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「死後の世界」は本当にあるのか。心理学者が科学的理論を駆使して考えた

古よりあらゆるシーンで議論が重ねられてきたものの、未だ結論を見ない「死後の世界」を巡る問題。そもそも「魂」というものは存在し、連続してゆくものなのでしょうか。今回のメルマガ『富田隆のお気楽心理学』では著者で心理学者の富田隆さんが、まさに心理の専門家としてさまざまな視点からこの問題にアプローチ。その上で、自身が「死後も魂は連続する」と信じている理由を記しています。

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魂の連続性。「死後」の問題について

【実証された?】

今回は、「死後」の問題について考えてみましょう。

よく、「死んだらそれで終り」と言う人がいます。その人たちの多くは、それがあたかも「科学的」な結論であるかのように信じ込んでいます。しかし、これは後述するように、あくまでも一つの「仮説」、あるいは「考え方」であって、科学的に「実証」されたことではありません。

現代人の多くは、自身の精神活動が、脳や神経系を含む肉体の活動によって引き起こされる「随伴現象」であると思っています。ある種の唯物論的な「心身一元論」を信じているわけです。しかし、それが科学的に実証されたことではない以上、これは一種の「信仰」のようなものです。

現代の科学は「実証」に基づいていますが、実証とは、実験や調査を通じて研究者が繰り返し同じ「体験」を「再現」できることにより保証されるものであり、しかも、一定の手続きにしたがって同じように実験(あるいは調査)をすれば、「誰でも」同じ体験ができる(あるいは同じデータが得られる)ことが保証されなければ、実証されたとはみなされません。これを科学的データの「公共性」と言います。公共性により、データは「客観的」なものになります。

たとえば、田中さんが物質Aと物質Bをフラスコに入れて加熱したら、AとBが結合して金になったと発表しても、それだけで金を造れることが実証されたわけではありません。鈴木さんが田中さんと同じ手続きでAとBをフラスコに入れて加熱したら、金はできずに爆発して炭になったのであれば、田中さんの錬金術実験は公共性に欠けるものであり、実証されなかったということになります。

個別的であると同時に不可逆的な「死」という現象は、繰り返し再現して公共性のあるデータを蓄積するのには不向きです。上記の場合のように実験を繰り返して観察するわけにもいきません。しかも、死後も続くかもしれない「意識」あるいは「霊魂」と呼んでいるものの正体が、現在においてもよく分からないのです。自分に意識があるということは、人間のほぼ全員が認めると思いますが、それは極めて「主観的」な体験であり、公共性はありません。

そんな具合ですから、「死後も霊魂が存続する」ということも「死んだらそれで終わり」ということも、どちらもそれを客観的に実証することはきわめて困難なのです。

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【臨死体験】

客観的な検証が難しくても、主観的な体験を集めて研究することはできます。

たとえば、希に「臨死体験」と呼ばれる貴重な体験をした人たちがいます。つまり、一度死んで生き返ったという人がいて、そういう人が、自分の死んでいる間の体験を振り返って報告する場合があるのです。

これらの報告には、多くの人の間で共通の傾向もあるため、死後も霊魂が存続することの証拠と考えることもできますが、一方では、その人たちの報告した内容、たとえば、霊魂だけが「幽体離脱」して、自分の死体や家族、医師たちを上から見下ろしていた、といった体験談が、特殊な状態におかれた脳が作り出した幻覚であるという可能性も否定できません。

確かに、生理学的に脳の活動が停止した状態であったにもかかわらず、その人の意識が連続しており体験が記憶されていたと実証できれば、これは、従来の脳科学の「常識」をくつがえすことになり、死後の霊魂の存続を示す証拠となるでしょう。しかし一方では、いくらその人が正直に自分の体験を報告していたとしても、当人が連続的体験であると思っている主観的な出来事が、生き返った直後に活動を再開した脳が短時間の内に創り出した一種の幻覚であるという可能性も否定できないのです。

もちろん、こうした議論そのものが「脳の活動=意識」という前提に立っています。しかし、そうした前提も絶対的なものではありません。

ですから、こうした現象は、その解釈の仕方によって結論が異なってきます。つまり、死後も霊魂が存在すると客観的には結論できないのと同時に、死んだら終わりと結論付けることも客観的にはできないのです。

同様のことは、「前世」を記憶しているとされる人々の証言や、「退行催眠(催眠状態で過去の意識状態へと遡る手法)」により、前世の体験を語らせる「前世療法」のデータについても言えることです。語られた内容が、現在の本人が知り得ないことで、それが客観的な事実と合致するとしても、これはあくまで「輪廻転生(りんねてんしょう)」の「状況証拠」です。

大量に語られた証言の中に「偶然」過去の事実と合致する事柄が含まれる確率を計算し、輪廻転生説に反駁しようとする研究者もいるでしょう。また、本人が自分の前世であると思っている記憶が、実はまったく別の人の体験に基づいたものであり、本人はESP(Extra Sensory Perception;超感覚知覚)を通じて別人の記憶にアクセスしている、というような仮説を用いて説明することも可能です。この場合、「輪廻転生」により、本人が死後に別の人間として生まれ変わる必要は必ずしもないということになります。ただし、それなら、先人の記憶が何らかの形で貯えられている必要があり、語っている本人が、なぜ、その人の記憶にアクセスできたのかという疑問が残ります。

ですから、死後の「魂の連続」を支持するような「状況証拠」が山のようにあっても、それをどう「解釈」するかは各自の「信ずるところ」により変わってきます。

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【新宗教】

自分という意識が死後においてどうなるのかは、本人が死んでみないと分からないことであり、今のところ、生きている内に「客観的」に結論を下せることではないのです。ですから、その人がどのような「死後のイメージ」を現実的なものとして感じるかは「宗教」の領域のことになります。

ここで言う宗教とは、現実の「体験」によって知り得ない大切な事柄に対して認識すること、信ずることを指しています。ですから、特定の伝統的な宗教に対する信仰があるとか、○○教の××派に所属しているというようなこととは別の次元の話です。たとえ無神論者であろうが、「死んでしまえば全て終わり」と思っていようが、体験で知り得ないことを信じている以上は、その人が宗教的な信念を持っているということになります。

このように整理してみると、「死後も霊魂が連続する」と考える人と、「死ねば全て終わり」と考える人の対立は、個人的な「宗教観」の違いにより生じるものであり、俗に信じられているように「科学対宗教」の対立でもなければ「現実主義対信仰心」の対立でもありません。

死んでしまえば全て終わりであるという「信仰」は、今に始まったことではないのですが、近代の合理主義や自然科学主義、あるいは唯物論的な世界観といったものが影響して力を得、広く流行して、一種の「新宗教」のようなものになりました。それが現在では、個人の行動や社会的文化的な現象に強い影響を与えています。

この「死ねば終わり」信仰は、人をニヒリズム(Nihilism:虚無主義)的傾向に導きます。それは、刹那(せつな:極めて短い時間)的な享楽(きょうらく:快楽にふける)を優先させる傾向です。明日は無いのだから、今が楽しければ良い。善悪などは人間が決めたこと、この世に価値は存在しない。自分に残された貴重な時間を楽しむためには、他人のことなどかまってはいられない。お金がなければ享楽は得られないから、法律を破り、他人を犠牲にしてでもお金を稼ぐことを最優先にする。

まさに、経済アナリストの藤原直哉さんがよく批判する「今だけ、金だけ、自分だけ」路線です。こうした生き方に言いようのない「寂しさ」を感じるのは私だけではないでしょう。

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【ヴィジョン】

「未来についてのイメージが今の生き方を決定する」というのは、恩師の一人、精神医学者の小木貞孝(小説家の加賀乙彦)先生の名言です。

未来に虚無しか見えない人の生き方が刹那的、享楽的になるのは必然です。彼らの現在は、既に、未来の虚無に飲み込まれているからです。

私個人は、それがどういうものかよく分からないながらも、死後も魂は連続すると信じています。

尊敬する恩師や友人たちに「死後の連続性」を信ずる人たちが多かったことも一因でしょう。しかし、本音を言えば、その方が楽しいから信じているのです。その方が、今、生きている内にやっていることに「意味」を見出せるからです。ちょっと気障(きざ)に言うなら、充実した今を生きるために、未来を信じているのです。

マクロ的に見れば、自分というちっぽけな存在のやっていることが、銀河宇宙の歴史の中で、何らかの意味を担っていると実感したいのです。ミクロ的に考えれば、自分の妻や子供たち、孫、お世話になった方々や友人たち、この世で縁をいただいた人々に、少しでも恩返しをしたいのです。そして、自分の死後も生き続けるであろう孫や次世代の人たちに、少しでもお役に立ちたいのです。

おそらく、そうした願いが私の認識を歪め、死後の連続を信じさせるのでしょう。冷徹な客観主義の観点からすれば、それは、一種の「幻」なのかもしれません。しかし、幻の中にも、意味のない無価値な幻もあれば、価値のある幻もあります。価値ある幻のことを私たちは「ヴィジョン(vision)」と呼びます。

いくら「そんなものは幻だ」と笑ったところで、「ヴィジョン」の無い者に未来はありません。未来は貴方の心の中から生まれて来るのです。

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image by: Shutterstock.com

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