ソニー元社長の安藤国威さんと、Google日本法人元社長の辻野晃一郎さんが、「LIFE SHIFT:人生百年時代を迎えて ─ 今なお挑戦し続ける理由」をテーマに語り合う特別対談の第二回。今回は、米国赴任時代に岩間和夫さんから「PLを持て」と言われた思い出から、井深大さんと盛田昭夫さんに学んだフラットで自由闊達な経営哲学までを語ります。さらに、辞表を出した安藤さんが盛田さんの訪問で思いとどまった舞台裏も明かされます。メルマガ『グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中』では今年5月から5回にわたって、メルマガ創刊3周年記念企画として、ソニー元社長の安藤国威さんとメルマガ著者の辻野さんによる特別対談を公開しました。その対談の第二回をご紹介いたします。今回は、井深大さんとの忘れられないエピソードからVAIO誕生秘話までを振り返ります。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです
【関連】【特別対談】ソニー元社長・安藤国威氏、Google日本法人元社長・辻野晃一郎氏が振り返る、創業者たちと過ごした黄金時代のソニー【第一回】
【安藤国威 × 辻野晃一郎】LIFE SHIFT:人生百年時代を迎えて ─ 今なお挑戦し続ける理由 Vol.2
(前回は、安藤さんのソニーとの出会いから、アメリカの社長だったハービー・シャインが解任されたところまでのお話でした)
初めての米国赴任時代、岩間さんに「PLを持て」と言われる
辻野: その後がマイケル・シュルホフ(* 注)になるんですか?(* 注:ソニーアメリカの元社長で、大賀さんの覚えがめでたかった人ですが、それをよいことに、大賀さんの言うことしか聞かず、ソニーアメリカを半ば私物化していて評判の悪い人でした。私も若い頃に何度か直接やり取りしたことがありますが、私が接した限りでは大変高慢な人物という印象でした。出井さんが社長になるとすぐに失脚しました)
安藤: ミッキー(シュルホフ)はね、もともとハービー・シャインがCBSから連れてきてたんだよね。で、ハービーから可愛がられていて、ミッキーと僕は同じ歳なんだけれど、僕がアメリカに行ったときには、ミッキーは既に堂々としたボードメンバーだったんです。
辻野: ハービーの右腕だったんですか?
安藤: 右腕とまでは言わないけど、ソニーアメリカのエクゼクティブ・ボード(経営会議)では、いろいろハービーに助言したりしていた。僕はハービーのアシスタントだったんでボードの事務局的な役回りでした。でも、ミッキーはビジネスを成功させた経験は特にないんです。ハービー・シャインの後は、レイ・スタイナーという販売部門のトップが社長になったんだけど、その頃日本から岩間さん(岩間和夫氏、CCDを開発した技術者で4代目社長)が出張されて来て、当時、岩間さんはアメリカの会長も兼任していたのですが、二人でエレベーターに乗った時に、岩間さんから「君は今何をやっているのか」と聞かれたんです。「マーケットプランニングをやっています」と答えたら、「ダメだ、PLを持て」と言われた。「自分で事業責任を持て」ということだったと思います。それを聞いて僕は、「いや、もちろん持ちたいんですが、今のところそんなチャンスはないんです」と言ったら、「よし、わかった」ということで、結局、サービス・パーツ部門のPLを持つことになった。
それまではミッキーがサービス・パーツの責任者だったんだけれども、彼がビジネスマシンという事業ユニットの責任者になったので、その後を「僕がやります」と手を挙げたわけです。でもね、サービス・パーツっていうと、当時は「士農工商、サービス・パーツ」なんて言われてた(笑)。一番上が開発のエンジニア、次が製造、その次が販売、そして最後がサービス・パーツっていう感じでね、もう一番下(笑)。
辻野: それはなんだか私が初めてPL持った時の話とよく似ていますね。私の時は、「士農工商、半導体、デスクトップ」なんて言われていたんです(笑)。デスクトップパソコンは、世界で最もつまらなくて最も儲からないビジネスとされていました。
安藤: ワッハッハ、なんでも序列が付くもんだね、そうそう、デスクトップはそうだったかも知れないね(笑)。
辻野: だったら面白くて儲かるビジネスにしてやろうじゃないか、と逆に闘志が湧きましたけどね(笑)。
井深さんの凄さを感じた忘れ難いエピソード
安藤: いいね(笑)。本当にさまざまなエピソードがあるけど、井深さんと盛田さんの話に戻ると、2人に共通した凄いところがありました。たしか、あらかじめもらっていた質問の中に、「2人と接してもっとも凄いと思ったことについて」というのがありませんでしたっけ。
辻野: はい、あります。
安藤: あの2人は世界的な経営者ですよね。会社は毎年50%くらいずつ伸びていて、さっきも言ったように、入社した年の前年の売上は712億円だったのが、入社した年にはもう1080億円になって、あっという間に(松下や東芝などと)距離が詰まっていくわけですね。でもあの2人はね、会社がどんどん大きくなっていっても、まったく偉ぶるようなところがなかったし、若い人を緊張させてモノを言えなくするようなところがまったくなかったんです。誰に対しても、肩書とか年齢とか関係なしに、お互いに「さん」付けで呼び合うわけだし、さっきも言ったように、エンジニアのたわいのない夢を大事にしているわけだしね。
エピソードとして面白いのは、ある時、井深さんがIEEE(アイ・トリプル・イー、Institute of Electrical and Electronics Engineers)でスピーチするときに、スピーチ原稿を作るのを手伝ってくれと言われてね、軽井沢で一緒にスピーチの準備をすることになった。するとね、僕が軽井沢に到着すると井深さんは既にスピーチの原稿を自分で作っていて、それを読んでおくように言われて、その間に井深さんはゴルフに行っちゃった。
「すごいな、もうこんなに書いちゃったんだ」なんて思いながらその原稿を読んで勝手に手直ししたのですが、井深さんが戻ってきてから2人で一緒に仕上げの作業をしたんです。その時、井深さんはこっちの言うことをとても良く聞いてくれてね、「それはいいアイデアだね」とか言いながら、井深さんも自分の考えをいろいろ言うわけです。井深さんはこちらの言うことを全部聞きながら、そして自分の考えもこっちに伝えながら、スピーチをまったく対等な立場で仕上げていくわけです。
そのスピーチはカナダでやったんだけど、僕は随いていかなかった。そしたら、スピーチが大好評だったということで、夜中に井深さんから自宅に電話が掛かってきたんです。「君と一緒に作った原稿がとても評判が良かったよ」ということを僕に伝えるために、わざわざ夜中に国際電話を掛けてきてくれたんですよ。そういう人でした。
フラットで自由闊達な企業カルチャーが強みの原点
安藤: ソニーでは、「誰が言ったか」が大事なんじゃなくて、「何を言ったか」が大事だということで、井深さんと盛田さんは実際にそういうスタイルでした。だから僕のスタイルもこの2人から学んだもので、よく「安藤さんは、若い頃は凄く生意気だったけど、今は本当に腰が低い」なんていわれるんですが(笑)、僕は学生に対しても誰に対しても全く同じようにフラットに、相手目線で接するものだから驚かれることもあるんだけど、これはまさに2人から学んだことなんです。これこそがソニーのカルチャーで、やはり組織のカルチャーとか価値観というのは大切で、カルチャーに合った人を集めれば、同じ方向を向いてどんどんいい商品が出来る。僕のマネジメントスタイルも、経営哲学的なものも、まさに初期の頃に井深さんと盛田さんから直接学んだものなんです。
辻野: なるほど。やはり、誰であろうと分け隔てすることなく、自由闊達にモノを言わせるような企業カルチャーが、ソニーの伝統的な強みの原点と思われますか?
安藤: やっぱりそう思いますね。「人の技術とか能力を最高度に発揮さしめる理想的な環境を作る、それがソニーだ」みたいなところがね。
辻野: 当時から、ヒエラルキーのようなものを嫌ってフラットだったということですね。
安藤: 井深さんが仰っていた「プロジェクマネージメントトシステム」というのがあるんです。井深さんは確かに全体の総合プロデューサーだけれども、現場にそれぞれリーダー、つまり現場のプロデューサーがいて、その人がどんなに若くても、そのプロデューサーを仕切り役にみんながいろんな意見を言い合いながらプロジェクトをどんどん良くしてどんどん変えていくというようなね、しかもシリーズにやるんじゃなくて、可能性のあるいくつものアイディアをパラに動かしていくような、そういうスタイルでした。
CCD(Charge-Coupled Device、電荷結合素子)にしてもね、中研(旧ソニー中央研究所)で岩間さんだけがやっていたわけではなくて、厚木でもやってたし、いくつかバラバラにやっていた。でも、最初からそれらを収斂させるのではなくて、最初はそれぞれに任せて、ある程度のところまでは互いに競争させ、それであるレベルに達した時に、一番いいものを選んで後はダーッと一挙に行くようなね、それが井深さん流のやり方だったよね。
今は、日本企業は意思決定も遅いし、スピード感が無いって言われるけど、でもソニーは意思決定も早かったし、とにかくスピード感が違いましたよね。いろんなことをパラに進行しながら、行くとなったら一気に行くみたいなね。
グーグルにも通底する現場の自律性を尊重するスタイル
辻野: そのあたりはすごく現代的というか、当時から日本企業は、官僚組織じゃないけどピラミッド型で、さきほどの重厚長大の企業などは階層構造が盤石で、フラットなマネジメントとは程遠かったわけですからね。
安藤: そうだよね。トリクルダウンなんて言いますけど、ウォーターフォール、上から流れてくるものを下はやってるみたいなね、でもソニーはまったくそんなんじゃなかったですね。
辻野: グーグルに行ったときに、「あ、なんだか昔のソニーみたいだな」と思ったんですけど、まさにインターネットのネイチャーに合わせたようなフルフラットなスタイルでした。基本的に現場に権限が委譲されていて、現場が自律的に動いていましたね。似て非なるプロジェクトも、トップが力づくで統合したり強制終了するようなことはなく、市場の判断に任せる、というやり方で、トップダウンを何より嫌い、肩書で威張るような人は軽蔑の対象でした。
安藤: あー、そうでしょうね。それで最終的にはトップが責任取って「これで行け」って言ったら後は一気にバーッと行けばいいわけですからね。ソニーは当初からそういう面が素晴らしくてね、よく「イノベーション」ということを語るときに、「理想的な組織はどうあるべきか」なんていうことを聞かれるけど、僕に言わせると、当時の井深さん時代のソニーっていうのは、理想的だったと思うんです。
というのは、井深さんは高いゴールを設定するわけですよね。そうすると、「井深さんがやりたいのはこういうことですか?」なんて言いながら、プロトタイプを紙で作って翌日持ってくるようなエンジニアがパッと出てきて、その紙のプロトタイプを前に、「ああでもないこうでもない」と言いながら最終商品のイメージを固めて行くわけですね。その時、みんながデザイン思考的なんですね。最初からマーケティングをやっている盛田さんもいれば、工場の人もいるという感じでね。
ITの時のこと(VAIOなどを担当したITカンパニー)を覚えていると思うけど、月に一度、事業部、工場、営業、サービスなど、みんなを一同に集めて会議をしてましたよね。一度そこでカンパニーとして意思決定したら、あとは余計な会議や折衝は必要なかった。
垂直にも水平にもみんなが一体となる「超連結」グローバル経営
辻野: はい、しかも海外とも繋いでいましたね。
安藤: そう、海外もつなげて全員参加のグローバル会議をやって、そこで全部決めていた。ああいうスタイルの原型はもともと井深さんとか盛田さんがやっていたわけです。
辻野: 私は、あのスタイルこそ安藤流マネジメントというか、安藤さんが作り上げた独特の超連結グローバルマネージメントだと思っていました。
安藤: うん、独創的な部分はあるんだけど、でも原型は井深さんとかがそういうスタイルでやってたんです。でも、そういうことをだんだんやらなくなっちゃうんですよね。なんでなんだろうね。まあ、同じ家庭で育っても兄弟みんな性格が違うわけだからね(笑)。でも、僕は自分だけは井深流をちゃんとわかっているという自負がありましたね。
それと、伝統的なAVの世界だと、イベント管理なんて言っていて、商品企画から始まって製造ラインで完成するまで明快な手順が決められていたんですけど、やり方が固定化してしまってたんだよね。でも外部環境はどんどん変化しているわけだから、慣習をどんどん破んなきゃならないときに、同じことやっていてもダメだと僕は思っていたので、VAIOをやることになった時にはチャンスと思って、超連結とか全く新しいオペレーションにチャレンジしたわけだよね。
辻野: 共鳴したんでしょうね。すなわち、安藤さんがもともと持っておられるスピリットと、井深・盛田のスピリットが非常に親和性が良くて共鳴したということなのかもしれませんね。
安藤: そうそう、そう思いますね。「あ、これなんだ!」と本当に思いましたからね。
「Research makes the difference」の下に集まる人材
辻野: さて、ソニーの強みに関して、企業カルチャーに根差した部分のお話を伺ってきたんですが、当時ソニーは技術力という面でもやはり優れていたんですか?
安藤: 最初はやはり技術が強いからカルチャーも出来たし、人も育ったのだと思います。僕が入社した時のソニーのスローガンは、「Research makes the difference」でしたからね。「It’s a Sony」が使われるずっと前の話です。「探求こそが命」みたいな話ですよね。スティーブ・ジョブズが「Think different」なんて言い出すよりもずっと前に、differenceという言葉を使っていたんですからね。
Researchっていう言葉を使うこと自体、技術の分野では、「今までなかったものを生み出す」ということを表しますよね。今までなかったものを発見したり、生み出したりして、それが差別化なんだ、というようなね。だから、このスローガンはソニーの原点だと思いますね。
辻野: まだ会社が小さかった時代に、木原さん(木原信敏氏、元ソニー専務)はじめ優秀なエンジニアがたくさんソニーに入ってきた理由はどこにあったんですか?当時だとその手の人たちはみんな大手に行きそうなものですが。
安藤: そうですよね。ほっておいたらみんな大手に行くんですが、人材集めに一番尽力したのは岩間さんだと聞いてますね。岩間さんが自ら大学を回って、「とにかくインターンに来い」と誘ったようです。だから、森尾さん(森尾稔氏、ソニー元副社長)とかもみんな最初はインターンで入ったと聞いてます。それで入ってみると、実に面白いということと、「卒業したらウチに来いよ来いよ」と盛んに誘われるものだから、「じゃあ、行こうか」となっていたみたいですよ(笑)。あの時代に東大出た人が新卒で入ってくるとかは本当に稀なケースですからね。当時の東大の卒業生名簿とかには就職先も全部出ていたのですけれど、日立とか東芝なんかはもう何ページもあるんですよ。ソニーはどこにあるんだろうなんて探してもほんの僅か、半ページにも満たないわけです(笑)。「そうか、先輩はこれしかいないのか」って感じでしたよ。もちろん中途採用なんかでも入りましたが、新卒なんてほんとに僅かで、しかも全部エンジニアでしたね。
辻野: 私がグーグルに入った時は、グーグルもまだまだ小さな会社で、日本法人には200人もいるかいないかくらいの時で、なんだか都落ちするような気分にもなりました(笑)。しかし、それがあっという間に巨大IT企業として世界に君臨する存在になったわけですから、まさにそんな感じですよね。居並ぶ財閥系の大企業の中に新興企業のソニーが出てきて、それがあっという間に世界を席捲する大企業に成長したわけですからね。
安藤: そう、そんな感じ。進取の気性と、それを良しとするエンジニアたちがいてね、そして入ってくる人たちはみんな変わってましたよね。奇人変人の類がいっぱいいるわけですよ。そういう人たちがギャンギャン言い合っていて、それを良しとする文化だったわけですよね。
ところが、僕が社長になった頃には、「親が子供を入れたい会社ナンバー1」とかになるわけで、そうなってくると、入ってくる人たちはみんな真面目な優等生ばっかりになってしまうので、人事に「何とかしろよ」なんてことも言ってました。でも、それでもね、やっぱりソニーに入ってくる人たちは一味違う人たちがたくさんいますよね。それは今でもそう思います。面白いよね。
VAIOをやることになるまでの初公開秘話
辻野: VAIOをやれといきなり言われた時の安藤さんの心境はどうだったんですか?
安藤: いや、もうとんでもないと思ったし、驚きましたよね。この辺に関してはね、今でこそ言える話がいくつもあります。今まで公になってないことでね。
僕はね、まずソニーの本社に入社して、その後、さっき(前号)も話したけど、盛田さんに言われて大崎工場に行って、次に念願かなってアメリカに行って、その次に盛田さんに急に言われて別会社(旧ソニープルデンシャル生命保険)に行って、ソニーの本社からどんどん遠ざかっていくわけですよ。そうするとね、本社から離れれば離れるほど仕事が面白くなっていくわけですね。もともとソニーという小さな会社に入った理由は、アントレプレナーになりたいというか、いつかは独立したいという思いがあってね。というのは、僕はサラリーマンとしては成功するはずがないとわかっていて、いつかは独立しようと思っていたから、小さい会社でオペレーションを一通り経験したら辞めようと思っていたんです。
特に保険をやっていた時に、中小企業経営者とたくさん接するわけですが、こういう人たちが会社を経営できるんだったら、自分ならもっとうまくできる、なんて思ったものですからね。そうした頃に、保険の事業も10年やってプルデンシャルと別れて一本立ちできたわけですし、伊庭さん(伊庭保氏、ソニー元副社長)が本社から社長としてこられて、僕は本社に戻ることになったんです。どこに戻るのかと聞いたら、「総合企画部門」ということだったんですが、「そこは、最も行きたくないところです」ということで、せっかく本社からどんどん離れて仕事も面白かったし、そろそろ独立しようかと思っていた矢先に、また本社で企画やれというわけですから、「だったら僕は辞めます」ということで、実は辞表を出したんです。
まず伊庭さんに出したら受けとってくれなくて、橋本さん(橋本綱夫氏、ソニー元副会長、人事担当)のところに持って行っても受け付けてくれなくて、それで大賀さんのところに持っていった。そしたら「どこから声が掛かってるんだ」と聞かれたので、「いや、どこからも声なんか掛かってません」と言ったら、大賀さんは、「自分はなあ、CBSソニーの時に方々から声が掛かったけど行かなかったんだ」なんて調子でね(笑)。「自分は声なんか掛かってませんが、本社に戻って来いと言われて、戻るのが嫌だから辞めるんです」と言いました。そしたらね、「そうか、でもこれは会長マターだな」ということで、盛田さんのところに行ったんです。盛田さんは、六本木のアークヒルズにもオフィスを持っていましたけど、そこに行って辞める話をしたら、「うーん」と唸ったまま何も言わないんですよね。
結局、イエスともノーとも埒が明かないから、「まあ、もう別にいいや」ということで、後は勝手に退社を発表しようとしていたら、その前日に盛田さんからうちの奥さんに電話があって、「旦那が辞めるって言ってるけど本当にいいの?」と言われてね。うちの奥さんは、「ええ、結婚する前からいつか独立するという話は聞いていて、やっと念願かなって辞めるということなのでいいんです」と答えたようで、「君にはいい奥さんがいるんだな」なんて言われちゃってね(笑)。
それで、今度は僕の家に来るって言うんですよ。以前、盛田さんのご長女の直子さんが結婚する時に、「寂しいでしょう」ということで、「花嫁の父を慰める会を僕が家でやりますから来てください」と声をかけると、盛田さんは喜んで「それは嬉しいな」と仰って、渋谷の僕のマンションに15人位招いてホームパーティーをした時、盛田さんが奥様と一緒に家に来たことがあるんです。だから、盛田さんも運転手も僕の家を知っていてね、「今晩はアメリカ大使館でパーティーがあるけど、それが終わったら君の家に行くから」ということで20:30くらいに本当に家に来られたんです。
その時に、「まだ何も決めてないんだったら、1年間給料は払うので、何もしなくていいから」という話でね。まあ、そこまで言われたら仕方がないな、ということで残ることにしたんです。で、「保険の立ち上げで盛田さんに言われて泣く泣くアメリカから日本に戻されたので、とりあえずはアメリカに戻ります」って言うと、「そうか、正明(盛田正明氏、昭夫氏の弟、ソニー元副社長)も苦労してるから助けてやってくれ」なんて言われてね。「いや、何にもしなくていいという話だから、変に期待されても困ります」と申し上げたんです。
何もしなくていいと言われて再渡米したらSEMAのトップに
安藤: でもね、それで退社の発表を取り下げて、何もしないでいいと言うので、アメリカで独立に向けてゆっくり考えようと思って渡米したら、正明会長が当時のソニーアメリカにカンパニー制度を導入して、組織をセールスカンパニーと、R&Dから製造までをまとめたSEMA(Sony Engineering and Manufacturing of America)という2つのカンパニーに分けて、結局そこのプレジデントになっちゃったんです。
辻野: 私が初めて安藤さんをお見掛けしたのが、まさにSEMAのプレジデントをやっておられた時期なんですよね。
安藤: そう、辻野さんが入られた頃は、僕は1976年に最初のアメリカ赴任で3年間アメリカに行ってから、ソニープルデンシャルに10年間いって、その後1989年から5年間、2度目のアメリカ赴任で、結局トータルで18年間、ソニー本社にはいなかったので、その間にソニーに入った人は僕のことを知らないはずなんだよね。
辻野: サンディエゴで、安藤さんが居並ぶ大勢のアメリカ人社員たちを前にしてスピーチをされているところに、たまたま出張で居合わせたんですが、その時に、アメリカ人社員たちが非常に盛り上がっていて、「あぁ、こんなに堂々と、英語も流暢で、アメリカの連中の心を掴んだ話ができる日本人がソニーにもいるんだなー」と強烈な印象を受けたことがあります。まさかその先、安藤さんの下で働く巡り合わせになるとはまだ思いもしなかった時期でしたけど、その時のことをとてもよく覚えています。
安藤: そうでしたか(笑)。SEMAが出来た時に、北米にある工場を全部寄せ集めたわけですけど、どこも工場長はほとんど日本人だったわけですよね。でね、僕は一部を除いて全員現地の人に替えたんです。それで組織の一体感を高めたんですが、日本では、大崎(当時のTV事業の拠点)では、CRT部門と製造部門の仲が悪かったりしたんですが、逆にアメリカの方が一体となってやっていて、むしろアメリカの方で製造のプラットフォームを先に作って、それを後から日本に導入するような形になった。だからSEMAの頃っていうのは、本当にみんな楽しくやってましたね。
シリコンバレー(サンノゼ)でもね、あそこは開発拠点でしたけれども、そこでも同じようにR&Dの連中をみんな集めて話をしてみんなを盛り上げてね、そんな調子で、結局アメリカで結構楽しくやっていたものだから、「もう安藤は絶対に日本には戻ってこない」なんて時に、日本がカンパニー制度になって、僕はコンスーマーAVカンパニーに戻ってきた。で、当然カンパニープレジデントの森尾さんがトップになると思っていたら、出井さんが社長なっちゃって、「あれ?」と思っているうちにITカンパニーが出来た。あ、やっとITの話に来たね(笑)。
出井さんが、社長になった直後、カンパニーを組み替えると言って、ITカンパニーが新設されたんだけど、他のカンパニーのプレジデントが決まっていないのに、先に僕だけITカンパニーに決まっちゃった。僕はITはド素人だから「なんで?」と思ったんだけど、その時に、大賀さんはIT大反対だったものだから、「安藤がなるのはいいけど正念場だ、大丈夫か?」なんて言われたらしいですけどね(笑)。(つづく)
この対談は次回に続きます。
※この対談は次回【第三回】に続きます。
※ 本記事は辻野さんのメルマガ『グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中 』の一部抜粋です。この機会にぜひご登録をご検討ください。
この記事の著者・辻野晃一郎さんのメルマガ
辻野晃一郎さん関連イベント情報
【会場またはオンライン参加】元グーグル日本法人社長・辻野晃一郎が、なぜ今「水素」なのか―人生100年時代の健康とヘルスケアを考える
※本イベントは、五反田TOC・まぐまぐ本社での会場参加と、Zoomによるオンライン参加のハイブリッド開催です
元グーグル日本法人代表取締役社長として、長年テクノロジーや経営の最前線に携わってきた辻野晃一郎氏。
そんな辻野氏が、現在強い関心を寄せているテーマのひとつが「ヘルスケア」、そして「水素」です。
なぜ、テクノロジーや経営の世界を歩んできた辻野氏が、いま健康や水素に注目しているのか。
本セミナーでは、辻野氏自身の体験や現在の取り組みをもとに、
・なぜ今、ヘルスケアに取り組んでいるのか
・人生100年時代に、健康をどう考えているのか
・数ある健康分野の中で、なぜ「水素」に着目したのか
・水素について調べ、実際に取り組む中で感じていること
・これからの健康とテクノロジーの可能性
などについてお話しいただきます。
会場参加の方には、セミナー終了後に実際の水素マシンによる水素吸入を体験していただく時間も設ける予定です。
「水素という言葉は聞いたことがあるけれど、実際にはよく分からない」
「なぜ辻野さんが水素に取り組んでいるのか知りたい」
そんな方にも、まず水素について知っていただくきっかけとなるイベントを目指します。
開催概要
開催日:2026年11月14日(土)
時間:14:00~16:00予定
※会場受付開始 13:30予定
会場
株式会社まぐまぐ 本社
〒141-0031
東京都品川区西五反田7丁目22番17号
TOCビル10階1号
アクセス
・JR山手線・都営浅草線「五反田駅」より徒歩約8分
・東急池上線「大崎広小路駅」より徒歩約5分
・東急目黒線「不動前駅」より徒歩約6分
会場定員:30名
参加方法・料金
会場参加:2,200円(税込)
Zoomオンライン参加:1,100円(税込)
お申し込み
https://peatix.com/event/5204900
※日程が合わなくても安心の見逃し配信対応
※会場参加の方は、セミナー終了後に水素吸入体験にご参加いただけます。
※水素吸入体験は希望者を対象に実施します。参加人数によっては、体験時間を調整したり、体験いただける人数を制限させていただく場合があります
※Zoom参加の方はセミナー部分のみのご参加となり、水素吸入体験は含まれません。
当日の予定
14:00~ オープニング
イベントの趣旨、本日の流れをご案内します。
14:05~ 辻野晃一郎氏 講演
テーマ:
「なぜ私は今『水素』なのか?
人生100年時代の健康とヘルスケアを考える」
辻野氏がこれまでのキャリアを経て、なぜ現在ヘルスケアに取り組んでいるのか。
そして、その中でなぜ水素に注目するようになったのか。
ご自身の経験や現在の活動を交えながらお話しいただきます。
15:05頃~ 質疑応答
参加者の皆さまからの質問に辻野氏がお答えします。
15:35頃~ 水素マシンの紹介・体験
※進行状況により時間・内容が変更となる場合があります。
こんな方におすすめです
・健康やヘルスケアの最新動向に関心がある方
・「水素」について一度きちんと話を聞いてみたい方
・人生100年時代の健康について考えたい方
・仕事を続けながら健康を維持することに関心がある方
・辻野晃一郎氏がなぜ現在ヘルスケアに取り組んでいるのか知りたい方
・新しい技術やサービスが社会をどう変えていくのかに興味がある方
image by: 『グーグル日本法人元社長 辻野晃一郎のアタマの中 』