MAG2 NEWS MENU

「ゲゲゲの鬼太郎」から「手のひらを太陽に」「いい湯だな」「チョコレートは明治」まで。没後30年を迎えた作曲家・いずみたく作品で振り返る、日本のスタンダード・ソングたち

あなたは「いずみたく」という作曲家の名前を知っているだろうか? 昭和生まれの人々にはお馴染みかもしれないが、たとえその名を知らない若い世代でも、彼の作品は誰でも一度は耳にしたことがあるはずだ。

「見上げてごらん夜の星を」「手のひらを太陽に」「いい湯だな」「ゲゲゲの鬼太郎」「ふれあい」「徹子の部屋のテーマ」「CM ハトヤの唄」「恋の季節」「夜明けのスキャット」「CM 明治チョコレート・テーマ」「太陽がくれた季節」etc…作曲家・いずみたくが遺した今も歌い継がれる名曲は枚挙に暇がない。

分かりやすく耳に残るメロディーという特徴はもちろん、時代を超えた「新しさ」と昔から伝わる民謡のような「懐かしさ」という、一見矛盾しているように思える魅力を内包した彼の作品群は、昭和から平成そして令和となった今でも決して「古くならない」のだから不思議だ。いずみの作曲作品は生涯1万曲を超えると言われている。

そんな昭和を代表するメロディー・メイカーのひとり、いずみたくが亡くなってから、5月11日の本日ちょうど30年目を迎えるが、彼の遺した名曲たちは、なぜ今なお日本のスタンダード・ソングとして愛され続けているのだろうか。4月には5枚組CD+DVDのボックスセット『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』(ビクターエンターテイメント)も発売され注目が集まっている「作曲家・いずみたく」。没後30年という節目の日に、いずみ作品の魅力について、関係者からの証言などをもとに駆け足で辿ってみたい。

作曲家・いずみたく、その生い立ちと音楽活動

いずみたく(本名・今泉隆雄)は、1930(昭和5)年1月20日、東京・荒川区日暮里生まれ。一家は「五軒長屋」(今で言うところの2DKの団地住まい)で母の弟妹と祖母を加えた8人暮らしだったという。そんな賑やかな自宅にはポータブル蓄音機と母が収集したレコードが豊富に揃っていたといい、この環境が後の「作曲家・いずみたく」を作り上げたと言っても過言ではない。

14歳のとき都内の旧制中学から仙台陸軍幼年学校へ転属を志願し、軍人になることを決意したいずみは、同校に合格し寮生活に。しかし軍歌のメロディが性に合わず、軍歌の練習が一番苦手だったという。しかし、クラシックレコードを聴き、作曲やピアノ練習の時間になると、周囲が驚くほどの才能を発揮したそうだ。

やがて終戦を迎え、「特攻隊員として死ぬこと」を夢見ていたいずみは、戦時中とは真逆の「戦後の平和」による虚無感が重くのしかかり、苛立つ毎日を闇市の徘徊や映画鑑賞で潰しかなかったという。しかし、復学した旧制中学で演劇部に所属したことから、芝居に興味を持ち始め、鎌倉で開校した高等教育のための私立学校「鎌倉アカデミア」の演劇科に入学。同校で同期の前田武彦(タレント・放送作家・司会者)と出会い、前田の影響でジャズに傾倒するようになったという。その後、前田と「劇団小熊座」を創設し、いずみが脚本と演出、前田が主演で全国各地を上演して回るように。

「いずみたく」の誕生

そんな日々の中で、オペレッタ(普通のせりふと歌のまじった、軽い内容のオペラ)と出会い、感動のあまり繰り返し観賞した舞台のメロディを記憶するようになり、同時にジャズの楽曲をハーモニカで練習しながら紙にピアノの鍵盤を描いてバイエルの練習も始めたという。しかし、鎌倉アカデミアが経済困難などの理由で落ち着かなくなったことを機に、中央演劇学校・舞台芸術学院へ入学。声楽や体操、ダンス、アコーディオン演奏の技術を習得した。この頃、「和泉卓」(いずみたく)という芸名を名乗りはじめたという。

同校卒業後は、演劇集団劇座を結成し、そのかたわら生活費をかせぐためにタクシー運転手、トラック運転手などの職に就いた。仕事中に音楽を聴き、休憩中にアコーディオンを練習する日々をおくりながら、独学で作曲と管弦楽法を学び、ピアノの練習や作曲などに全神経を集中させていたという。

転機は三木鶏郎。CMソングから人気作曲家へ

27歳となった1957年、朝日放送(ABC)のホームソングコンクールに応募した「ぶどう」が入賞、それを聴いた審査員のひとり三木鶏郎(作詞・作曲家、放送作家、構成作家、演出家。ラジオ・テレビの主題歌やCMソングの制作、バラエティ番組の雛形を作った人物として知られる)からの誘いで、三木が主宰の冗談工房、主に音楽工房で音楽の仕事に従事することに。同所で盟友となる作家・野坂昭如と出会い、同所を2人そろって解雇されたのちに野坂らと「国際芸術協会」なる製作会社を設立。5年間で500曲近いCMソングを世に送り出して解散した。

撮影:安念 勉

1962年には、ついに自身の会社である「有限会社いずみミュージックオフィス」(現・株式会社オールスタッフ)を設立。歌謡曲界でヒット曲を連発しながら、自作ミュージカル公演や自身のリサイタルなどで大活躍する。作曲した作品で日本レコード大賞など数々の有名賞を受賞し、1969年には自身のレコード会社「フォンテーヌ・レコードkk」を設立。1975年には念願の「いずみたくミュージックアカデミー」を設立し、2年後にはそこで育てたメンバーを中心にミュージカル集団「いずみたくフォーリーズ」を結成し、劇団運営の才覚も発揮した。

議員と作曲家という“二足のわらじ”。そして、突然の死

ミュージカル『歌麿』は1988年に全米6都市で16公演を実現。その翌89年には、友人の参院二院クラブ青島幸男が議員辞職したことにともない、参議院議員に繰り上げ当選。政治家と作曲家という「二足のわらじ」で多忙を極めたが、3年後の1992年5月11日、動脈瘤破裂のため急逝した(享年62歳)。絶筆は、ミュージカル『アンパンマンと勇気の花』の挿入歌「進め!アンパンマン号」で、鉛筆を持つ力さえなくなったいずみが、夫人にメロディを聞かせて採譜させたものだったという。今年2022年は、そんないずみが亡くなって30年という節目を迎えたが、いまなお彼の遺した多くの作品は、現代の歌い手たちによって歌い継がれている。

参考資料:『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』特製ブックレット(2022)

めいが語る、「人間・いずみたく」と「株式会社オールスタッフ再建」

多くのヒット曲などで知られる作曲家・いずみたくだが、没後30年の今その素顔をリアルタイムで知っている人は少ない。そこで、いずみの2番目の妹の娘(いずみの姪)であり、いずみの設立した「株式会社オールスタッフ(旧・有限会社いずみミュージックオフィス)」の代表取締役である土屋友紀子氏と、同社社員でいずみの楽曲アーカイヴやリスト化などを担当している中島康江氏のお二人に、いずみにまつわるお話をいろいろとお伺いした。


──本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございます。今年の5月11日で没後30年を迎える作曲家・いずみたく氏につきまして、生前のご様子や、残された1万曲を超えると言われる膨大な作品などの全貌は今まで一望できる機会がなく、関係者の方に直接お話を伺いたいと思いまして、いずみ氏の設立されました株式会社オールスタッフの皆様にお集まりいただきました。まずは、貴社につきましてご紹介をいただけますでしょうか。

土屋友紀子(以下、土屋):オールスタッフの元になった会社が設立されたのは1962年なんですが、当初は有限会社いずみミュージックオフィスという名前で、いずみが作曲活動をするための音楽事務所だったんです。しかし、彼は音楽以外にもいろいろやりたいことがある人だったので、どんなことでも根を詰めてやるタイプということもあり、一緒に活動していたスタッフの方々とともに、少しづつ会社を大きくしていったという経緯があります。なので、音楽制作会社でもあり、自身の楽曲を管理する音楽出版社でもあり、劇団を運営する会社でもあり、タレントを抱えた芸能プロダクションでもあり、CMソングを作っている制作会社でもあり、さらにムービーも作っていたので、会社が5分割になるくらい活動の幅を広げていました。それが設立から1985年くらいまでの話です。

株式会社オールスタッフ代表取締役の土屋友紀子氏

──かなり手広く様々なジャンルの活動をなさっていたんですね。作曲家としてお名前を目にする機会はあったのですが、劇団から芸能プロダクションの運営もなさっていたとは知りませんでした。

土屋:そうなんです。でも1980年代半ばくらいから、いずみの体調不良がきっかけで、会社も経済的な部分で苦しくなってきていましたので、徐々に活動の規模を縮小して整理をしはじめました。億単位の借金もあり、当時いずみが持っていたいくつかのマンションも原価を切っていて、とにかくこの会社の立て直しをどうするのかという問題に直面していたんです。そんな大変な時期に、私はオールスタッフに入社しました。

──かなり大変な時期に、いずみたくさんの2番目の妹さんであるお母様が経営されていたオールスタッフに入社したわけですね。

土屋:入社当時、母はまだ社長ではなく、最初は経理として30年くらい勤めていたんです。その後、いずみが亡くなったあとに伯父(いずみの1番目の妹の夫)が社長を数年つとめて、しばらくして母が社長を継ぎました。私はいずみが亡くなった1992年に大学生で就職活動をしていたんですが、母のいた伯父(いずみ)の会社が大変だということで、そのままオールスタッフに入社しました。私は、物心ついたときから伯父が作曲家だということは分かっていましたし、子どもの頃からファミリーみんなで集まる機会が多かったので、伯父の作った歌を本人の前で歌ったり(笑)、かなり可愛がってもらった思い出がありますね。ですから、伯父は割と身近な存在ではありました。入社を決めた1992年当時は、かつて全米公演もおこなった劇団を運営していて、以前は劇団員も5、60人いたんですが、解散こそしていないものの、事実上は解散に近い状態で、メンバーも一部の若者しか残っていませんでした。そんな状態で会社を再スタートさせようと動いたのが1993年です。

──仲の良いご家族だったんですね。伯父であるいずみさんが亡くなった翌年に、土屋さんのお母様らとともに会社の再建に向けて動き始めたわけですね。過去の音源の整理や多額の借金など、いろいろと大変だったのではないでしょうか。

土屋:もう最初の10年間は何もかもが新鮮で夢中に仕事しておりました(笑)。とにかく、地道に目の前のことをこなすことに必死でした。どうしたら会社をうまく軌道にのせられるか、ずっと考えていたんですが、そこで助けられたのが、いずみの遺した数多くの楽曲です。彼が亡くなったあとも曲の出版権は稼働し続けていました。当時は、紙に手書きした台帳と譜面をファイルに綴じたものを「あいうえお順」に揃えるという管理の仕方をしていました。事務所の戸棚に遺された譜面を引き出しから探し出してきて、手作業でファリングするということを90年代の前半はずっとやり続けていましたね。

──時代とはいえ、かなりアナログな楽曲管理だったんですね。

土屋:今のビルに引っ越してきたのが2012年で、その前のフォンテーヌビルというところにあった時までは、ほぼほぼ紙だけのアナログな管理で、音源のアーカイヴもできていませんでした。レコード盤は残されていたんですが、そこから音源をアーカイヴするなんてことは何もやっていなかったんですね。

──その音源は、中島康江さんが入社されてからアーカイヴされるようになったんですね。

土屋:はい、中島が入社してからは「同じものは一つ残して捨てましょう」とか「これは要らないから処分しましょう」という整理を始めたんです。でも、そこから新たな未発表音源を発掘するとか、そういったことはまだ何も手を付けていませんでした。結局、2012年の会社の引っ越しがきっかけで、その後に音源アーカイヴを始めるようになった感じですね。その引っ越しの原因が、当時の自社ビルの地下にあった「アトリエフォンテーヌ」という劇場です。前年に東日本大震災があったことで、劇場の耐震問題に直面しました。ビルを維持するためには、耐震工事をする必要があり、その金額が莫大だったことと、膨れ上がった借金が未だに返せていないということもあって、自社ビルを売却することになったんです。事務所を引っ越すにあたって、膨大な量の音源などを整理する必要に迫られました。会社が今の場所に引っ越してから、中島が少しずつデータ化、アーカイヴ化を続けている、というのが現在ですね。

──それでは、中島さんがオールスタッフに入社することになった経緯を教えていただけますでしょうか。

中島:私がオールスタッフに入社したのが1998年の12月なんですが、それまで、いずみたくさんについてはほとんど知らなかったんですね。私、小学生のときから大瀧詠一が好きで、大瀧さんの音楽に関する収集をずっとしていて、そこから三木鶏郎さんに派生して、鶏郎さんのCDは持っていたんですが、それだけでした(笑)。入社したきっかけは、前に勤めていた劇場の明治座を辞めるとき、挨拶のメールを関係者へお送りしたら、新聞社の方が転職先としてオールスタッフを紹介してくださったんです。面接に行った日に採用となりました(笑)。

株式会社オールスタッフ社員で音源アーカイヴなどを行なっている中島康江氏

──物凄く早い採用面接ですね(笑)。では、いずみ作品の音源アーカイヴをすることになったきっかけは、何だったのでしょうか。

中島:膨大にある音源のアーカイヴ作業は、まだまだ全然終わっていないんですよ。この作業を始めるきっかけになったのが、私の入社から2年後に入ってきた廣瀬稔さんという人なんです。彼は「いずみたくジュニアーズ」という子役の学校にいた一人で、その廣瀬さんが劇団員になって、劇団員を辞めてから社員として入社してきました。彼が私に「(いずみたく作品に)こんな面白い曲があるよ」って、特番アニメ『孫悟空シルクロードをとぶ!!』(1982)の主題歌で「旅は心を洗う風」(歌・榊原郁恵など)という曲をはじめ次々と教えてくれたんです。それを聴いていたら「なんでこんなに面白い曲があるのに、いま誰も歌っていないんだろう?」と疑問に思ったことがきっかけですね。

このとき、これらの曲が歌える場をもっと作ったらいいんじゃないかと思ったんです。その後、廣瀬さんが教えてくれたような、知られざるいずみ作品を歌うコンサートやライブを企画するようになったのが2000年くらいですね。そして、2012年の会社引っ越しのとき、作業が半年くらいかかったんですが、膨大な資料や音源をもっと系統立てて整理したらいいんじゃないかと思ったんです。

──なるほど、その廣瀬さんが面白いいずみ作品を教えてくれたことで、過去の貴重な音源をアーカイヴされ始めたんですね。ほとんど発掘作業に近かったのではないでしょうか。

中島:もう、お祖母ちゃんの蔵みたいな状態で仕舞われていたんですよ(笑)。先代の社長が「引き出しの何番目に何々という曲の書類が入ってる」と言われると、その引き出しを開けて取り出すみたいな。レコードも今の10倍くらい保存されていて、適当に仕舞われていました。それを図書館みたいに分かるような形で整理するということを始めたんです。2016年に没後25年を迎えたとき、そうした知られざる楽曲を多くの人に広めたいという思いから、「いずみたくナイト」というライブを計6回やったときに50曲ほどをバンド演奏してもらって、うちの劇団員に歌ってもらいました。いずみたく作品を日本のスタンダード・ナンバーにしよう、ということで。

土屋:いま1万曲以上あるいずみ作品のうち、1000曲分の譜面と音源を、うちの吉田さとるがデジタルデータにする作業をしているんです。紙でしか残っていなかったものをいかに無くならないようにしていくか、ということに力を入れています。それでも、全体の10分の1以下なんですが(笑)。

──では、最後に今後の目標や計画などありましたら、お教えいただけますでしょうか。

土屋:とにかく膨大な量の未発表曲が残っているので、引き続きアーカイヴ作業を続けていくことですね。あとは、いずみが遺した124本ものミュージカル作品があるので、この作品を再演していくのはどうだろうかと考えています。これは、いずみたく作品を残す会社として、ライフワーク的に続けて行きたいと思っています。

中島:今年の12月に、ミュージカル『洪水の前』(初演1980年)を再演します。4月に発売された『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』にも収録されていますが、このミュージカルのために書かれた「山は高く谷は深い」「わが青春の茉莉」という曲がとても良い曲なので、ぜひ多くの方にお聴きいただきたいと思います。

──今まで「いずみたく」という名前を意識せずに聴いてきた曲でも、実はいずみ作品だったということが、今回発売されたCDボックス『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』の作品群を聴いて初めて分かりました。それだけ、すでにスタンダードになっている曲が多いということだと思います。そして、まだまだ世の中に知られていない曲がたくさんあるということで、今後の音源アーカイヴ、発掘作業にも期待しております。本日は、お忙しいところありがとうございました。


三木鶏郎・いずみ師弟コンビ「共作」の大発見

今回、いずみたく没後30年の記事を公開するにあたって、ひとつのスクープがある。それは、かつての師弟であり、共に多くのCMソングを世に送り出した三木鶏郎といずみによる唯一の共作とみられる曲「ゴルフマンボ」の譜面が発見されたことだ。

この「ゴルフマンボ」とは、4月に発売された5枚組CD+DVDボックス『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』にもボーナストラック扱いで収録された一曲で、三木鶏郎が「冗談工房」に続いて1957年に設立した「音楽工房」在籍時のいずみが、1958年にニッポン放送『トリローサンドイッチ』の挿入歌として書いたものだ。これまで作詞・作曲クレジットは「音楽工房」とされていたが、この度、作詞・三木鶏郎、作曲・いずみたくだったことが判明。つまり師弟コンビによる共作だったのである。

先頃発見された「ゴルフマンボ」のいずみたく直筆の原譜と三木鶏郎直筆の歌詞原稿(写真提供:三木鶏郎企画研究所)

三木鶏郎企画研究所のスタッフ竹松伸子さんによれば、

今回の資料発見によって、作詞を三木鶏郎が、作曲をいずみたくさんが手がけていたことがわかりました。また、普段、自身で作詞・作曲した三木鶏郎がここで作詞していることから、これらは、彼がいずみさんの才能を高く評価していたことを裏付ける貴重な資料と言えます」

とのこと。

今回の発見は、1万曲を超えるいずみ作品の中で、鶏郎・いずみの師弟二人が実際に共作していたことを示す、戦後日本音楽史の一級資料といえるだろう。いずみが遺した膨大な量の譜面や楽曲のアーカイヴ作業が、今後もオールスタッフの方々によって進められ、さらなる大発見がなされることを期待したい。

スタンダード・ソングメイカー、いずみたく

昭和の時代に活躍した作曲家は数多い。

しかし、いずみたくほど、童謡から歌謡曲、主題歌そしてCMなど各ジャンルで大ヒットし今も聴かれ続けているスタンダード・ナンバーを遺した作曲家も珍しい。

流行り廃りがめまぐるしいスピードで入れ変わる音楽業界にあって、「時の試練」に耐えた名曲を多く遺した作曲家、いずみたく。

きっと私たち日本人は、これからも彼の曲を愛し続けることだろう。気がつけば散歩の合間に鼻歌で歌いながら……。(MAG2 NEWS編集部)

【関連商品情報】

いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-

2022年は、その急逝から実に30年を迎える記念年。周年を迎えるにあたり、ご遺族と株式会社オールスタッフ全面協力のもと、初の本格的な作品集を目指し、その膨大な作品をカテゴリごとに系統立てて選曲・構成、そのキャリアを俯瞰する決定版。収録した全131曲中、50曲が初CD・初音盤化。

いずみたくが残した膨大な楽曲を、カテゴリごとに編んだ本作は、代表曲を集めた「ヒット・ソングス」(Disc1)、生前のいずみ自薦の楽曲を中心とした「レアリティ・ソングス」(Disc2)、テレビ・映画・ラジオ主題歌を集めた「テーマ・ソングス」(Disc3)、「CMソングス」(Disc4)、「舞台・ミュージカル・ソングス」(Disc5)の5枚のCDで構成、そのキャリアを辿る資料を満載したブックレットを同梱します。なお、収録曲には、CMソングを改めてビクター・オーケストラ等にて再録した「いずみたくCM Song集」、野坂昭如が構成を担当した「組曲 都会」を初CD化、また、今回の復刻作業の中から発掘された三木鶏郎といずみたくの共作音源「ゴルフマンボ」も初音盤化。さらに、付属のDVDには、いずみが生涯をかけて制作したミュージカルを今もなお受け継いでいる イッツフォーリーズの「いずみたく あいうえおメドレー」も収録。

ブックレットには、生前ゆかりのあったアーティストからの寄稿をはじめ、収録曲解説、15,000曲以上あるという楽曲のなかから主要曲をまとめた作品リストやミュージカルや映画の主要作品リストも掲載。監修・選曲は、オールスタッフとの仕事に実績があるアンソロジストの濱田髙志が担当。

●2022年4月20日発売、株式会社JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント
●品番:VIZL-2058 5CD+1DVD 計6枚組 
●三方背化粧箱仕様
●特製ブックレット(176P)
●価格:15,400円(税込)[14,000円(税抜)]
●2022年最新リマスタリング

特製ブックレット内容
■特別寄稿:安倍 寧、黒柳徹子、草野浩二、今 陽子、佐良直美、由紀さおり、渋谷毅、尾藤イサオ、山上路夫、山田洋次
■バイオグラフィー
■収録曲解説
■資料(作曲、ミュージカル、映画など主要作品リスト)

※Amazon購入ページはコチラ

image by: 安念 勉(『いずみたく ソングブック -見上げてごらん夜の星を-』より)

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け