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米は炊かずに蒸していた?日本最古のおにぎりから知る古代人の食事情

「おにぎり」という言葉を聞くと、私達はふっくら炊けた柔らかいご飯をイメージしますが、どうやら古代のおにぎりは違うようです。6月12日付けの朝日新聞の「天声人語」で紹介された「世界最古のおにぎり」について、無料メルマガ『古代史探求レポート』では、「おにぎりではなく、餅だったかもしれない」と驚きの見解。古代日本人がどのように米を食していたのか、その驚きの事実を紹介してくれています。

天声人語 日本最古のおにぎり

まもなく熊本地震から2カ月を迎える。被災直後、現地のスーパーやコンビニで水とともにまっ先に売り切れたのは、おにぎりだった。炊き出しが始まって最初に配られたのもおにぎりだ。被災地で何より頼れる非常食だろう。
日本のおにぎり史は2千年前にさかのぼる。各地の弥生時代の遺跡から炭化した米の塊が出土する。石川県鹿西(ろくせい)町(現中能登町)では1987年に三角形の塊が見つかった。地元は「日本最古級のおにぎり」と呼ぶ。鹿西町の鹿(ろく)と米の字をなす十と八にちなみ、6月18日がおにぎりの日とされた。現物を石川県埋蔵文化財センターで拝見した。黒くなければそのままかじれそうな二等辺三角形。正式には、ちまき状炭化米塊と呼ぶ。
「土中からカツンという感触が来て二つに割れた。興奮しました」。竪穴住居跡から掘り出した栃木英道・金沢城調査研究所副所長(59)は話す。炉のそばでなく外縁部だったことから、日常の食品ではなく魔よけの品と推定する。(以下略)

(朝日新聞 6月12日)

朝日新聞の天声人語に紹介された、最古のおにぎりの話です。一部の抜粋ですので、是非ネットで調べて全文をお読みください。まさに、味のある文章に、仕上がっています。

当方は、古代史探求レポートなりの着眼点で、この最古のおにぎり説を題材に考えてみたいと思います。
この天声人語を読みながら、古代の人々もおにぎりの美味しさに気づいていたのか。具は何を入れていたんだろうなどと考えたのですが、そもそも古代の人はどうやって米を食べたのだろうかという疑問にぶち当たりました。


世界最古の煮炊きの跡は、日本の縄文土器に付いている炭化物の跡だという、科学雑誌ネイチャーに掲載された論文を紹介させていただいたこともありました。まさしく、和食の原点であったわけです。世界最古というのが鼻をくすぐります。
この煮炊きをする縄文人達の中へ、稲作文化を持ち込んだとしたらどうなるでしょうか。絶対に、米をその動植物とともに煮炊きをしたのではないかと思います。パエリアはスペイン料理の代表的な米の食べ方ですが、生米を魚介類と一緒に炊き上げます。まさにこれと同じような食べ方をしたのではないでしょうか。

そして、その中から、ただ米だけを煮炊きするという食べ方が生まれ、それが現代に繋がる米を炊くという調理方法になったものと思われます。現代の中国の人が日本に来た時、必ず買って帰るのが炊飯器だと言われています。四千年の食の歴史を持つ中国人ですら、主食の米は日本の炊き方が一番美味しいと知っているのです。また、日本の炊飯器こそ、日本人の伝統的知識を日本の技術でくるんだ最高傑作であるのです。

しかし、この最古のおにぎりは、お米を炊いたのではなく、蒸してから焼いたものだそうです。すごいですよね、炭化した米が出てきているだけなのに、それを炊いたのではなく蒸したものだと言い切れるのが本当にすごいと思います。
つまり、縄文人の中にもたらされた食べ方なら、米を炊いたのでしょうが、稲作文化を伝えた純粋弥生人達は米を炊くのではなく、蒸して食べたということです。蒸すことを選んだ人達の気持ちは、なんとなくわかるような気がします。硬い生米を食べても美味しくないですから、なんとか水分を含めせようとしたのだと思います。

でもどうやったのでしょうか。土器に水を入れて下から火をつけて、土器の上に藁を敷いてその上に米を並べたというようなところでしょうか。そうすると、ご飯粒があちこちについたわらが出来上がりますから、それを固めて一口サイズにしたのでしょうか。もしかすると米を葉っぱで包んで蒸気をあてたのかもしれません。まさに、現代も受け継がれているチマキの食べ方になったわけです。


江戸時代、日本海を回った北前船では、面白い歌が歌われていました。「 能登のふくらの引っ張り餅は、誰が引くやら切れはせぬ」船乗りの人たちは、保存食であった、このふくらの引っ張り餅を食べていました。
ふくらは、福浦です。ついた餅を、水の中に入れて、それを四方八方から引っ張って伸ばして作るそうです。薄く広げると、それを乾燥させて保存食として食べていたのだそうです。

江戸時代はもちろんですが、義経の伝説としても残っており、義経と弁慶がこの地に流れて来て、弁慶が杵で餅をつかずに、手でこねては引っ張り、手でこねては引っ張りして、最後は水の中でのばして保存食としたのが、この引っ張り餅の始まりだという伝説です。

源義経が畿内から奥州に逃亡した際、源平盛衰記や義経記が、その時のルートを北陸を通ったとしている為、多くの伝説が残るようになりました。奥州平泉に行ったのは史実ですが、本当に北陸を通ったかはわかっていないのです。ただ、私は義経の伝説の中にも、その地方に語り継がれた内容が混ざって残っているのだと考えています。

中能登町と、福浦は同じ能登半島でも離れていますが、私は共通するものが潜んでいるように思うのです。餅を食べる習慣が強い地域は、米を蒸す地域だとも言えます。蒸した米を、弁慶ばりに手でこねて伸ばして作ったとするなら、もしかすると、この二等辺三角形のおにぎりのようになったのではないかとも思うのです。

対馬海流に乗り、能登まで渡ってきた人々は、まさに稲作を伝える文化を持つ人々だったと思います。四隅突出型墳を作る出雲の人達と同じ部族であったのかもしれません。彼らが持ち込んだ文化は、後日、日本で花開いた「米を炊く」という食文化ではなく、「米から餅を作る」という文化だったのかもしれません。

最古のおにぎりのはずが、最古の餅の原型だったのかもしれませんが、うるち米ともち米はとの区別がなかった時代ですから、蒸した米であったとしても、ぐっと握ったおにぎりだったとも言えるでしょうし、餅だったとも言えるのかもしれません。ですから、決して日本最古のおにぎりであるということを否定しようというのではありません。
ただ、食文化の豊かな能登半島だからこそ、おにぎりにしてしまうのは惜しいかなとも思います。

中国が春秋戦国時代であった頃、楚の政治家であった屈原はその将来に絶望し入水自殺をはかりました。紀元前278年のことです。この時、民衆は屈原の亡骸を魚が食べてしまわないようにと、笹の葉に包んで米の飯を川に投げ込んだのだそうです。これが、中国で始まったチマキの起源だとされています。

台湾や新潟県にはチマキの原型に近い作り方が残っていると言われています。新潟には笹団子の形で、笹に巻いて食べる習慣も残っています。稲作を伝えた人々は、同時にちまきに似た米の食べ方も伝えていたのかもしれません。能登に残った、二等辺三角形の炭化米塊も、これと同じであったかもしれません。そう考えると、笹の葉ににまかれていたのかもしれません。
最古のおにぎりは、私達に古代人のイメージを無限に膨らませてくれるのです。

image by: Shutterstock

 

古代史探求レポート
著者/歴史探求社
どのような場所にも、そして誰にでも歴史は存在します。その場所は、悠久の昔より地球上に存在して多くの人々が生活し行き交った場所です。また、皆さんは人類が始まってから、延々と受継がれて来た遺伝子を継承している一人なのです。歴史探求社は、それぞれの地にどのような歴史があったのか。また、私達のルーツにはどのような人々が存在し、どのような行動をおこしたのかを探求し、それを紹介する会社です。もっとも、効果的と思われる方法を用いて、皆様に歴史の面白さをお届けします。「まぐまぐ」を通じて、メールマガジン「古代史探究レポート」を発行、購読は無料です。大きな歴史発掘報道や、企画展情報、シンポジウム等の情報を提供しています。
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