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ミャンマーはなぜ、親日国なのか?知られざるアウン・サン将軍の素顔

台湾などと並び、ミャンマーが親日的である理由の1つに、スーチー氏の父、アウン・サン将軍の存在が大きいことは広く知られています。ではそのアウン・サン将軍、実際はどのような人物だったのでしょうか。メルマガ『房広治の「Nothing to lose! 失う物は何も無い。」』では、房さんが現地の人達から直接聞いた「真実」が記されています。

アウン・サン将軍が親日であったため、ミャンマー人は皆親日

ミャンマーと日本の関係を知る上で一番重要なのは、アウン・サン将軍と日本の関係である。そこで、今日は、アウン・サン将軍について書いてみた。

アウン・サン将軍に対しての記述は、この1年間でウィキペディアなどインターネットに多々載るようになったが、どれもグチャグチャの情報が入り混じっており、何が本当かを理解できないと思う。特に、イギリスからBC級戦犯にさせられそうだった鈴木大佐をアウン・サンの強力な抗議で助けたことや、ダーウエイというミャンマーの一番南に位置する州の州都で、日本軍を生かせて逃がすように指示した話は、日本ではほとんど知られてなく、逆のような印象がインターネットに載っているので、私なりに現地の人達から聞いた話をまとめてみた。

信念の人・アウン・サン青年

信念を持っていたというのが、どのミャンマーの人々もが認めることである。イギリスの植民地支配から脱却するべきとの信念。Inclusiveと表現されているが、誰も「のけもの」にしない、疎外しないという信念。仲間は裏切らないという信念。

ヤンゴン大学在学中の、アウン・サンの信念がしっかりしていた逸話は誰もが知るものである。人気者であり、学生のリーダーになって、学生雑誌Owayの編集長もしていた。その学生新聞に、反英的記事を学生紙に書いた同級生が誰かをゲロしなければ退学にすると脅した学校側に、仲間を裏切るぐらいなら退学でもよいと対峙した。学校側はイギリス人たちを恐れて、アウン・サンを退学にした。この件は、ビルマ中の学生を巻き込み、ヤンゴン大学はアウン・サンの退学を取り消すはめになった。

この時のアウン・サン将軍の知力・行動力・組織力もすごいが、この成功がアウン・サン将軍の自信につながり、その後の決断の速さや動きの速さを加速させたのだと思う。

この話は、ヤンゴン大学の学生はもちろん、その他の大学生も知っており、ヤンゴン大学に在籍していた時のアウン・サンの部屋は、タンシュエ政権がヤンゴン大学を閉鎖するまで、アウン・サンの住んでいた部屋として、ミャンマー中から多くの学生が見学に来た。

ビルマは1886年にインドと併合されイギリスの植民地となった。アウン・サンの家族は、イギリスからの独立を進めるレジスタンスとして、アウン・サン自身の登場前から有名だった。4,000年の歴史があり、少なくとも2,600年前からアウン・サンの時代までは、南アジアで一番歴史があるビルマはイギリス植民地から解放されるべきとの考えだ。

アウンサンは1915年生まれ。1936年、20歳のときに、この大学の退学問題が起き、21歳になるかならないかで、学生一斉ストを組織、復学する。ビルマがインドと別の国として認められ、ビルマという呼び方が復活した1937年の翌年1938年に卒業。同時に、行動にでた。明治維新で急激に経済力を増した、同じアジアの一国である日本が、イギリス植民地からの解放に役に立つと考えた。

鈴木敬司大佐という日本の特殊部隊の南機関の機関長から南京で接触され、近衛文麿首相(後10月16日に総辞職)からイギリスの植民地の解放からの資金提供を1941年2月に受け、わずか30人からなる「30人の志士」Thirty Comradesと南京に渡り、日本軍の特殊訓練所で戦争の戦い方の訓練を受けた。

既に、イギリス軍から、イギリスからの独立を先導する主導者とマークされていたアウン・サンは、変装のために、前歯を全て抜き、入れ歯を入れたり外したりして、変装をし、ビルマの港でイギリス軍の目をあざむき、南京や日本に渡った。

1942年にMyanmar Independence Army「ビルマ独立軍」という組織で、ミャンマーの地域を次々と日本軍の支援を受けながら制圧、1942年6月にヤンゴンも制圧した。7月にはイギリス軍の追い出しに成功。1943年3月に、アウンサンが来日した時には、28歳の若きリーダーと大歓迎を受け、旭日章を受章している。

日本軍は、石油と上質のゴムが大量に手に入るビルマを独立させるよりも、日本の植民地と考え、ビルマからイギリス軍を追い出した後もビルマに残った。バー・モー貧民党主をビルマの行政長官としながらも、日本軍がいつでもビルマを植民地化できるように計画した。

1943年から1945年に防衛大臣になっていたアウンサン将軍は、日本の第2次世界大戦で連合軍に勝つとの近衛首相の言葉とは裏腹に、インパール作戦(1944年3月から7月)でのずさんな作戦、計画と失敗を目の当たりにし、日本の敗北が濃厚になってきたのに焦りを感じた。

日本軍が駐留したまま連合軍に日本が負けた場合には、イギリスは、日本軍のビルマへの侵略からビルマを解放したと言い出し、イギリスからのビルマ独立が不可能になると考え、1945年5月に連合軍側の司令官であるルイス・マウントバッテン卿と取引をし、1946年にイギリスの支配下での首相となる。そして、1947年1月27日に、当時のイギリスの首相のクレメント・アトリー氏に、1年以内のビルマの独立を約束させ、この年の4月の総選挙で202議席中の196議席を取るという快挙をとげた。

そして、この年の7月19日に弟やその他の大臣4名、合計6名が、会議中に射殺された。この射殺の首謀者は、アウン・サン将軍のライバルであったウ・ソー氏としてウ・ソー氏は処刑されたが、当時からウ・ソー氏がそんな大それたことができると思うものは少数派で、後にクーデターを起こしたネ・ウインが全てを計画したのではないかとの説もあるが、全てが闇の中で封印されてしまった。

表舞台に出て10年もたたない間になくなってしまった、アウン・サン将軍。しかし、彼の日本に対しての憧れ、信頼は、今のミャンマーの方々の親日の考え方の根底をなしているのである。

image by: Wikimedia Commons

 

房広治の「Nothing to lose! 失う物は何も無い。」』より一部抜粋

著者/房広治
世界の金融市場・投資業界で活躍する日本人投資家、房広治による、ブログには書けないお金儲けの話や資本市場に通用するビジネスマン・社長のあるべき姿などを、余すことなく書きます。
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