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捕虜のドイツ兵たちを感涙させた徳島県「板東俘虜収容所」の奇跡

先日掲載の記事「【年末恒例】なぜベートーベンの第九は気分を盛り上げるのか?」でもご紹介したように、年末といえばベートーベン第九コンサートが恒例行事となっています。その第九が日本で初めて演奏されたのが、四国の俘虜収容所であったという事実をご存知でしょうか。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』では、そこに至るまでのドイツ人俘虜と松江豊寿中佐、そして地元住民たちの間で育まれた感動のエピソードが紹介されています。

松江中佐とドイツ人俘虜たち

89名のドイツ人俘虜たちは、銃に着剣した衛兵に厳しく監視されながら、重い足取りで川沿いの土手道を歩いていた。四国の遠い山々は青く霞み、見渡す畑は菜の花の黄色に埋め尽くされている。しかし、俘虜たちは、日本の春を味わう余裕を持っていなかった。

大正6(1917)年春、徳島県鳴門市近郊の板東。第一次大戦で日本は日英同盟の誼(よしみ)によって、中国でドイツが租借していた青島要塞を攻撃・占領し、4,600余名のドイツ将兵を捕虜にした。これらの捕虜たちは、日本国内12カ所の収容所に入れられたが、まもなく6カ所に再編された。

この89名は久留米の収容所から板東に移送されてきたのだった。久留米の48連隊は、青島戦の主力として戦った事もあって、この地には戦死者の家族も多く、捕虜たちを憎悪で迎えた。捕虜たちは小さな南京虫だらけの藁布団に寝かされ、事ある毎に鉄拳で殴られた。だから、新しい収容所に移送されると知っても、何の希望も持てなかった。

「聞こえる…音楽が」と戦闘で失明したドンゲルが言った。遠くからかすかにブラスバンドの音楽が聞こえてくる。隊列が進むにつれて、音楽ははっきり聞こえるようになった。間違いない。それはドイツの愛国歌旧友』であった。

所長・松江豊寿

俘虜収容所の門をくぐると、ブラスバンドの一隊が整列していた。青島で別れ別れになった戦友たちの懐かしい顔が見える捕虜たちは抱き合って再会を喜んだ

「捕虜どもを整列させいッ!」と久留米から引率してきた指揮官が叫ぶと、衛兵たちが、捕虜を銃の台座で打ち据え始めた。歓喜の叫びが、悲鳴と怒号に変わり、いまにも暴動に発展しそうな雲行きとなった。

「やめいッ、よせッ」と鋭い声がかかった。収容所の副官・高木大尉であった。そこに立派な八の字髭の人物が現れ、落ちていた帽子を拾い上げ、土を払ってから、「誰のものか」とドイツ語で聞いた。ヘルマン一等水兵が手をあげると、ニッコリ笑って帽子を手渡した。

私は所長の松江豊寿(とよひさ)である。ただいまの衛兵たちの非礼について心からお詫びするとともに、あらためて歓迎の辞を申し述べる。

ドイツ語の丁重な挨拶が信じられず、久留米から来た捕虜たちは、思わず顔を見合わせてしまった。所長に促されて、副官の高木大尉が流暢なドイツ語で通達した。

諸君。本日に限り、就寝時間が12時までに延長される。2年ぶりの再会だろう。大いに旧交を温めたまえ。

捕虜たちの間から、ドッと歓声が上がった。

別世界

到着した捕虜たちにとって、この収容所の生活は驚くべきものだった。およそ1,000名の捕虜が、8棟の兵舎に収用されていたが、それ以外にも図書館、印刷所、製パン所、製菓所など合計26棟の洋式の建物が建っていた。ビールやチーズ、ソーセージ、煙草などがこの収容所で作られており、自由に買うことができた。隣接してテニスコートやサッカー場もあった。

愛用のカメラを首から提げたヘルマン一等水兵は印刷所を訪れた。青島戦に志願する前は大学の文学部に在籍したので、ここで発行される週刊新聞の記者として編集者のマルティン中尉に誘われたのである。

マルティン中尉はヘルマンを散歩に誘った。鉄条網の向こうに見える畑では、地元民と捕虜たちが一緒に農作業をしていた

ドイツ式の農業を教えているんだ。捕虜たちの農作業の様子を見ていて地元民のほうから申し入れできたんだよ。

収容所の門を出る際には、10人ほどの日本の青少年が入れ違いに門を入ってきた。「地元の中学校の生徒たちだ。週に2回、ドイツ式の器械体操の実習に来ている。当時はまだ珍しかった器械体操を、テンペルホフ上等兵が鉄棒の大車輪などを実演しながら、教えていた。

外の田舎道を歩いていくと、彼らと同様に衛兵に付き添われたドイツ人のグループがそこかしこに歩いている

地元の工務店で蒸気エンジンの修理を教えている者や、酪農や建築を教えている者がいる。松江所長の方針でね。ハーグ条約で保障されている食費や医療費以外に、これらの収入が加わるので、ここの捕虜たちは地元民よりずっと金持ちなんだ。

ヘルマンは信じられない思いがした。

武士の情け

89名が到着して数日後、そのうちの一人カルル・バウムが脱走した。報告を受けた松江に、部下が「徳島の62連隊に協力を頼みましょう」と進言した。松江は即座に答えた。

連隊はいかん。連隊を巻き込めば、面倒なことになる。周囲は海と山、どうせ逃げられない。怪我などしないうちに、われわれの手で保護したい。

2日ほどして、カルルが自ら戻ってきた。傷の手当てをされている。しかし、本人は、山の中を逃げ回っていた、と言い張っている。松江は彼は山中で道に迷ったそれで良かろうと済ませようとした

「そんなことでは、捕虜どもに対するしめしが」と反対する部下に松江は諭した。

傷の手当てをしてくれたのは、たぶんこの板東の人だろう。だとすれば決して口を割るまい。それを明かさないのは、恩義を感じているからだ、脱走犯を助けたことで、罪に問われることがないようにしたいんだ。目をつぶろう。武士の情けじゃないか。

カルルが所長室に呼ばれた。殴る蹴るの制裁を受けることを覚悟していた。しかし、松江は優しい声で言った。

カルル君だね。君に一つ頼みがある。君は以前、青島のビクトリア街で、パン職人をしておったそうだね。どうだろう。炊事棟の要員に加わって、パンを焼いてくれないかね。

カルルは高木副官に製パン所に連れて行かれた。懐かしいパンの焼ける匂いが充満していた。カレルの視線が台の上でパン生地をこねている一人の手元に止まった。カレルはその手からパン生地を奪い取ると、

もっとこねるんだ。もっと強く。生地は生きて、呼吸をしている。この手で、それを、それを…

カレルは何度も力任せにパン生地を叩きつけて見せた。しかし、その背中がすぐに動かなくなった。「どうした。カルル」と高木副官が覗き込むと、カルルの目には涙があふれそうになっていた

「彼らも、祖国のために戦ったのです」

陸軍省からの呼び出しで、松江は東京に赴いた。そこでは俘虜情報局の将校たちが待ちかまえていた。局長の多田少将が、苛立ったような声をあげた。

君は捕虜たちからの評判もいいようだが、甘やかせば評判のいいのは当たり前でね。あとで必ずしっぺ返しを食う。陸軍省からの通達だ。板東収容所については、来月から予算を削ることになった。

「なんですと!? 理由はなんですかッ!?」と松江は激昂した。

捕虜どもに、自由気ままに贅沢をさせる余裕など軍にはない。彼らは敵国の捕虜だ。それを忘れてはならん。

松江の興奮は収まらない。

片時も忘れたことはありません。彼らは敵国の捕虜、しかし犯罪者ではない。彼らも、祖国のために戦ったのです。しかも、わずか5,000人で数万の連合軍と互角以上に戦い抜いた勇士たちだ。決して、無礼な扱いをしてはならない。戦争が終わってドイツへ帰還できる日まで丁重に扱うべきだと思うております。

会津武士としての誇り

多田の目が、侮蔑の色を見せた。「松江中佐。君は、会津の出身だったな。いつまでたっても会津は会津だな」。言葉を飲み込んだ松江は、多田をぐっと睨みつけた。

帰りの汽車で、まっすぐに背筋を伸ばして、座席に腰をかけた松江は、ただ一点を見据えていた。「会津は会津だな」、そういう侮辱を、今まで何度受けてきたことか。

約50年前の明治維新の際会津藩は藩をあげて薩摩長州の官軍と戦った。敗れて生き残った藩士たちは「降伏人」と蔑まれ、本州最北端の下北半島の斗南(となみ)の地に押し込められた。

松江はそこで生を受けたのである。西南戦争で会津武士たちが活躍し、ある程度の名誉を回復したが、まだ松江のように将校にまで昇進した人物は少なかった。会津武士としての誇りが松江を支えそしてドイツ人俘虜たちへの同情となっていたのだろう。

予算削減への対策として、松江は山を買って、捕虜たちに木の伐採をさせた。それを薪として市価よりも安く買い上げ、収容所内の炊事や風呂炊きに使って、予算節約につなげようというのである。事情を知った捕虜たちから、志願者が自発的に集まり、ドイツ本国で営林署に勤めていたクリーマント軍曹の指揮のもと、熱心に働いた。

「諸君、新聞を出したまえ」

1918(大正7)年11月、ドイツが降伏し第一次大戦が終わった。戦勝を祝って、徳島の大通りも花山車や提灯の灯で光の洪水となった。沿道を埋め尽くした群衆は日の丸の小旗を振って、沸き立っていた。しかし、板東の町はひっそりとしていた。「ドイツさんが可哀想だ」と泣いている女性までいた。

収容所も静かだった。いつもなら活気のある印刷所は音もなく、皆ぼんやりと、雨にけぶる窓の外を眺めていた。そこに松江が現れて、「今まで出していた新聞をどうするんだ」と聞いた。ヘルマンたちは顔を見合わせて、「この状況では、とても手につきませんから」と答えると、松江は言った。

諸君の気持ちは判るが、どんな苦しみのなかでも、人は光を見つけ、将来に立ち向かう勇気を持つべきだ。

そういう松江は、酷寒の地・斗南での会津人たちの絶望的な生活を思い起こしていたのかも知れない。

諸君、新聞を出したまえ。そして、そのことを紙上で全員に呼びかけたまえ。

粛然とした一同に、松江の力強い言葉が響いた。「これは私の命令だ」。全員が、深く胸を打たれていた。「松江所長、判りました命令を感謝します」と、一同は日本式に頭を下げた。

「われわれには敵味方の区別はなくなった」

1919(大正8)年6月、ヴェルサイユで第一次大戦終了の調印式が行われた。松江所長は捕虜全員を中央広場に集め、訓示を行った。

私はまず、このたびの戦争で亡くなった敵味方の勇士に対して哀悼の意を…、もとぃ、今、私は敵味方と言ったが、これは誤りである。去る6月28日の調印終了の瞬間をもって、われわれには敵味方の区別はなくなった。今や諸君は捕虜ではなく、一個の自由なるドイツ国民となったのである。

 

すでに諸君が想像しているように、敗戦国の国民生活は悲惨なものである。どうか困難にめげず、祖国ドイツの復興に尽力してもらいたい。

最後に松江は捕虜全員を見渡し、力強いドイツ語で言った。「本日ただ今より諸君の外出はまったく自由である」。捕虜たちの間から、一斉に拍手と歓声が沸き上がった。「ダンケ! ダンケ!(ありがとう)」という声が収容所を揺るがし、放り投げられたたくさんの帽子が、青空に舞い上がった。

「我が友に…!」

元気づけられたドイツ人たちは、板東の人々への感謝にベートーベンの第9交響曲を演奏する事にした。日本各地のドイツ関連施設から楽器を取り寄せ、総勢45名での演奏である。これが日本での第9の初演となる。

演奏の前に、青島総督だったハインリッヒ少将が挨拶を述べた。

青島での戦闘に敗れ、われわれは捕虜となって、この地へ参りました。私はいま、誇りをもって、この地を去ることができます。それは松江所長のおかげです。

 

松江所長は、私の人生で、もっともつらい時期に、勇気と力を与えてくれた。勇気と力――。我々は、ベートーベンのフロイデ(歓喜)を感謝のしるしとして、皆さんにプレゼントしたい。世界のどこに、バンドーのようなラーゲル(収容所)があったか! 世界のどこに、松江のようなラーゲル・コマンダー(収容所長)が…

感極まって、ハインリッヒが声を詰まらせた。会場は水を打ったように静まりかえった。ハインリッヒは松江のもとに歩み寄って、愛用のステッキを差し出した。「我が友に…!

二人を包んで、嵐のような拍手が沸き起こった。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock.comWikimedia Commons

 

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購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。

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【著者】 伊勢雅臣 【発行周期】 週刊

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