MAG2 NEWS MENU

もはや倒錯。ホンマでっか池田教授が指摘する「ビーガン」の傲慢

乳製品や卵を含む動物性食品を一切食べない完全菜食主義者ビーガン。最近ではファストフード店でもビーガンメニューが開発されるなど、その存在が話題となることも増えてきました。しかし、中にはその主義主張を他者にまで強要するケースがあり「倒錯している」と異を唱えるのは、CX系「ホンマでっか!?TV」でもお馴染み、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』著者の池田教授です。池田教授はさらに、人が口にする農作物は、牛や豚の命は奪わなくても、虫など多くの命の犠牲の上に成り立っていると、その倫理感の矛盾を鋭く指摘しています。

ビーガンという倒錯

ドミニク・レステルという初めて聞く名のフランスの哲学者が書いた『肉食の哲学』という本を読んだ。原題は『Apologie du carnivore』(肉食者の擁護)である。帯には「肉食は我々の義務である。ビーガンの心がけは立派だ。だがその道は地獄に続いている」と過激な文言が書きつけてある。帯の後半は「地獄への道は善意によって敷き詰められている」という有名な箴言のもじりだな。

ところで、ビーガンとはどういう人か。基本的に植物食の人はベジタリアンと呼ばれるが、ベジタリアンにもピンからキリまであって、忌避する食べ物の種類によって5通りくらいに分けられる。

  1. ビーガン 植物性食品のみを食べ、動物性食品は一切食べない。最も極端なベジタリアンである
  2. ラクト・ベジタリアン 植物性食品に加え牛乳や乳製品は食べる
  3. ラクト・オボ・ベジタリアン 2に加え卵は食べる
  4. ペスコ・ベジタリアン 3に加え魚は食べる
  5. ポーヨー・ベジタリアン 4に加え鳥肉は食べる、獣肉は食べない

ベジタリアンの意識の底に流れる基本的な倫理として、生きた動物を殺して食べるのは残酷だという思いがあることは確かだろうが、4や5は健康志向あるいは個人的な趣味の問題で、倫理的な問題とはあまり関係ないだろう(だからいけないと言っているわけではない)。牛や豚を殺して食うのは残酷だが、魚や鶏を殺して食うのは残酷ではないというのは、どう考えても合理的でないからだ。

牛乳や乳製品は殺さなくても入手できるので、これを食べるのは上の倫理に照らして許されるという2の人の考えは理解できるが、3は微妙である。鶏の卵には有精卵と無精卵があり、前者は鶏に育つので、これを食するのは発生途中の鶏を殺すことになり、鶏の生命が至上のものとの考えに立てば、人間でいえば堕胎と同様な倫理的問題を孕む。無精卵は厳密には生きていないとは言えないが、発生を始めることはないので、単なる細胞だと考えれば、これを食するのに倫理的抵抗感は少ないだろう。尤も有精卵と無精卵を見た目で判断するのは不可能に近いが。

冒頭に紹介した本が攻撃しているのは、普通のベジタリアンではなく倫理的ベジタリアンと著者が呼ぶ人たちで、一般的にはビーガンと呼ばれる。ビーガンの主張はつづめて言えば、動物を殺して食うのは人を殺すのと同様な犯罪だということだ。日本では過激なビーガンはあまり聞かないが、フランスではビーガンの人口に占める割合は0.5%だという。フランスの人口は約6500万人なので、32.5万人もの人がビーガンということになる。

何を食うか食わないかは、人を食ったりしない限り基本的に自由で、ビーガンが動物を食わないのは本人たちの勝手であって、何の問題もないのだが、問題は一部のビーガンが肉食者を敵視して実力行使に出ていることだ。先の本によれば、2018年、フランスでは何軒かの肉屋がビーガンに襲撃されて、スプレーで落書きをされ、窓を割られ、血糊をまき散らされたりする事件があったということだ。

動物の命は人間の命と同様に貴いという反・種差別の考えは一部の欧米人に根強く、捕鯨は犯罪だと主張して、実力行使をも辞さない、シー・シェパードに通底するところがある。こういった原理主義者が次々に出てくるのは、一神教の社会の弊害なのだろう。正しい考えは唯一であると信じると、それ以外は全部間違いということになり、正義を守るためには手段を択ばずということになりかねない。

かつて、中絶に反対する人が、中絶手術を行っている医者を射殺した事件があった。命の至高性を主張して、反対する人の命を奪うことを躊躇しないのは、不思議と言う他はない。

『肉食の哲学』は議論が込み入っていて、余り分かりやすい本ではないので、私なりのビーガンに対する反論を以下に記す。まず「反・種差別」の考えは他の生物を食うことなしには生きていけない人間の生態を前提にする限り、必ず破綻することだ。ビーガンは植物のみを食べるというが、野生のものでない限り、人間が食べる植物は耕作地で作られている作物であることが多く、作物を食べる害虫を殺戮した果ての産物である。

牛や豚の命は守るべきだが、害虫は殺しても差し支えないというのは、種差別そのものである。どこかで守るべき命と守らなくてもいい命の線引きをしなければ、人はそもそも生きていけない。

一番合理的で多くの人が納得するのは人とそれ以外のすべての生物の間に線引きをして、人間は特別だとの考えである。もちろんこの考えにも超越的な根拠があるわけではないが、それ以外の所での線引きはすべて恣意的になって、合理的に根拠づけることは不可能だ。

さらに耕作地は、本来は自然生態系で、そこを開墾して作物を栽培しているわけで、もともとそこに棲んでいた多くの野生動物を結果的に死に追いやった果てに作られたものだ。ビーガンは虫食いの痕がない穀物や野菜を食べて、動物の命を守っているという幻想に耽っているのかもしれないが、彼らが食べる作物を育てる過程で、どれだけ多くの動物たちが犠牲になったかについては想いが及ばないのであろう。

人類は雑食性の動物であったが、肉を食べるようになって脳が大きくなった。人類以外の類人猿(オランウータン、ゴリラ、チンパンジー)も植物食を基本とする雑食性で、動物も食べるけれども、人間的な感覚で言えば動物性たんぱく質も少しは食べるベジタリアンである。

チンパンジーと約600万年前に分岐した人類の祖先も基本的にベジタリアンであったと思われる。サヘラントロプス、オロリン、アルディピテクス、アウストラロピテクスと連なるホモ属以前の人類の成人の脳容量は500mlを超えることはなかった(約400mlのチンパンジーとさして変わりがない)。

アウストラロピテクスからホモ属が分岐する少し前のアウストラロピテクス・ガルヒ(約250万年前)あたりから肉の摂食量が増えて、ホモ属になった途端に脳容量は飛躍的に増大した。最も原始的なホモ・ハビリスで650ml、ホモ・エルガステル900ml、ホモ・エレクトス1200mlとどんどん大きくなり、現生人類(ホモ・サピエンス)では1350ml、ネアンデルタール人は1450mlである。

ネアンデルタール人の脳容量が現生人類より大きいのは、肉食の依存度がより高かったからという説もある。ちなみに、約200万年より少し前に、ホモ属に進化するアウストラロピテクスから分岐したパラントロプスはおそらく完全な植物食で、脳容量は500mlであった。

脳組織の50~60%は脂質でそのうちの3分の1はアラキドン酸やドコサヘキサエン酸といった多価不飽和脂肪酸で、これは植物には余り含有されておらず、肉や魚に多く含まれているため、脳の構造と機能維持には動物食は欠かせないのである。そのことを思えば、ベジタリアンはおそらく長生きしない。長命のベジタリアンというのは聞いたことがない。

ビーガンが肉を嫌うのはビーガンの勝手で別に文句はないけれども、人間の本来の食性を考えれば、肉を忌避するのはむしろ不自然なのである。生態系を構成する生物は植物(生産者)、動物(消費者)、菌類(分解者)である。生産者は水とCO2を原料として主として太陽光のエネルギーで、炭水化物を作って生きているので、他の生物を食べることはない。ビーガン的には最も倫理的な生物ということになるのかもしれない。動物は植食性、雑食性、肉食性と食性は3つに分けられるが、ビーガンの倫理をあまねく適用すると、ライオンも植物だけ食って生きろということになりかねない。(メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』より一部抜粋)

image by: Shutterstock.com

池田清彦この著者の記事一覧

このメルマガを読めば、マスメディアの報道のウラに潜む、世間のからくりがわかります。というわけでこのメルマガではさまざまな情報を発信して、楽しく生きるヒントを記していきたいと思っています。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料で読んでみる  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 池田清彦のやせ我慢日記 』

【著者】 池田清彦 【月額】 初月無料!月額440円(税込) 【発行周期】 毎月 第2金曜日・第4金曜日(年末年始を除く) 発行予定

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け