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「カップヌードル」発明者は台湾生まれ。即席麺がつなぐ日台の絆

8月25日は「ラーメン記念日」。その理由は1958年のこの日、世界初の即席麺「チキンラーメン」が日本で発売されたからです。この世界的な発明とも言われる日清食品「チキンラーメン」「カップヌードル」の生みの親・安藤百福(ももふく)さんが、元々は台湾出身の実業家だったことをご存じでしょうか? メルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』の著者で台湾出身の評論家・黄文雄さんは、ラーメン記念日を前に安藤氏の世界的偉業と日台の絆について振り返っています。

【日台】「ラーメン記念日」を前に思う日台の絆

8月25日は「ラーメン記念日」だということです。これは、1958年8月25日、日清食品創業者である安藤百福が世界初のインスタントラーメン、「チキンラーメンを発売した日だということで、日清食品はこの日をラーメン記念日と制定しました。来年はインスタントラーメンの発売60周年を迎えます。

よく知られているように、安藤百福は台湾出身の実業家です。1910年3月、日本統治下の台湾・嘉義県で生まれました。そのときの名前は呉百福。当時の嘉義は1906年の嘉義大地震からの復興の最中であり、地震で全壊した清代の建築物に代わって近代建築が建ち並ぶようになってきたころです。

百福は両親が早くに亡くなったため、嘉義県の南隣である台南市で呉服屋を営む祖父母のもとで育ちます。この台南には、「意麺」という、卵を練り込んだ麺を軽く揚げたちぢれ麺が名物となっていますが、台湾ではこれが百福のインスタントラーメン誕生のヒントになったともいわれています。台南市といえば、八田與一が建設した烏山頭ダムが有名です。烏山頭ダムは1921年に着工し1930年に完成しましたが、もちろん安藤百福もその完成を現地で耳にしていたことでしょう。

日本統治下で台南は急速に近代化が進みました。1900年には高雄と台南の間に鉄道が敷かれ、1907年には台北ともつながりました。また、1916年には台北から高雄までの縦貫道路が建設されたことで、台南も交通の要所として発展しました。

日々、商売人の祖父のもと、発展していく台南に育った百福は、独立心と事業意欲旺盛で、22歳(1932年)のときに、父親の遺産を元手に繊維会社東洋莫大小(メリヤス)」を立ち上げ、日本内地から製品を仕入れて販売する仕事を始めましたが、これが大成功を収めます。そして翌年には大阪に「日東商会」を設立し、問屋業務を始めます。

百福は、京都立命館大学の専門学部経済科(夜間学校)に通うと同時に、蚕糸事業、精密機械やエンジン部品製造などにも事業を拡大させていきます。朝昼は事業、夜は勉学という二足のわらじを続けていたわけです。

順風満帆に見えた事業ですが、戦況が厳しくなるにつれ、事態は次第に悪化していきます。軍需工場の下請けもしていましたが、資材を横流ししている嫌疑をかけられ、憲兵から暴行を受け、留置場に入れられてしまいます(後に、これは憲兵と横流ししていた者とが結託して、百福を陥れる罠だったことが判明)。

自身の自伝によれば、留置所の同じ房の人たちが粗末で不潔な食事を我先にと奪い合う姿を目の当たりにし、自ら食べる気にもならなかった食事が、飢えれば喉を通るという体験をして、食こそが崇高なものだと思うようになったといいます。

旧来からの知己である元陸軍中将の助けで、なんとか留置場から出ることができた百福ですが、1945年3月からの大阪大空襲により、百福の大阪事務所や工場はすべて灰燼に帰してしまい、終戦を迎えます。

戦後、百福は土地買収で事業再建を目指しますが、街に飢餓状態の人々が溢れ、餓死者も多く出たことに、「食がなければ衣も住も、芸術も文化もあったものではない」と食の大事さを痛感し食の世界に転向することを決意します。

また、街には復員軍人や疎開先からの帰省者が仕事もなくぶらぶらしていました。そこで、彼らを使って、泉大津で製塩業をはじめます。造兵廠跡地の払い下げを受け、そこに余っていた鉄板を活用したのでした。同時に、百福は「国民栄養科学研究所」を設立し、病人用の栄養食品開発にも没頭するなど、戦後の復興に力を注いだのです。

ところが、今度はGHQに目をつけられ、脱税容疑で巣鴨プリズンに収監されてしまいます。

戦後、台湾人は日本か中華民国かの国籍選択を迫られ、百福は戦前からの資産を引き継ぐために中華民国を選んでいたのですが(後に日本人の妻の安藤氏の名前に改名して帰化)、その資産がGHQに睨まれ、また製塩業では従業員に給与ではなく小遣いという形で支払っていたため、脱税容疑をかけられてしまったのです。

疑惑を晴らすために弁護団を結成して2年間、法廷闘争で徹底抗戦しますが、やがて税務当局から訴えを取り下げれば釈放すると言われてこれに応じ、2年の収監から解き放たれます。

収監されている間に製塩工場を整理して資産を処分して従業員の給料に充てていたため、釈放後もまた一からの出直しでした。しかも、そのとき、大阪で設立された信用組合の理事長になって欲しいと頼まれて応諾しますが、素人集団の集まりだったために、あっというまに不良債権が拡大して倒産

これまでも何度も不運に見舞われながら、その度に立ち上がってきた百福ですが、ここで百福はすべての財産を失います。1957年、47歳のときでした。

しかし、それでも不屈の精神は消えず、食糧難に喘いでいた日本を救いたいとの一心で、今度は独学でインスタントラーメンの開発を進めます。部下もいない、たった1人からの挑戦でした。しかも百福は麺については素人ですから、本当に何もないところからの出発だったのです。

試行錯誤を重ね、ついに油熱による乾燥法にたどり着きます。前述したように、台湾では「意麺」がインスタント・ラーメンのヒントになったと言われていますが、百福の自伝によれば、妻の揚げた天ぷらで製法を思いついたと述べています。

こうして1年の試行錯誤を経て誕生したのが、「チキンラーメン」です。チキンラーメンの手軽さとおいしさは大好評で、しかも鶏ガラから取ったスープは栄養もあり、当時の食糧事情から、厚生省がチキンラーメンを妊産婦の健康食品として推奨したことから大ヒットします。

その好評を見て、追随する業者が多く出てきました。粗悪品や模造品の懸念から、安藤はチキンラーメンの商標や特許を申請・登録し、会社や商品の信用を守ることに努めました。

しかし、1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡しました。その理由として、「企業は野中の一本杉であるより、森として発展する方がいいと思っている」という言葉で語っています。

また百福は、偽造品や粗悪品の横行を阻止すべく、食品業界の先鞭を切って「製造年月日表示」を始めたほか、インスタントラーメンのJAS規格の制定に尽くすなど、一貫して業界全体の品質の維持・向上に努めたのです。

チキンラーメンはアメリカにも進出、ここでも大きな人気を博しましたが、百福がアメリカ視察をした際、アメリカ人がチキンラーメンを割って紙コップに入れ、湯を注いでフォークで食べているところから、日本のようにどんぶりのない国でも簡単に食べられるカップラーメンを着想し、1971年に世界最初のカップ麺カップヌードル」を商品化。

1972年の浅間山荘事件で機動隊員たちがカップヌードルを食べている映像が流れたことから、火のついたような大ヒットになり、やがてこちらも世界的に普及したことは誰もが知っていることでしょう。

安藤百福は2007年1月に97歳で死去しましたが、アメリカのニューヨーク・タイムズも社説でその死を悼み、偉業を讃えました。

安藤百福はとにかく不撓不屈の精神で何度も這い上がり、ついには日本、そして世界の食をも変えてしまいました。特許技術を独占するのではなく、業界全体の繁栄につなげようとしたのも、日本精神を学んだことと、戦中戦後の飢餓体験があったからではないでしょうか。

本来、中華では文明・文化は「門外不出」「秘法・秘伝」としてきました。弟子にすら伝えず、「一子相伝」が常識でした。それでも日本に中華文明が伝わったのは、遣唐使、遣隋使のほか、唐以後の元、明、清の密貿易業者が日本から大金を巻き上げて売りつけたからです。

しかし、日本ではそうした秘密主義はほとんどとりません。世界的には年季奉公が奴隷制だったのに対して、日本での年季奉公は徒弟制度で、奉公先に婿養子に入ったり、暖簾分けしてもらって店を出させてもらったりすることも少なくありませんでした。だから日本は「匠の国」として技術立国化が可能だったのです。

日本が技術立国になれたのは、「原始神道」の「むすび」と「習合」の原理があったからです。「むすび」信仰というのは、万物を生み出す働きのことであり、これは生産技術を生もうということにつながります。そして日本的創意工夫としての発明と創造とは、複合的な技術の結合です。

その一例は、日本では漢字という表意文字と仮名という表音文字を、「習合」の原理に従って「仮名、漢字混じり文」として、千年以上も前から聴覚と視覚の双方を持つ文明を創出したことです。

安藤百福が幸いだったのは、日本統治時代に生まれ、人格形成の時期を過ごしたことでしょう。だから日本人同様に、不屈の精神と創造への意欲、そして共存共栄の気持ちを持ち続けることができたのだと思います。

この安藤百福の精神は、一巡してまた日本人を刺激したのでしょうか、当時、日清のライバル会社であった明星食品(現在は日清の子会社)が、韓国の即席ラーメン普及に多大な貢献を果たしています。

もともと乾麺製造を手がけていた明星食品は1960年に「明星味付きラーメン」を発売、即席ラーメン界に参入しましたが、1962年、スープの粉末を麺とは別に添付する方式を開発します。チキンラーメンが麺自体に味付けをしていたのに対して、スープ粉末を別にすることで、さまざまな味のバリエーションが可能となり、これが以後の即席麺の主流となっていきます。

その明星は、1963年、韓国の三養食品に技術提供を行い、現在の韓国の即席ラーメン大国となる礎をつくりました。

その背景には、日本で1959年に食べた即席ラーメンが忘れられず、朝鮮戦争後で食糧難だった韓国国民に「なんとかあれを食べさせたい」という思いで、明星食品に掛け合った三養食品の社長・全仲潤氏の情熱と、その志に強く共感して協力を約束した当時の明星食品社長で創業者の奥井清澄氏の存在がありました。

当時の韓国は世界最貧国の一つでした。その国民に食べさせたい一念で、全仲潤氏は母国の窮状を奥井氏に訴えました。これに対して奥井氏は即座に快諾し、明星食品は技術もトップシークレットのレシピもすべて無償で教え製造機械を半額にした以外はすべて無料だったそうです。

かくして、「三養ラーメン」が韓国で発売され、またたくうちに大人気となりました。韓国はいまや1人あたりの即席ラーメン消費量が世界一となっています。

「韓国の一つの終わり」実感

やはり日本時代を経験していた全仲潤氏は、つねに明星食品の恩を忘れず、また日本統治時代を高く評価していたとされています。

全仲潤氏は2014年に94歳で死去しましたが、韓国メディアは「ラーメンのゴッドファーザー」などと大きく報じたものの、明星食品との美談を報じたものはなかったようです。

それはともかく、日台のつながりにおいて、世界の食糧事情を変えたものとしては他にも、日本統治下の台湾で磯永吉末永仁の2人が心血を注ぎ、台湾の気候に合った品種改良に成功した蓬莱米があります。

詳しくは別の機会に譲りますが、蓬莱米は台湾の食糧事情を一変させただけではなく、戦後は飢餓大国だったインドにもこの苗が渡り同国の飢饉を解消させ、さらにはインドを米の輸出国にまで押し上げました

台湾では磯永吉博士を「蓬莱米の父」、末永仁博士を「蓬莱米の母」と呼び、2人の胸像は台湾大学に設置されています。

言うまでもありませんが、台湾は日本との出会いによって、近代化をはじめとする、非常に多くの恩恵にあずかることができました。しかしその一方で、日本のみならず世界にインスタント・ラーメンを普及させた安藤百福の偉業は、日本が台湾と出会うことで可能になったのだと思います。

相思相愛の日台では、こうした関係が長く語り継がれると同時に、さらに互いに協力しあって、蓬莱米や即席ラーメンのような世界に貢献する製品をつくることも可能でしょう。

image by: MAG2 NEWS

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