)のレザイ事務局長は8月22日、米国の新たな制裁に加担する国は「敵とみなす」と警告し、封鎖状態が続くホルムズ海峡から「一滴の石油も出さない」と国際社会を揺さぶりました。
ペゼシュキアン大統領も8月21日、首都テヘランでの会合で「我々はいじめに屈しない」、「今日こそ戦争を終わらせるべき時だ。世界はイランの米国に対する勝利を認めている」と強気の発言を続けています。
The Financial Timesは、この発言についてもう一段踏み込んだ観測を伝えています。トランプ大統領が経済的な圧力を強める中、イラン内部では紛争継続をめぐる議論が起きているというのです。
革命防衛隊など軍部は圧力への抵抗を訴える一方、ペゼシュキアン大統領や対米交渉を率いるガリバフ国会議長らは、国民の苦境がこれ以上深刻化することを懸念しているとされています。
「強気の言葉の裏側で、指導部の足並みが必ずしも揃っていない可能性がある」
これは交渉相手を見極める上で、非常に重要な手がかりです。相手が一枚岩でないとき、外からの圧力は指導部内の対立を先鋭化させる場合もあれば、逆に外圧への反発でまとまりを取り戻させてしまう場合もあります。
どちらに転ぶかは、今後のイラン国内の力学次第でしょう。
こうした構図の中、当のホルムズ海峡はどうなっているか。
オマーンが仲介役として動いています。実はオマーン外務省は8月21日の時点で、バドル外務大臣がアラグチ外相と電話会談し、封鎖状態が続くホルムズ海峡の開放に向けた調整や対話の環境整備について協議したと発表していました。
もっとも、イランは海峡開放の条件として、これまでの戦闘で生じた被害の補償や制裁解除を米政権に求めるなど、強気の姿勢を崩していません。
トランプ大統領は8月17日、FOXニュースで「オマーンが米イランの交渉を邪魔したら徹底的に攻撃する」と述べ、米国の意に沿わない取り決めを結ばないよう、あらかじめくぎを刺しています。
仲介役のオマーンは、米国からイランの海峡支配に加担しないよう圧力をかけられる一方、イランとの対話も続けなければならないという、まさに板挟みの立場に置かれているわけです。
そうした中、8月25日には、オマーンのバドル外相がテヘランを訪れ、アラグチ外相と暫定航路の共同設置や機雷除去の共同プロジェクトについて協議しました。
「実務的かつ協力的な理解」を深める方針では一致したものの、恒久的な航路管理は「適切な時期」に決めるとされ、具体的な結論は先送りされています。
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■「建前と実際の力関係の乖離」という国際社会の危うさ
ここで起きているのは、イランが海峡を一方的に閉め続けているという単純な図式ではありません。むしろ、海峡の利用条件そのものを交渉カードとして使い、開放の見返りに被害補償や制裁解除を引き出そうとする駆け引きだと捉えた方が、実態に近いはずです。
トランプ大統領は8月25日、SNSで「ホルムズ海峡の国際水域からすべての機雷が除去された」と投稿しましたが、これを裏付ける証拠や具体的なデータは示されていません。
私は、この投稿を額面通りに受け取るべきではないと考えています。交渉の現場では、片方が一方的に「解決した」と宣言することで、既成事実化を狙うという手法がしばしば使われるからです。
実際に海峡が安全に開いているかどうかは、今後の船舶の動きで確認していく必要があります。
8月27日時点のKpler社のデータによれば、ホルムズ海峡を通過した確認可能な貨物船は10隻。前日の8隻からは増えたものの、直近10日間の平均である約15隻にはまだ届いていません。タンカーへの攻撃も報告されており、「完全に安全に開いた」とは、少なくとも8月27日現在、まだ言い切れない状況です。
なお、通航料をめぐる議論は、ホルムズ海峡だけの話ではありません。
インドネシアでは4月、プルバヤ財務相が「マラッカ海峡でもマレーシア、シンガポールで領域を分けながら徴収すれば、悪い考えではないはずだ」と持論を展開し、周辺国の反発を招いています。シンガポールとマレーシアからの抗議を受け、インドネシアのスギオノ外相も「UNCLOS(国連海洋法条約)。に矛盾し実行する考えはない」と火消しに回りましたが、一度出てしまった発想は簡単には消えません。
OECDの執行委員会議長を務めたトルコのミトハット・レンデ元大使は、こうした通航料構想について「国際海事機関(IMO)の承認がなければ、いかなる国も通航に係る料金を徴収することはできない」と指摘しています。
ただし、これは一人の識者の見解であり、国際法の確立した一般論として断定できるものではありません。ホルムズ海峡のような国際海峡で沿岸国が一方的に通航料を課すことがどこまで許されるのかは、UNCLOS(国連海洋法条約)が定める「通過通航権」(国際海峡を通過する船舶が沿岸国の許可なく通航できる権利)と、沿岸国の権限との関係を含めて、慎重な検討が必要な論点です。
建前と実際の力関係が乖離し始めていることこそが、今の世界の危うさだと感じています。
ビジネスの現場に引き寄せて申し上げるなら、ここで問われているのは、原油価格そのものよりも「保険」の値段です。海峡の安全性に関する情報が錯綜している間、海上保険料や傭船料にも上昇圧力がかかります。
政府の発表を鵜呑みにせず、実際の船舶保険市場やタンカーの航行実績データを自前で追うことができる企業ほど、この種の情報戦において優位に立てるはずです。
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【2.入植地と孤立-イスラエルの一手】
中東のもう一つの焦点は、イスラエルによるヨルダン川西岸への入植加速です。
イスラエル政府は8月18日、東エルサレムと西岸の大規模入植地を結ぶ「E1」計画で、1,234戸分の住宅建設に向けた入札を公示しました。入札期限は10月19日に設定されていますが、これは10月27日に予定される総選挙のわずか8日前です。
極右勢力との連携維持を選挙戦略の軸に据えるネタニヤフ政権にとって、これは選挙を意識した政治的メッセージと見る余地があります。
この計画に対しては、サウジアラビア、カタール、ヨルダン、UAE、インドネシア、パキスタンを含むイスラム諸国8カ国が8月21日、改めて反対を表明しました。英仏独をはじめとする欧州11カ国も同様の共同声明を出しています。米国務省の報道官も「米国はヨルダン川西岸の併合を支持していない」と述べていますが、計画そのものを止める具体的な行動には至っていません。
E1計画が実現すれば、東エルサレムと西岸南部の間でパレスチナ人の移動が事実上困難になり、将来のパレスチナ国家樹立を地理的に阻む形になります。国連安保理決議や国際司法裁判所の見解などでは、占領地におけるイスラエルの入植政策は国際法に反すると位置づけられていますが、イスラエル史上最も右寄りとされる現政権は、批判の声を受けながらも計画を進める構えを崩していません。
ガザの停戦協議も、決して順調とは言えません。国際危機グループク(ICG)がまとめた最新の分析によれば、停戦の「第2段階」への移行は長期にわたって停滞したままです。米シンクタンクJストリートの追跡報告によると、トランプ大統領が主導する「Board of Peace(和平理事会。国連安保理決議2803号が設立を歓迎した組織です)」の枠組みの下でも、履行をめぐる実質的な停滞が続いています。
7月30日から31日にかけて、エジプト、カタール、トルコ、米国の仲介でハマスの武装解除に向けた「ロードマップ」が合意され、和平理事会は自らの声明でこれを「歴史的な合意」と表現しました。
しかし、実際にイスラエル軍の撤収や武装解除がどこまで進んでいるかは、本稿執筆時点でもなお不透明です。7月だけでガザでは152人が死亡し、これは今年に入ってから最悪の月間死者数だったといいます。
合意文書に署名すること自体は、実は交渉の中で最も簡単な部分に属します。本当に難しいのは、その合意を実行に移す段階です。
指導者個人の政治的な立場、支持基盤の利害、選挙という制約──こうした要素が絡み合うと、合意した内容と実際に実行できる内容の間に、埋めがたい溝が生まれます。イスラエルの入植加速とガザの履行停滞には、まさにこの溝が表れています。
「交渉相手が署名した合意書の中身だけを見て安心するのではなく、その相手が国内でどれだけの実行余力を持っているかまで見極める」
これも、私たち調停官が現場で常に問われる仕事の一つです。
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【3.外交官ではなく、情報機関トップが来た-モスクワの4時間】
今週、私が最も注目した出来事は、CIAのジョン・ラトクリフ長官がモスクワを電撃訪問したことです。米CBSニュースなどが8月25日に報じたところによると、ラトクリフ氏は23日に米国を出発し、ロシアとウクライナの和平協議を進めるための訪露と見られています。
興味深いのは、その直前まで訪露していたインドのジャイシャンカル外相がモスクワを離れた数時間後に、ラトクリフ氏が入れ替わりで到着したという点です。
この微妙なタイミングをめぐって、様々な憶測が飛び交いました。8月26日、ロシアのペスコフ大統領報道官は訪問の事実を認め、「両国の情報機関の接触」が目的だったと説明しました。
本稿執筆後の8月27日、ロシア対外情報庁(SVR:対外諜報を担う機関で、日本でいえば内閣情報調査室に近い役回りです)のナルイシキン長官自身が、ラトクリフ長官との「実務レベルの会談」があったことを認めました。
ここまでは確認済みの事実です。一方、米側がNATO加盟国への攻撃をめぐる警告を伝えたとの報道もありますが、これは本稿執筆時点で米露いずれからも確認されていません。
「確認済み/報道/未確認」を切り分けて読むこと。それこそが、この手の話を扱う上での最低限の作法だと考えています。
ちなみに、プーチン大統領との会談はなかったとされています。しかし、情報機関トップ同士の協議が行われた以上、私たちが注目すべきなのは、表に出た会談相手だけではありません。
CIA長官のロシア訪問が明らかになったのは、2022年のウクライナ侵攻後、今回が初めてです。CIA、国防総省、米空軍のいずれも、訪問の中身については公式にコメントしていません。
私自身、この訪問についていくつかの見立てを書きました。ポイントは「誰が来たか」です。
ラトクリフ氏は外交官ではありません。CIA長官であり、これまでの発言をみてみると、プーチン政権に融和的な人物でもありません。
外交官が来るときと、情報機関のトップが来るときとでは、国家間コミュニケーションの意味が根本的に異なります。外交官は「条件」を話し合うために来ます。情報機関のトップが動くときには、外交官とは異なる情報・安全保障チャンネルが使われている可能性があります。
情報交換、危機管理、秘密交渉、軍事上のシグナル─今回がそのどれに当たるのかは分かりませんが、少なくとも通常の外交ルートとは別の回路が開かれたという事実そのものが、一つのメッセージです。
ここには、無視できない前例があります。前回、CIA長官がモスクワを訪れたのは2021年11月、当時のウィリアム・バーンズ長官によるものでした。
ロシア軍がウクライナ国境に集結を進める中でモスクワ入りし、侵攻に踏み切った場合の重大な結果について、プーチン政権に警告したとされています。その約3カ月後、ロシアは全面侵攻を開始しました。
今回のラトクリフ訪露が同じ目的だったという証拠はどこにもありません。しかし、この符合を無視することもまた、できないのです。
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■攻撃の応酬で拡大の一途をたどる民間人の犠牲
ロシアの軍事系ブロガーたちの反応も割れています。一つ目は、米国がウクライナ支援を見直す条件交渉に入ったという、いくぶん願望めいた解釈です。二つ目は、ロシア側が何らかの譲歩案を提示し、米国がそれを真剣に検討し始めたという解釈。三つ目が、ラトクリフ氏は最後通牒を携えて来たのではないか、という見方です。
あるロシア系チャンネルは、これまで交渉を担ってきたウィトコフ氏やクシュナー氏を「外交的道化師」と揶揄し、情報機関トップは「重大な力を代表する人物だ」と評しています。言葉遣いの是非はさておき、分析の切り口としては的を射ていると思います。
いずれにせよ、これらはすべて未確認の憶測であり、事実として確定しているわけではないことは、はっきり申し上げておきたいと思います。
実は、Reutersがもう一つ気になる経路情報を報じています。米国は今回の高官訪露に先立ち、ウクライナ側に訪露の事実を通告し、ロシア滞在中は同国内の一部地域への攻撃を控えるよう要請していたといいます。これが事実であれば、単なる非公式訪問以上の重みを、米国側がこの訪問に置いていたことを示唆します。
もっとも、当事者による公式な確認は得られていません。
この間も、戦場の力学は変わらず動いています。ウクライナはロシア領内への長距離攻撃を強め、今年4月からはロシア奥地の重要インフラを狙う攻撃を本格化させました。モスクワ近郊をはじめ各地の製油所を攻撃し、7月にはウクライナ国境から2,500キロ離れたロシア最大級のオムスク製油所にまで打撃を与えています。さらにウクライナは、ロシアの通販最大手級であるオゾン社の物流拠点にも攻撃を広げ、8月24日までの3日間、連続してドローン攻撃の被害が出ました。
ロシア政府はこれを受けて、安全対策が不十分な重要インフラを政府の管理下に置くことを可能にする大統領令を発表しています。プーチン大統領は8月22日の国営テレビのインタビューで、ウクライナがロシア経済の弱体化を試み「パンドラの箱を開けた」と述べ、報復と称して攻撃を強めると警告しました。
こうした攻撃の応酬は、民間人の犠牲を確実に拡大させています。国連ウクライナ人権監視団によれば、7月にウクライナで死傷した民間人は死者437人、負傷者2,610人にのぼり、前月から3割、前年同月から7割増加したといいます。
ロシア外務省は逆に、7月のウクライナの無人機攻撃でロシア側の民間人201人が死亡、1,441人が負傷したと主張しています。数字の出所によって食い違いはありますが、どちらの主張を採るにせよ、民間人の犠牲が拡大の一途をたどっているという方向性そのものは動きません。
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■兵士不足を技術で補うウクライナが変える戦争の性格
そんな中、ウクライナは8月24日の独立35年記念日に、兵士や戦車の代わりに、ドローン部隊を中心とする軍事パレードを実施しました。実戦投入されている陸海空のドローンおよそ100機が参加し、水上ドローンがドニプロ川を航行、無人地上車両が首都キーウの中心部を走行したといいます。
ウクライナ大統領府は、ウクライナ国内で初めてのドローン中心の軍事パレードだったと発表しており、ウクライナ側は世界初とも位置づけています。ゼレンスキー大統領は「完全に新しい防衛産業を築き上げた」と強調し、この分野で蓄積した技術と知見を、パートナー諸国に提供する用意があると表明しています。
「兵士不足という制約を、技術で補う」
この転換自体が、この戦争の性格を変えつつあると私は見ています。
英国も動きました。8月24日、バーナム英首相はマクロン仏大統領、メルツ独首相とともにキーウを訪れ、ウクライナ支援有志国連合の会議に出席しています。
英国政府は同日、長距離巡航ミサイル「ストームシャドー」(フランスでは「スカルプ」と呼ばれます)の現地生産に向け、搭載される英国製部品の機密情報を開示すると発表しました。バーナム首相は「英国が必要とされる限り、ウクライナ国民の味方であることに疑いの余地はない」と述べています。
一方でロシア側は、フィンランドのストゥブ大統領がウクライナによるロシア領内攻撃を支持したことについて、同大統領を「戦争派」だと非難しました。ペスコフ報道官は「わずか数週間前にフィンランド大統領がロシアとの関係正常化の必要性に言及していたことを考えれば、驚き以外の反応はあり得ない」と語っています。
支援する側と支援される側、双方の姿勢が、少しずつ先鋭化しているように見えます。
今週のロシアについては、少し違う角度からの論考もご紹介しておきます。日本経済新聞・中外時評(8月25日付、田中孝幸論説委員)が興味深い視点を提示していました。
ワグネル創設者で2023年8月に航空機事故で死亡した(暗殺説もあります)エフゲニー・プリゴジン氏が、武装反乱直前の2023年5月に語った見通しが、結果的に的中し続けているという指摘です。あくまで論説委員の切り口であり、当時の発言をどう位置づけるかには幅があることを前置きした上でご紹介します。
プリゴジン氏は当時、「ウクライナ軍はミサイル供与と部隊訓練を受け攻勢を続け、クリミア橋を狙い、我々の補給路を断つ」と予測していました。実際にウクライナはこの3年でドローンとミサイルの生産能力を驚異的なペースで引き上げ、ロシア領内の製油所や物流拠点への長距離攻撃を続けています。
先ほど触れたオムスク製油所への攻撃は、まさにこの延長線上にある出来事です。
プリゴジン氏は「ウクライナの非軍事化を目指した結果、逆にウクライナを軍事化してしまった」とも語っており、この指摘も的中したと論説は評価しています。
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■ロシア史に残る「悪役」の予言はどこまで的中し続けるか
「北朝鮮のやり方を見習う必要がある」という発言についても、経済の軍事シフトやネット空間の統制、そして北朝鮮による万単位の派兵という形で、ロシアの「北朝鮮化」が着実に進んでいます。
兵員損耗の悪化も、プリゴジン氏は予見していたとされます。英国防省の推計では、ロシア軍の月間死傷者は2023年の平均約2万人から、2025年には約3万5,000人にまで増加しました。
米戦争研究所(ISW)は、戦果の誇張が現場から最高指導部に上がる構造的な問題として、2024年から26年にかけて一段と顕在化していると分析しています。
「忖度に基づく虚偽の戦況情報が最高指導部に上がり、誤った命令につながる」
これは軍事組織に限らず、あらゆる大きな組織が陥りうる病理だと、私は思います。上に立つ者が本当のことを聞けなくなったとき、組織はもっとも脆くなるのです。
プリゴジン氏が語った最も踏み込んだ予言は、貧困層出身の兵士が大量死する一方でエリート層が利権で肥え太る構造が、「1917年のロシア革命のように、革命によって終わる可能性がある」というものでした。これについては、論説が執筆された8月25日時点でも、まだ実現していないとはっきり書かれています。深刻な兵員不足を受け、今秋にも市民への大規模動員令が出るとの観測もありますが、これもあくまで観測の域を出ません。
開戦から4年半が過ぎ、プーチン氏が政変防止のために重視してきた首都モスクワなど都市部の市民生活にも、燃料不足やインフレといった戦争の影が広がりつつあることは事実です。
ロシア史に残る「悪役」による死の直前の予言が、どこまで的中し続けるのか。それは今後数カ月の展開を見なければ分かりません。
皆さんに申し上げたいのは、交渉相手のテーブルに「誰が座っているか」を、常に意識していただきたいということです。相手側の代表団に、政治家だけでなく情報機関や軍の関係者が同席し始めたら、それは交渉の性質そのものが変わったサインかもしれません。
「条件を詰める段階から、相手が持つ情報量を前提とした駆け引きの段階へ」
この転換を見誤ると、こちらだけが旧来の交渉モードのまま取り残されることになりかねません――(メルマガ『最後の調停官 島田久仁彦が読み解く国際情勢の裏側戦略インテリジェンス・レポート』2026年8月28日号より一部抜粋。全文をお読みになりたい方は初月無料のお試し購読をご登録ください)
この記事の著者・島田久仁彦さんの新創刊メルマガ
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