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「半農半電脳記者生活」のきっかけを作った同志・藤本敏夫のこと

「人生二毛作というなら、まさに土に足をつけた“農的生活”をめざすべき」。鴨川自然王国を設立、歌手の加藤登紀子さんと獄中結婚したことで知られる故・藤本敏夫さんの言葉です。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』では、同じ昭和19年生まれで、同志と呼ぶ藤本さんのこの言葉がきっかけとなり、千葉鴨川山中での「半農半電脳記者生活」を始めて来年15年になるというジャーナリストの高野孟さんが、以前寄稿した「同志・藤本敏夫への挽歌」を再録し、故人と鴨川自然王国の営みを回顧します。冒頭では、昭和19年生まれの多士済済ぶりについて、当人たちが笑い話にしていた理由を明かしています。

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※本記事は有料メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2021年12月13日号の一部抜粋です。ご興味をお持ちの方はぜひこの機会に初月無料のお試し購読をどうぞ。

プロフィール高野孟たかのはじめ
1944年東京生まれ。1968年早稲田大学文学部西洋哲学科卒。通信社、広告会社勤務の後、1975年からフリー・ジャーナリストに。同時に内外政経ニュースレター『インサイダー』の創刊に参加。80年に(株)インサイダーを設立し、代表取締役兼編集長に就任。2002年に早稲田大学客員教授に就任。08年に《THE JOURNAL》に改名し、論説主幹に就任。現在は千葉県鴨川市に在住しながら、半農半ジャーナリストとしてとして活動中。

鴨川の山中で「半農半電脳記者生活」15年の回顧と展望《その1》

私が房総半島・鴨川市の山中で「半農半電脳記者生活」を始めてから来年5月で丸15年になる。そのきっかけを作ってくれたのは故・藤本敏夫で、彼が亡くなってから来年7月で丸20年になる。なんとなく「一区切り」という感じがするので、すでに何度も書き綴ってきたことではあるけれども、改めてこれまでを振り返りつつ里山暮らしとその周辺の最近事情を伝えることにする。

昭和19年生まれの「一休会」結成

そもそもの発端は、私が50歳になった1994年に、ちょうど10歳上の田原総一朗さんの還暦祝いの会が開かれ、その会場で「そうか、俺もあと10年で還暦かあ…」としみじみと思ったことにある。それからしばらくして昭和19年の同年生まれである藤本敏夫や連合労組の政治局長だった鈴木英幸らと語らって、19年生まれの知り合いを集めて「一休会」を作った。

19年生まれには面白い人が多くて、主なメンバーを思いつくだけ挙げても、政官界では中川秀直、丹羽雄哉、額賀福志郎、細田博之(以上自民党でいずれも幹事長・大臣クラス)、故・岡崎トミ子、筒井信隆、峰崎直樹(以上旧民主党の創立メンバー)、北川正恭(元県知事→教授)、長野庬士(大蔵省→弁護士)。

作家・記者では大下英治(小説家)、船橋洋一(朝日)、故・岸井成格、中島健一郎(以上毎日)、田勢康弘(日経)、川戸恵子(TBS)。学者では猪口孝(新潟大学学長)。弁護士では反原発の闘士=河合弘之。アーティストでは田村能里子(画家)、故・山本寛斎(デザイナー)。ミュージシャンでは小椋佳(フォーク)、外山喜雄(デキシージャズ)、津田昭治(ギター)。実業家では似鳥昭雄(ニトリ)、などまさに多士済々。

ちなみに、声を掛けて「興味はあるが暇がないのでなかなか参加できそうにない」という返事を貰ったのが、袴田茂樹(ロシア研究者・青山学院大教授)と、先日亡くなった中村吉右衛門(歌舞伎役者)。「群れるのが好きじゃないんで」とハッキリ断られたのが藤原新也(写真家)と辺見庸(作家)。返事がなかったのが椎名誠(作家)、舟木一夫(歌手)、田中真紀子(政治家)、故・船戸与一(作家)などだった。

昭和19年生まれにはどうしてこんな風に個性的というか変わり者が多いのかという話になり、そもそもこの年に我々が生まれているということは、18年春からその1年後までのまさに戦争末期というか断末魔の時期に子供を仕込むだけの“ゆとり”があった両親だということであり、その時期に戦争に行かないでそんなことをしていた父親はもしかしたら「非国民」ではないのかという話になって大いに盛り上がった。

私なんぞははっきりしていて、父親は労働運動家で、反戦を唱えて牢屋に入れられたが結核が悪化して病院に送られ、良くなるとまた牢屋に返されるということを繰り返し、その合間に自宅で過ごすこともあったようなので、自慢じゃないが「非国民の子」である。

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その一休会の何回目の飲み会だったか、藤本が、かつて三派系全学連委員長として多くの人を惑わせた名演説の口調で、
「諸君、還暦はまさしく折り返し点である。そこから人生二毛作目が始まる。二毛作と言えば、農である。21世紀の日本は、再び農に帰って行く。農業とは言わない。業としての農は今ではプロの農家さえもが担いきれずに離れていく現実がある。そうではなくて、国民すべからく何らかの程度、土に触れ、例えマンションのベランダに置いたプランターのパセリだけでもいい、農のある暮らしを目指さなければならない」

というようなことを語った。「面白いじゃないか」ということになり、ではまず藤本が「農事組合法人・鴨川自然王国」でどんな暮らしをしているのか見に行こうじゃないかということになり、鈴木や芸能レポーターの故・梨本勝など会の有志5~6人で訪れたのが、鴨川に接した最初である。

「鴨川自然王国」での農林作業ボランティア

東京から車で1時間強という近さでありながら、日本の原風景とも言うべき里山の濃厚な光景が広がっていることにまず驚く。しかし中まで分け入ってみれば、田畑は棄て去られ森林は荒れるに任されて、村は高齢者ばかりでそれをどうすることもできないという実情に再び驚いて、以後、月に一度は王国に行き泊まりがけで農作業の手伝いや荒れた森林の整備などに取り組むようになった。

やがてそれが「棚田トラスト」会員制度として整備され、田植え・稲刈りを中心に年間を通じて月1回程度の1泊2日の行事日程を組んで多くの人びとが定期的に集まるようになり、私がその世話人役を引き受けた。藤本はその頃から自然王国の国王を自称していたので、私はさしずめ官房長官という役回りだった。

農作業や山仕事で汗をかき、夕方明るいうちから焚き火を囲んでビールを飲みつつ藤本らと語り合う中で、私は、還暦を期してこの地に転居して、エセ田舎暮らしというか、「半電脳・半農牧」的生活を探究するのだと考えるようになった。

藤本は、同志社ブンドから三派全学連委員長に上り詰め、68年に防衛庁突入事件を指揮したとして逮捕、72年に有罪確定・収監。獄中で加藤登紀子と結婚。出所後、世の中を変革するには食と農であるとの悟りから「大地を守る会」を創業するが、やがて自身が地に足を着けてモノを産み出していないことに疑問を感じ、放浪の末、81年に鴨川の山中に居場所を見い出し「鴨川自然王国」を設立する。鶏卵や納豆などの頒布ネットワークを作ったり、盛んに活動したようだが、その時期は私は触れ合っていない。

私と藤本は、学生運動の時代に、党派も大学も違って直接の触れ合いはなかったが、遠目では見知っていて擦れ違えば会釈する程度の関係だった。彼の出所後は何かの集会などで出会えば帰りにちょっと一杯飲んだりすることもあった。92年の参院選に彼が環境政党「希望」を結成して自身をはじめ全国で9人を立てた時には、呼び出されて語り合い、彼をその方向に後押ししている秦野章=元警視総監らの勢力が余り感心できないこと、政党のアジェンダが未熟でいかにも素人めいていて(気持ちはわかるけれども)説得力に欠けることなどを指摘し、「止めたほうがいい」と忠告した。彼は「今更、引けないんだ」と言い、私は「じゃあ仕方がないけど、その後のことを考えておいた方がいいね」と言って別れた。案の定、「希望」は全員落選した。

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藤本の遺言としての「農的幸福論」

それから後の彼の活動と思考を跡づける文献はいくらでもあるが、一冊だけに絞れば、加藤登紀子編『農的幸福論』(家の光協会、02年12月刊)だろう。「藤本敏夫からの遺言」というその副題にあるとおり、死の直前まで書き綴っていた約80枚の原稿を中心に登紀子さんが編んだ遺稿集で、その末尾は「同志・藤本敏夫への挽歌」という次のような高野稿で締めくくられている。これは葬儀の時に私が原稿なしで話した弔辞をほぼそのままに復元しながら、この本に相応しいように若干の修正を加えたもので、ここまでの記述と一部重なるが、歴史的文献の1つとして再録しておこう。

同志・藤本敏夫への挽歌

同志・藤本敏夫が死んでしまいました。それは一つの戦死だったと思います。病と最後の最後まで戦っただけでなく、何とかしてこの世の中を変えようとして、病院を抜け出して人に会い、会議を召集し、だれかに文書を送りつけて、その死の直前まで戦うことを止めませんでした。ある程度まで本人も周りも覚悟していたとはいえ、しかし、あまりに唐突に訪れた彼の死に、私でさえまだ呆然としているというのに、加藤登紀子さんが早速に、このような遺稿集を編む作業に取り組んでくれたことに感嘆しつつ、深く感謝するものです。藤本の思想と行動をもう一度しっかりと噛み締めつつ、「後は任せろ、安心して休んでくれ」とき持ちよく彼を天に送り出してやりたいと思います。

鴨川自然王国には山賊小屋と呼ばれる集会所があって、その前には枕木で作った大きなテーブルがあり、農作業を終えて帰ってきた人たちは手足の泥を落として、そこでビールを飲み始めます。死の1年ほど前からは、農作業に加わるだけの体力を失っていた藤本は、それでも夕方には、いつもそのテーブルの議長席のようなところに座って皆を迎えました。麦わら帽をかぶり、タオルを首にかけて、長靴を履いた脚を組んで、そんな恰好をしてもいつもダンディだった彼が、「いやあ今日は申し訳ないな、何も作業ができなくて」と言って、ニコニコしている姿が目に浮かびます。そんな折り、たまたま近くに席を占めた誰に向かっても、農と食について、環境とエネルギーについて、21世紀について、真正面から語りかけるのが常だった彼の生々しい肉声を、本書の端々から感じることができます。

「同志」という言葉も古いですが、同じ志を持って、ということは同じ時代の方角を向いて、一緒に考え、議論し、行動するのがそれであるとすれば、本書の読者の皆さんの中にも、人生のある時期において、長いか短いか、ほんの一瞬であるかは別にして、彼に共鳴し、影響を受け、ある場合には人生を狂わせられるような目に遭ったりもした、それぞれの意味における同志の方がたくさんいるに違いありません。千人いれば千の“同志・藤本”像があって、そういうものが、彼が愛して止まなかった加藤登紀子さんの歌声に乗って、一つの星雲となってゆっくりと空に昇華していくなら、それが何よりの彼への供養だろうと思います。

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私と彼とは、同じ昭和19年生まれで、学生運動の時代から、大学も党派もかけ離れてはいましたが、遠目で見て一目置き合っているような関係でした。私は「同志社に凄い奴がいる」と思っていましたが、彼もまた「早稲田には変な奴がいる」と思っていたことを、後になって告げられました。10年前でしょうか、彼が参院選に出ることを決意した時には、相談があって、麻布十番のおでん屋で長い時間、語り合いました。

8年前にわれわれが50歳になったときに、私は突然「ああ、あと10年で還暦かあ」という感慨に駆られて、藤本らと語らって「一休会」を作りました。19年の一九と、「ここらで人生一休み」の一休をかけた会で、多士済々の方がたが集まって、仕事仕事でこのまま還暦を迎えて、やがてバッタンキューというのでいいんだろうか、人生二毛作と言うじゃないか、何か別の生き方・暮らしぶりを考えるべきじゃないか、というようなことを語り合ったのでした。

その中で藤本は、人生二毛作というなら、まさに土に足をつけた“農的生活”をめざすべきだと主張しました。そして私をはじめ何人かを帯広の牧場や鴨川の農場に連れて行きました。私は、それにすっかり魅せられて、それ以来、帯広に年に何回か通って山野で馬を乗り回したり、鴨川で農林業ボランティアや棚田トラストの活動に精を出したりすることを生活の一部とするようになって、人生が大きく様変わりしてしまいました。さらに、自分たちがそうするだけでなくて、農村から都市へという流れを、百年目にして大逆転させるための帰農運動を作り出すべく、さまざまな働きかけを行ってきました。

彼が最近10年間ほど何を考え行動してきたかは、ちょうど彼の死の翌日に発売となった『現代農業』増刊の「青年帰農」特集に載った彼のインタビューに、よく集約されていると思います。本書の第4章にあたる文章がそれです。この季刊雑誌は、いち早く「定年帰農」という言葉を打ち出したことでも知られる、農と食にかかわる思想・文化誌として、藤本も常々「いつも世の中の先を行っている」と高く評価していたものですが、それが今度は「青年帰農」と言い出して、中高年や退職者ばかりでなく、学生や若い人たちのあいだにも、農業と農的生活に目を向ける人が増えていることを、豊富な事例を挙げて伝えました。「定年帰農」が「青年帰農」へと広がりつつあることを見て、藤本がどれほど喜んだことか、想像に余りあります。

鴨川自然王国で国王と言われた藤本が、還暦を迎えることなくいなくなってしまって、どうしたらいいかわからない心境ですが、帰農運動の拠点としての鴨川自然王国を、どう継承し発展させていくか、登紀子さんと相談しながら担っていくことが、私の使命だと思っています。

藤本はいつも同志を求めていました。ある時は激しくアジり、ある時は理路整然と説得し、またある時は背を向けて「お前ら、俺の背中を見ればわかるだろう」と突き放すような態度を取り、そして周りの者がその気になると、その時には彼は、もっと先へ行ってしまっているという風でした。それが彼のスタイルでしたから、仕方がないことだったのでしょう。そして今、われわれは最終的に「投げかけられたまま」となりました。それにどう答えを出すか、一人ひとりが問われているのだと思います。万感を込めて、ありがとう、藤本。そして、さようなら……。

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「鴨川自然王国」のそれから

登紀子さんは忙しく全国や世界を飛び回っていて、以前はそれほど頻繁に鴨川を訪れることはなかったが、藤本亡き後は自分が引き継ぐしかないと覚悟して、生活の本拠をそこに移して運営を指揮した。それを熱心に支えたのは、歌手活動を始めたばかりの次女のヤエさんで、彼女はやがて王国の研修生として農業者をめざしていた青年と結婚し、3人の子を育て、王国の女王の座を確立した。「半農半歌手」を名乗り、各地でのコンサートやラジオ番組などに出かけて行く一方、王国では週末オープンのカフェ「En」を開いてきた。

田植え・稲刈り作業を中心とする王国サポーター会員制度は、私が携わっていた時代より規模はやや小さくなったようだが続いていて、多くの人々がここを訪れる。また、藤本が亡くなる少し前に発案しNPO法人「ふるさと回帰支援センター」との共催で2000年から始まった「里山帰農塾」は、私が塾長を継ぎ、20名定員で2泊3日の合宿形式で年3~4回開催し、2010年まで続いた。たまたま手元に同年11月5日から3日間の「第36期里山帰農塾」の資料が残っていて、たぶんこれが最終回となったのではないかと思うが、そのメニューはこうだ。

《第1日》
10:00 開校式、自己紹介「私の農的生活への思い」
12:00 昼食
13:00 講義「森と川と田と海」(高野孟)
15:00 実習「山林間伐作業・炭焼き」
17:00 夕食
18:00 実習続き
19:30 終了

《第2日》
07:00 スワイショウ体操
07:30 朝食
08:30 実習「畑仕事」(藤本ミツヲ=ヤエさんご主人)
10:10 実習「蕎麦打ち」(井上静雄=移住者)
12:00 昼食(自分で打った蕎麦を頂く)
13:00 講義「私の里山暮らし」(小熊英男=帰農塾4期生)
14:40 講義「地元学」(甲斐良治=現代農業増刊編集長)
16:20 講義「藤本敏夫のこと」(加藤登紀子)
18:30 交流会

《第3日》
07:00 朝食
08:30 棚田見学・移住者訪問ツアー(林良樹=王国スタッフ)
12:00 昼食
13:00 炭窯開き
13:40 意見交換・レポート執筆
15:50 閉校式
16:10 解散

なかなか濃密なカリキュラムで、受講者にはおおむね好評だった。各回10数名から20名で、累計で500人以上が受講し、中には間を置いて2回受講した人もいたりした。その約半分ほどが何らかの程度と形態での里山生活者、帰農者となったことが判っていて、その意味でこの活動は大きな意義があったように思う。

今年は10月10日に開かれた王国の「収穫祭」では、元王国スタッフで今は近くの釜沼北集落で「小さな地球プロジェクト」代表を務める林良樹の企画・司会で、そのプロジェクトのパートナーである建築家の塚本由晴=東工大教授、長谷川孝夫=鴨川市長がリアルで、そして熊谷俊人=千葉県知事がオンラインで参加する村興しについての豪華なシンポジウムが開かれた。

熊谷知事は、今年3月の選挙で初当選する前から王国を訪れていて、よき理解者であるし、長谷川市長はもちろん王国や千枚田を市の重要な観光資源と捉えて何かと支援を怠らない。藤本は、ここを都市農村交流の一大拠点にすることを悶えるがごとくに希求していたが、20年後の今、その夢は達成されつつあると言える。(次号に続く)

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image by: Shutterstock.com

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