モノがあふれるいま、「これだけは手放せない」と胸を張って言える道具は、どれくらいあるでしょうか。
暮らしの達人たちに話を聞きながら、数ある選択肢のなかで「なぜそれが手元に残り続けているのか」を、その人の価値観や暮らしとともに紐解いてきました。
今回はその特別編。ひとつのアイテムを長年かけて愛でるのではなく、「左右分割キーボード」というディープなジャンルそのものに魅了され、ついには自らキーボードをつくるまでになった人を紹介します。
訪ねたのは、「ギズモード・ジャパン」に所属する編集者・中橋さん。
話を伺うデスクの上に並ぶのは、初見ではキーボードと認識することすら難しい、左右に真っ二つに分かれたプロダクトたち。
一枚につながったキーボードに両手を寄せて文字を打つ。そんな当たり前を、中橋さんはなぜ手放したのでしょうか。
Keychronとのコラボモデル「Keychron Orca echo」をつくるまでの、長いキーボード遍歴を聞きました。
道具の美しさに惹かれ、その快適さに気づくまで
中橋さんがキーボードに興味を持ったのは、大学生のころ。
もともとデスクツアー動画や海外のガジェットYouTuberのセットアップを見るのが好きで。バイト代を貯めて、ネットで見つけたKeychronの一体型キーボード「K2」を個人輸入したのが最初でした。当時はまだ国内で手軽に買えなかったので、英語で住所を打ち込んで、本当に届くのかドキドキしながら待つ時間も含めて楽しかったですね。届いた実物の、グレーと黒のツートーンの武骨な佇まいが、とにかくかっこよかったことを覚えています
Keychron K2 ワイヤレス・メカニカルキーボード
source:SUPER KOPEK
当時はMacBookに外付けして使用。US配列だったため、日本語と英語をどう切り替えるかなど、自分好みにキーマップを調整していくうちに、「道具を自分に合わせる」おもしろさにも気づいていきました。
そんな中橋さんが分割キーボードと出会ったのは、ギズモード・ジャパンに入社した日のこと。挨拶まわりをしていると、隣の席の同僚・網藤さんが、見たことのない小さなキーボードを使っていました。
「それ、なんですか?」って聞いたら、「自分でつくったんだよ」と。その瞬間、以前ネットで見かけて「なんだこれ!?」と気になっていた分割キーボードの存在が一気にフラッシュバックしました。それからすぐに最初のキットを注文しました
Corne V4 Chocolate
source:遊舎工房
そうして手に入れたのが、入門機としても知られる分割キーボード「Corne V4 Chocolate」。ところが、使い始めてみるとまったく思うように打てません。
最初の1週間は、本当にわけが分かりませんでした。そもそも普通のキーボードとは配列も異なるし、それまでは自己流のなんとなくのタイピングで打てていたのが、分割型になるとホームポジションを崩すと打てないんです。最初の数日は「無理だ!」となって普通のキーボードに戻し、翌日また2時間練習して……の繰り返しでした
苦難の末に分割キーボードでのブラインドタッチを習得すると、中橋さんはその姿勢のラクさに驚いたといいます。両手を体の中央に寄せる必要がなくなり、肩幅に合わせて自然に腕を置ける。道具に体を合わせていた窮屈さから、ふっと解放されたように感じたそうです。
自分に合うモノを探して、沼へ。分割キーボードの履歴書
一度その快適さを知ってしまうと、探求は止まりません。市販品だけでなく、個人開発者たちがつくる自作分割キーボードの世界へと入っていきました。
今回は、なかでも思い入れがあるという3モデルを見せてもらいました。
SeeGlass(シーグラス)
個人開発者・はま氏によるカスタムキーボードで、格子状の配列や狭ピッチ設計が特徴的です。キー同士の間隔が狭く、小指の外側にある列も大胆に削られたモデル。
たとえばZキーの長押しにShiftを割り当てることもできるんです。キーを増やすんじゃなくて、ソフトウェア側で工夫して減らしていく。その考え方に惹かれました
少ないキーで、どう快適に操作するか。ハードとソフトの両方からキーボードを考える楽しさを知った一台でした。
LoTom(ロトム)
個人開発者・トムネコ氏による、小型液晶ディスプレイを搭載した分割キーボード。
「LoTom」には、基板の中央に小さな液晶モニターが搭載されています。トラックボールを動かすと、画面の中の猫がその動きを目で追いかけるという遊び心も。
単に作業を効率化するだけじゃなくて、デスクの上にあるだけで愛おしくなる。そういう情緒的な要素も大切なんだと気づかせてくれた存在です
便利かどうかだけではなく、毎日触りたくなることも、道具には大切。そんな感覚を教えてくれたキーボードです。
araigma38(アライグマ38)
分割キーボード界の名機として知られる「roBa」のオープンソースデータをベースに、中橋さん自身が回路図から設計したオリジナルモデル。キー配置も自分の使い方に合わせて調整しました。
手首を自然な角度で置くと、指って少し斜めから入りますよね。その状態に合わせてキーを配置すると、小指もかなりラクに届く。最初に使ったとき、「理にかなってるな」と感動しました
既製品のなかから自分に近いものを探すのではなく、自分の体や使い方に合わせてつくる。最初の「K2」で始まったカスタマイズは、いつの間にかここまで来ていました。
「Keychron Orca echo」に込めた想い
そんな中橋さんが、Keychronと一緒につくったのが「Orca echo」です。
ただし、目指したのは「自分にとって最高の一台」ではありませんでした。
僕が使うだけなら、「araigma38」をそのまま頑丈なアルミ削り出しの筐体でつくってもらえばそれでゴールでした。でも、Keychronという世界的なブランドと一緒につくる意味はそこじゃないなと。分割キーボードという存在に惹かれつつも、はんだ付けの技術や、5万円以上かかることもあるパーツ集めのハードルに阻まれて、なかなか手を出せなかった人たちに、完成品として届けられる“広い入り口”をつくりたかったんです
自分が好きなものをそのまま形にするのではなく、初めて触れる人でも使いやすいものにする。そこが「Orca echo」の出発点でした。
体に合わせて置けることが、いちばんの魅力
左右に分かれているため、それぞれを好きな位置や角度に置ける「Orca echo」。中橋さんが分割キーボードを使い続ける理由も、まさにそこにあります。
キーボードの角度も調整できる
両手を体の中央に寄せなくてもいいので、肩幅に合わせて置けるんです。机の上での位置や角度も、自分に合わせて調整できる。道具に体を合わせるんじゃなくて、道具のほうを体に合わせられます
マウスに手を伸ばさなくてもいい
左右に分かれる「Orca echo」の中央部には、スクロールホイールとトラックボールが搭載されています。
左:スクロールホイール、右:トラックボール
ノートPCから外付けキーボードに変えたとき、意外と困るのがトラックパッドがなくなることなんです。マウスに手を伸ばすワンアクションが増えるだけで、結局外付けキーボードを使わなくなることも。だからこそ、親指の動きでカーソル操作やスクロールができるようにしています。なるべく手を大きく動かさないことには、かなりこだわりました
左右が合体する「マグネット設計」
キーボードの弱点とされてきた、持ち運びのわずらわしさも解消。左右のパーツ同士がマグネットでパチッと合体し、ひとつにまとまる仕様にしました。
カバンに入れて、どこへでも持っていけるようにしたかったんです。出先でもノートPCをスタンドに置いて、その手前に「Orca echo」を置けば、普段に近い環境で作業できます
「Orca echo」で、キーボード探しは終わる?
ここまで理想を詰め込んだ一台ができたら、中橋さんのキーボード探求も終わるのでしょうか。聞いてみると、即答でした。
絶対終わりませんね(笑)。むしろ、ここからがスタートだと思っています。これは購入してくれた人にも言えることだと思っていて。僕が「Corne V4 Chocolate」で沼に落ちたように、「Orca echo」を手にした人が、「もっと自分に合う配列は?」「自作の世界ってどうなってるの?」と興味を持つきっかけになってくれたら最高です
「Orca(シャチ)」という名前にも、そんな思いが込められています。
ホワイト・ブラックのカラーバリエーション
シャチは、その高い知能から一部で「海の案内人」や「海の守護者」と呼ばれていたそうです。分割キーボードって、初めて触る人にとってはちょっと勇気のいる世界。だから、このキーボードがその世界への案内人になってくれたらいいなと思って名付けました
普段何気なく使っている、一枚につながった長方形のキーボード。それが本当に、自分にとっていちばん使いやすい形なのか。中橋さんの話を聞いていると、そんな当たり前を少しだけ疑ってみたくなります。
左右に分かれた「Keychron Orca echo」の間に広がる、すっきりと開いた胸元のスペース。そこに生まれるゆとりは、使う人の思考をもっと自由なものにしてくれるはずです。
ただし、どうかお気をつけを。私たちの作業環境を快適にするために生まれたシャチは、賢い案内人であると同時に、そのままディープな“分割キーボードの沼”へと引きずり込む手練れのハンターでもあるのですから。
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提供元:ROOMIE