子供を叱ったりほめたりするとき、わたしたちはどうしても世間的な常識や暗黙のルールといったものに縛られてしまいがちです。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師の松尾英明さんが、世の中のものさしにこだわらず子どもにとって「よいこと」「よくないこと」は何かを考えるべき、と記しています。
ものさしを疑う
大学の授業での学びからの気付き。美術の教授の授業である(物凄く面白かった)。刺さった言葉。
「いいものに見えなくても、素晴らしいことがある」
曰く、「ものさし」に振り回されすぎだという。特に、教師である。
芸術的表現の歴史的変遷を見ると、「抽象」への飛躍の時代がある。「3次元の世界を2次元で表現する」という命題上の写実主義からの脱却。「ポスト印象派」としてゴッホ、ゴーギャン等が挙げられるという。
ご存知の通り、ピカソは写実画もできる(できるなんてレベルではない。中学生ぐらいの時点の絵で、かなり極めている)。これを「上手い」と評価(表現)してしまうのが、大人(含教師)である。写実的だと、上手い。この「ものさし」が、100年以上前と同じで、進化していないという。
抽象画を楽しめるというのは、価値観からの一つの脱却である。写実主義の物差しからすると、「下手」である。全く写実的でないからである。
従来のものさしでは到底はかれないからこそ、ピカソは天才であり、創造的であるともいえる。そもそもものさしというのは、誰かが決めた一定の尺度である。好き嫌いで考えれば、揃わなくて当たり前である。だから、それが本質的にいいか悪いかは、わからないはずである。
一方で、これは授業で出た話ではないが、高精度のカメラの存在する現代における、写実主義の発展も面白いと思う。カメラで捉えられる現実「以上」の姿を、写実的に描きだす。「こうあって欲しい」という願いが、現実以上のものとして描き出される。それは、理想形である。現実とは違う。しかし、それもその人間が表現として求める世界である。
話が逸れた。「いいもの」の基準についてである。
作品だけでなく、子どもそのものに対する見方についても、同じようにいえるのではないか。子どもたち一人一人には、それぞれの異なる輝き、美がある。しかし、社会に生きる大人の価値観では、それが見えない。さらにいうと、子どもの大切にしている世界も見えない。
大人の都合と理想を押し付けているのかもしれない。それは、それぞれの子どものもつ「価値」や「美しさ」に、そぐわないかもしれない。
世の中には、あまり「よくない」ものでも、評価されていることがある。一方で「いいもの」だけど、注目されない、よい評価をされないものもある。
例えば、その目の前の子どもは本当に「よくない」のか。それは誰にとっての「問題行動」なのか。大人の側の価値観が偏ったり、濁ったりしていないか。
自分の中の「ものさし」を、いつでもアップデートできるようにしていたい。
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