新海誠氏が監督・脚本を務めた前作『君の名は。』の大ヒットから3年後に公開された『天気の子』。ドイツのNetflixでは同作が視聴可能になったといいます。そこで今回は、メルマガ『Taku Yamaneのイェーデン・ターク』の著者で長くドイツに暮らすTaku Yamaneさんが同作について考察。賛否両論分かれる理由を分析しています。
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賛否両論の真実――『天気の子』考察
いつもご愛読ありがとうございます。さて、今回はついにドイツのNetflixで視聴可能となった、映画『天気の子』について考察したいと思います。
自分は3年前に飛行機内で見て「おもんな」と思った人間なんですが、その後も作品自体は気になっていて、いろんな所で話の話題にしていたんですよね。
で、今回2回目を視聴して「結構面白いじゃん」と思ったと共に、賛否別れた理由も分かった気がします。で、解説をしていきましょう。(ネタバレ注意)
■以下あらすじ
舞台は雨の降り止まない異常気象に見舞われる現代東京。16歳の離島育ちのホダカは家出をして東京に出てきます。そこで自在に晴れ間を作れる“晴れ女”ことヒナと出会います。同年代のヒナと晴れ間を作るバイトをする内に、ホダカはヒナに恋心を抱くように。しかし、ヒナは異常気象を収める人柱となる運命にあり、ついにホダカの前から消えてしまいます。世界の天気を優先するか、ヒナへの恋心を取るか悩んだホダカは最終的にヒナを選び、それ以降3年間東京は雨の止まない都市となります。
■賛否両論の理由
まず、完全なハッピーエンドとならない所でしょう。子供向けアニメであるにも関わらず、結局主人公が独善的な幸せを取ったことに対して賛否両論が出るのは当然でしょう。とはいえ、僕はこのエンディング自体は嫌いではありません。むしろ子供騙しにならなくて良いと思っています。
しかし、自分の幸せと他者の幸せが二律背反の構図になるという流れは良かったと思う一方、この他者に“世界”をもってきてしまったのが、アンバランスさを招いたような気がしてなりません。
ホダカの真っすぐというか、出会って間もない少女に恋をして、周りが全く見えずに突き進んでしまう姿というのは納得がいきます。
自分も若い頃を思い出してグッと来るものがありました。
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しかし、ホダカの“世界の天気”とか“世界の幸せ”を考える利他的な部分の成長は、最初からあまり描かれていません。利他的に他者の幸せを願う存在はむしろヒナが担っていて、この二人のカップルでおよそ一人の人格のような感じがします。
よくよく注目すると、ホダカは最初から最後までずっと利己的で、ヒナはずっと利他的です。二人で晴れ女のバイトをして社会貢献するシーンはありますが、どちらかといえばこれは二人の絆を深めたり、自己実現をしていく役割を果たしており、利他性が育つシーンとしては弱いです。
そんな中で最終的にホダカがヒナを選んだとしても、そこまでに二択で悩んだ経緯が一切ないため、選択に重みがありません。
彼の成長の結果、利己性を選んだという理由付けが薄いため、観客によっては「ただ子供のわがままを押し通しただけ」という印象になってしまうでしょう。
自分なら、ホダカの利他性が育つシーンとヒナの利己性が育つシーンを分かり易く追加します。
そもそもヒナが人柱になると知るのは、既に晴れ女を辞めてからですが、この認知をもっと前の段階にします。人柱になるかもしれないというのを知って尚、晴れ女を続けるか否か(伝説を楽観的に捉えるかどうか)という葛藤を描けば、例えばホダカとヒナが口論するシーンも描けますし、お互いの利己性と利他性を成長させられます。
そして何よりラストのシーンで決断がホダカにのみ偏ってしまっているのを、二人の決断とすることができ、より大団円間が増します。
個人的にヒナの意志が最初から最後まであまり見えないのが残念なんですよね。
あと、基本的に説明的なカットが長いと感じます。ホダカの独白調の語りがストーリーの締めを担うのですが、正直必要とは感じません。十分カットで分かるし、そこが『君の名は』と比べて冗長さを生んでいる要因だと思います。
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また、細かいことを言えば、ホダカもとい監督の誇大妄想感が気になります。
例えば、物語のラストでホダカが自分の決断を自分で納得させる場面ですが、「元々世界は狂っている」という表現があります。これぶっちゃけ必要ありません。
せっかく利己性と利他性の選択の話をしてきて、そのどちらに正しさがある訳でもないのに、だからこそホダカは自分のせいで「天気が狂った」と気にするのに、最初から世界が狂っていると言ってしまったら、ホダカが絶対正義になってしまいます。
物語の重みが一気になくなりますし、このインパクトのある言葉が観客に無駄に刺さってしまうため、このような賛否を生んだと思います。
ここは識者によれば、新海監督の個人的な信条を代弁した部分なのだそうですが、そんな監督の思いなんてこっちは知ったこっちゃありません。
また、舞台はほぼ東京のみが描かれるますが、主人公はしきりに世界世界と口にします。これは主人公の周りの見えない性格を表しているのか、それとも脚本の中で練られていないのか、正直気になりました。
そもそも今時離島から東京に出るみたいな話って、演歌じゃあるまいしあまり共感を呼ばないような気がするんですよね。
世界という言葉をセリフにする以上、場面としては世界の天気の状況を入れないといけません。なのにほぼ関東地方だけというのはどうも監督の世界観の狭さを感じてしまいますね。
前作『君の名は』もそうでしたが、「田舎から出る」というテーマを果たして現代で描く意味があるのか、ちょっと疑問ですね。正直あまり効果がない気がします。
という訳で『天気の子』解説を終わります。
なんにせよ、2回人に見させる作品なんてそうありません。良作と言って良いでしょう。
今回もご購読ありがとうございました。
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