「多様なセクシュアリティのあり方を認めあう」。それは令和に生きる私たちの課題です。しかし、つい「男はこうあるべきだ」「あの人、女っぽくないよね」など旧態依然とした性別観に縛られた発言をしてしまうケース、あなたにはないですか。なかなか古い概念を消し去れない、それが実情です。
そんななか、幼い頃から性同一障害に苦悩し、女性から男性へ、男性から女性へ、2度の性転換を実行した人物にお話をうかがうことができました。女と男のグラデーションのなかで生きた彼女の発言は、性別について考えるための、多くの示唆を含んでいたのです。
「自分は本当に女の子なのか?」と疑いをいだいた幼少期
「往復性転換」の経験があるユズシカさん(51)。彼女は訪問介護をする看護師です。SNSで性同一障害と2度の性転換を打ち明け、性別不合に悩む人たちの力になっています。
ユズシカさんは名古屋にお住まい。十代は奈良で暮らし、二十代は大阪で働きました。その後は北陸~東海と、居住地を転々としています。
自分の性別が女である。ユズシカさんがそこに「違和感をおぼえた」のが幼少期。
「女の子として扱われるたびに、しっくりこない感じがありました。なので、物心がついたときから、自分のことを僕と呼んでいました」
自分は本当に女の子なのか? ちぐはぐな不一致感にさいなまれた子ども時代。しかし、なぜ自分の性別が心地よくないのか、幼稚園児だったユズシカさんには、まだ理解ができずにいました。
「母親が買ってくるかわいい服を着たり、お人形を与えられたりするのがつらかった。とにかく、『女の子はかわいいものが好きだ』と決めつけられるのがイヤだったんです。散髪屋さんへ行っても、自分が納得できる髪型にしてもらえず、憂鬱でした。でも、イヤだといってはいけない気がして、我慢していたんです」
初潮が訪れたとき、祝われるのがつらかった
「自分は、本当は男の子ではないか」。決定的に感じたのは、弟の誕生がきっかけ。弟は男子として育てられ、しつけられる。その様子を見て、はっきり「本来は私もそうされるべきだ」と確信したのだそう。
「他人からはもちろん、母親から『女の子として見られる』視線に強い抵抗感が芽生えました。体型を眺められたリ、裸を見られたりしたくない。想像しただけで気色が悪い。お風呂も深夜にこっそり入っていました」
身体は女の子でも、自分は男の子なのだ。そう自覚しても、初潮はやってくる。「あの日はとても苦しかった」と振り返ります。
「初潮が来たと母親に告げたとき、祝われました。それが恥ずかしくて、逃げ出したかった。あの日以来、生理が来るたびに気持ちが沈みました。とにかく親にバレたくなかった。そしてバレたくないと焦っている姿を見られるのは、もっと恥ずかしかった」
「男性に憧れる」程度では済まなくなってきた
「性転換」。この言葉を知ったのは中学校へ進んだ14歳。往時、関西ローカルのテレビ番組は、男性から女性への性別適合手術を受けたカルーセル麻紀がたいへんな人気を博していました。「反対に、女性から男性にはなれないのか」。この頃からユズシカさんは、男性になるにはどうしたらいいかを真剣に考え始めます。
「自分のなかにあるズレが深まるばかり。『なんとなく男性に憧れる』とか、もうそんなレベルでは済まなくなってきたのです。自分は本来は男。なのに、身体が女である。生物として根源的な不自然を感じるようになってきました。なにをしてもしっくりこない。『この不条理は、私が男になれば、すべて辻褄が合う』と、性転換を本気で考えるようになったんです」
スカートをはくのがイヤで登校拒否に
中学に進学したユズシカさんの前に立ちはだかった障壁が、制服。スカートをはくたびに身体が強い拒絶反応が示すようになったのだとか。
「中学時代、私服は完全にメンズでした。母はそんな私を理解してくれて、『これ、似合うんじゃない?』と男の子が着る服を選んでくれるようになりました。けれども制服だけはどうしても女子用を着なければならない。スカートをはくのが腑に落ちず、中学3年生になると、1年の半分は休んでいました。ただ勇気がなく、『スカートをはくのがいやだから登校したくない』とは言えませんでしたが」
女子用の制服に耐えきれず、遂に登校拒否に至ったユズシカさん。出席日数が足りないものの、「病欠」扱いの温情(?)と特別な試験を経て卒業。
この頃になるとユズシカさんの胸中に「自分が間違っているのではないか」「自分は病んでいるのではないか」と迷いが生じ始めます。そうして女子として扱われる不快を克服すべく、荒療治のようにあえて女子高へ進学するのです。
「女子高に入ると、ボーイッシュだった私は目立ちました。他のクラスでファンクラブができたり、ラブレターをもらったり。私自身も同級生に恋愛感情をいだくようになりました。女子としてふるまわない私を彼女は『カッコいい』と言ってくれた。『女の子が女の子を好きになる気持ち、わかるよ』とも言ってくれた。ドキドキし、温かい気持ちになりました。恋愛もどきな時間を楽しみましたね。けれども友達関係のまま。まだ学生だったからか、お互い踏み越えられなかったのです」
「共用トイレ」を探して街をさまよった
同性に恋心をいだく日もあった女子高校生時代。しかし制服を忌避したい気持ちを払拭できず、自主退学。通信制高校へ再入学し、十代で働き始めます。
「どこでアルバイトをしても、私の扱いに困っているようでした。身体は女だけど心は男。そんな私を初めて受け容れてくれたバイト先は、大阪道頓堀で人気があった今はなきオカルト風居酒屋『ゼノンの食卓』。もともと非日常がテーマの居酒屋だから、理解してもらえたのかな。ここは本当に自由だったし、楽しかった。お客さんも私を女だとは知っているんだけれど、男として扱ってくれましたね」
社会へ出て、男性にしか見えない外見で暮らせるようになったユズシカさん。しかし往時の街は現在ほどトランスジェンダーを受け容れるようにはできていません。特に困ったのが「トイレ」。
「ひたすら“共用トイレ”を探しました。女子トイレ、男子トイレ、どちらに入っても奇異に思われるのがしんどかった。当時は現在よりも雑居ビルのなかに共用トイレがあった時代でしてね。ビルというビルにすべて登って男女兼用のトイレを探しました」
LGBTと公衆トイレの問題は、現在も変わらず社会の大きな課題となっています。
母親に「性転換したい」と打ち明けた
社会へ出て、奈良から大阪への通勤が日常となったユズシカさん。いよいよ「女性から男性へ」性転換した人物と出会います。その人は著書『女から男になったワタシ』(青弓社/1996)を上梓した虎井まさ衛さん。性同一性障害の診断を受け、のちに戸籍の性別変更を求める運動の旗手となった虎井さんに、ユズシカさんは勇気づけられたのです。
「通勤電車の中でおじさんが読んでいた新聞の広告で、虎井まさ衛さんの存在を知りました。『女から男になった人がいるんだ!』って嬉しくて、さっそく本を買ったのです。出版社に感想の手紙を書いたら、とてもきれいな字の返事をくださいましてね。文通が始まりました」
手紙のやりとりで友情を育んだ二人。虎井さんがスタンフォード大学の病院で最終手術を受ける際、ユズシカさんは付添人として渡米しました。この海を越えた経験は、ユズシカさんの性転換への意志をいっそう強くしたのです。そうして覚悟を固め、「男になる」と母親に告白します。
「母へ手紙を書いたんです。母は私のボーイッシュな部分やショートヘアを気にいってくれて、人に『息子だ』と紹介してくれた日もありました。けれども、さすがに性転換となると話は別。とても悩んでいましたね」
戸惑う母。父親は、どのような反応だったのでしょう。
「父とは……ほとんど話をした経験がないのです。父は私には関心がなかったと思います。家にもあまりいませんでした」
性転換が進むにつれ、身内が離れていった
両親から性転換を「しろ」とも「するな」とも言われない、糸が張り詰めたような十代。同時期、ユズシカさんは精神科医より性同一障害と診断されます。そうして手術に親の同意が必要でなくなる二十歳になり、性同一障害の診断書を携え、初めて肉体にメスを入れる運びとなったのです。最初の手術では「腋窩(えきか/わきの下)」のそばを切り、乳房の乳腺と脂肪を取り除き、圧迫して癒着。胸を平らにしました。
「胸がなくなって、自由になった気がしました。胸のふくらみを気にせずメンズファッションが着られるし、すっきりしました」
乳房をなくし、重しが取れたような解放を感じたユズシカさん。その後、お金を貯めては少しずつ肉体を改造。自分の肉でつくった男性器を植え、20代後半には行政の書類にも「男性」と記載されるようになったのです。
しかし、決して快適なできごとばかりではありません。性転換が進むにつれ、親族はユズシカさんと距離を置きはじめました。
「性転換が進んでゆくにつれ、弟は私の存在を隠すようになりました。結婚式にも呼んでもらえなかった。5年前に祖母が亡くなった葬式に参列するまで、弟は自分の妻と子どもに私の存在を内緒にしていました」
親戚からも避けられ、付き合いをしなくなっていったといいます。性同一障害への理解がもっとも得られにくいのは身内だという現実。ユズシカさんは現在も渦中にいるのです。
初めて芽生えた「女性らしくふるまいたい」気持ち
二十代、大阪で医療従事者となったユズシカさん。親族とのあいだにしこりを残しつつ、男性として淡々と病院の仕事をする日々を送っていました。そんな彼女(当時は彼)に心境の変化が表れたのが34歳。福井県への転院が契機でした。
「出会い系アプリでバイセクシャルの既婚男性と知り合ったんです。彼は『男はこうあるべき』『女はこうするべき』と接してこない、自由な考えの持ち主。知的でした。尊敬できたんです。次第にほんのりと恋愛感情が芽を吹き、『かわいいと思われたい』と考えるようになってきました。『この人の前で女性らしくふるまったら、彼はどう言うんだろう』と、興味が湧いてきたんです」
「女性らしくふるまいたい」。ユズシカさんの人生で初めて萌えたった感情。それは内在していた女性の部分が男性へ恋することで活性化したから、なのでしょうか。
「断じて、それはない。その人に『かわいい』と言われる自分を想像したら笑えてきただけ。女に見える自分が滑稽でおもしろい。あくまで非日常を楽しむ感覚でした。女装も、知らない土地だから思いきった行動がとれたのでしょう。それに実際、かわいくなんてならないですよ。不思議なもので化粧をしても、女には見えない。なにかが違うんですね」
恋心をいだいたバイセクシャルの男性に笑ってもらおうと始めた女装やメイク。「女性になりたかったわけでない」。ユズシカさんはそう言います。しかしながら、女性への性転換を考える発端になったのは事実なようです。
「その人とはもう縁が切れ、現在どこで何をしているのかも知らない。彼への想いから性転換を考えたわけではないです。女性になりたくなった理由は……う~ん、違う自分に興味を持ったから。違う自分への興味が抑えられなくなった、というところでしょうか」
「女性に戻ったわけではない」の真意
ユズシカさんはその後、39歳で男性器を切除。以降、役所や関係各所へ出向き、およそ3年かけて性別変更の手続きをとり、再び女性になりました。
しかし、「女性に戻った」と言われると「釈然としない気持ちになる」のだそう。
「女性に戻ったんじゃない。振り返れば、私は長い時間をかけて『中性の自分』を求めていたのだと思うんです。現在も無理にフェミニンなファッションは着ない。髪はショートカットのまま。勤務する病院でも、わざわざ女性になりましたなんて言ってないです。性別は、どちらともとれる。そしてそれが、今の自分にはとても自然なんです」
戸籍上は女性でも、精神的には「中性」として穏やかな状態で日々を過ごせているというユズシカさん。「往復性転換」をした人生に、後悔はないのでしょうか。
「とにかく、お金がかかる人生でしたね。けれども、その瞬間その瞬間を必死で生き、自分で決断してきました。後悔はありません。ただ、中学・高校の制服が『女子だからスカート』ではなく、ズボンを選べていたならば、退学はしなかったかもしれない。そして、ちゃんと卒業して、別の人生があったのかも。それは、ちょっと思う日がありますね」
女と男。およそ50年にわたり、性別のあいだで揺れ動き続けたユズシカさんの人生。その50年の間に日本では「男なら」「女なら」といった性別への先入観や偏見、差別を覆すためのさまざまな取り組みが行われてきました。
しかし、学校の制服をはじめ慣習は強固に根付き、変革できぬ様式もまだまだたくさん残っているのが現実。「中性」という境地に生きやすさを感じたユズシカさん。そこに学びがあると感じた取材でした。