今年のNHK大河ドラマの主人公、徳川家康。江戸幕府を開いた彼の功績はあまりにも有名ですよね。今回のメルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』では、歴史に詳しい、元NHKアナウンサーの松平定知氏と歴史作家・童門冬二氏のお二人が「いま、徳川家康に何を学ぶか」をテーマにした対談の様子を紹介しています。
信長、秀吉にはない家康の魅力とは
徳川家康をテーマにしたNHK大河ドラマがスタートしました。
歴史作家・童門冬二氏はご自身のライフワークとして『致知』にて「小説・徳川家康」を連載中です。御年95になられる童門氏が、現代に通じる生きた人間学を盛り込みながら健筆を揮われる家康は深さと軽妙さがあり、読者から好評を得ています。
本日は「いま、徳川家康に何を学ぶか」をテーマに、歴史に造詣が深い元NHKアナウンサーの松平定知氏と童門氏にご対談いただいた『致知』2016年9月号の記事の一部を紹介します。
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松平 「信長と秀吉と家康を比べてみると、信長は実行力、決断力、直感力に優れた人、秀吉は人の話を聞く力を持っている人とよく言われます。
その並びで、じゃあ家康は?となると、彼は『待つ力』があった人じゃないかと思うんです。とにかく待つんですよ、あの人は」
童門 「なるほど、待つ力ね」
松平 「関ヶ原の合戦に勝ってもなお、江戸幕府をつくるまで2年半待ち、幕府をつくってからも豊臣秀頼を倒すまで12年を費やしています。
あれだけ待ったから、徳川は300年続いたんです。秀頼を自害に追い込んだその翌年に家康は死にますが、長期政権の基礎をきっちりつくって死んでいった。彼にとっては『あっぱれ』の、『待ち切った人生だった』と思います」
童門 「確かに、あれは異常な根気強さですよね」
松平 「そんな彼の人生をざっくり振り返りますと、まず、幼少期。家康は、2歳で母親の於大の方が父親の松平広忠と離縁したために生き別れになりましたし、6歳からは人質になりました。アゲインストの風の中の幼少期でしたね。
その後も三方ヶ原の戦いでは負け、本能寺の変で命からがら逃げ帰り、彼は徳川300年の長期政権を打ち立てた大成功者といいますが、その半生はほとんど負けと失敗の歴史です。その逆境が将来ステップアップする一つの要因になるんですけれども」
童門 「家康という人物についてまず理解しなければならないのは、そういう過酷な人生を歩みながらも、彼が決して無学な人ではなかったということです。
今川家の人質になった時、今川家のブレーンであった太原雪斎という住職がいました。彼が少年時代の家康に『論語』『孟子』といった思想書から、『孫子』『六韜』『三略』のような兵法書まで叩き込むわけです。これが家康の人格の土台になったことは間違いありませんね。
雪斎にどういう意図があったのかは分かりませんけど、場合によっては、この子のほうが義元より天下のためになるかもしれないと思っていたんじゃないかな」
松平 「あぁ、見込みがあると」
童門 「義元はちょっとぐうたらなところがあるし、名門で生活がお公家様みたいになっていて、雪斎としてはちょっと歯ぎしりするような思いがあったんじゃないかと」
松平 「家康の人質時代は今川義元が桶狭間の戦いで倒される1560年まで続きましたね」
童門 「あの時は完全に今川家の一武将でした。それで、義元の息子の氏真に、敵を討ちましょうと言うんですが、氏真が乗らない。優柔不断な、不肖の二代目でね」
松平 「家康はやむなく、義元に殉じて大樹寺というお寺で切腹しようとするけれども、住職の登誉上人が思いとどまらせるんですね。『あなたはこの戦乱の世を終わらせるために生まれてきたんだから、ここで死んではいけない』と」
童門 「そうそう、もっと大きな志を持ちなさいとね」
松平 「その時から家康はあの『厭離穢土 欣求浄土』という旗印を、戦の時に必ず携行するようになったわけです。
★ 童門冬二氏の「小説・徳川家康」は『致知』で好評連載中です。
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