三英傑の一人で、変わりゆく戦乱の世を生きた戦国武将である織田信長。彼に今の日本が学ぶことは多くあるようです。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、 多くの時代小説を執筆してきた童門冬二氏と、小説家として歴史関係の随筆家としても著名な安部龍太郎氏のお二人が、現代日本の進む道筋のヒントともなる織田信長の多面的な魅力について語っています。
織田信長の日本人離れした精神構造に学ぶもの
群雄割拠の戦国時代、加えて「第0次グローバリズム」とでもいうべき西洋文明との接触の時代を生きた武将・織田信長。日々生と死に向き合うような熾烈な時代の狭間で、信長はいかにして運命を切り拓いたのでしょうか。
童門冬二氏と安部龍太郎氏、作家のお2人に信長の多面的な魅力と底力について語り合っていただきました。
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安部 「僕は織田信長にとても大きなこだわりがあるんです。信長は、日本人として初めて西洋文明、西洋列強と向き合うことを迫られた為政者でした。彼が生きた時代は西洋でいえば大航海時代で、スペイン、ポルトガル両国が世界植民地支配体制をつくろうとしのぎを削っていました。
両国の影響力が東アジアに及び始めたのがちょうど信長の頃です。信長がそれにどう対処したかを見ることは、今日のグローバリズムの中で日本がどう生きるかを探る上でも大きな示唆を与えてくれると思います。そういう意味で、信長から目が離せないんです」
童門 「確かにそうですね。信長というのは、円筒形の人間だと僕は思っています。どの方位から光を照射しても十分堪えうる存在で、切り口はいくらでもある。だから、いまおっしゃったように現代に照らして学ぶべきことがたくさんあるし、これから時代が変われば変わるほど、彼の存在からまた違ったことを発見できますよね」
安部 「信長が流通に深く関わっていた側面も見逃せないと思います。織田家は木曽川河口の津島に勝幡城を構えて本拠地にしていましたから、伊勢湾海運と非常に密接に繋がっていました。大消費地である京都と大坂に繋がる流通路の喉首を握っていたわけで、そこから入ってくる収益はものすごく大きかったのです。
日本の大名というと往々にして石高何万石という形で計られがちですけれども信長の場合、ドル箱である港を押さえていたので、他の大名と違って自由に拠点を移すことができたのだと思います」
童門 「だから彼には土地を広げようという考えがあまりなかったんですね。信長は岐阜で撰銭令という、銭を選ぶ法律を出しています。日本は当時まだ鋳造能力がなかったから、中国の銭を使っていました。だけど欠け銭とか焼け銭とか、悪貨が非常に多いので、これはいかんということで、良貨を使えという命令を出しています。
それから、いまお話に出た伊勢、いまの三重県に、当時は六十数か所も関所があって、そこでいちいち通行料を取っていました。信長は、これは物流の妨げになるということで全部撤廃しました。ですから、信長が物流、経済を重視して、一つ所に命を懸ける『一所懸命』の土地至上主義から遥かに脱却していたという安部さんのお考えには賛成ですね」
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