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歴史好きなら絶対知ってる戦国武将「斎藤義龍」は存在しなかった?

父である斎藤道三を打ち取って美濃の国主になった武将「斎藤義龍」。戦国ファンなら必ず聞いたことのある名前ではないでしょうか。しかし、メルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』著者の早見俊さんは、実を言うと「斎藤義龍」という武将は存在しなかったと語ります。いったいどういうことなのでしょう?

実は「斎藤義龍」なる戦国武将は存在していなかった

斎藤義龍といえば戦国ファンにはお馴染み、父道三を討ち取って美濃の国主になった武将です。血で血を洗う戦国の世、親子、兄弟、親族が争うのは珍しくなかったとはいえ、実父殺しは異常でした。
義龍自身もそのことは自覚しており、范可と名乗ります。范可は中国、唐の時代、父親殺しで有名でした。

そんな義龍ですが、道三を討ってから五年後、数え三十五で急死します。義龍の跡を継いだ龍興は織田信長に攻め滅ぼされ、美濃は信長の手に落ちました。

ところで、我々は違和感なく斎藤義龍と呼んでいますが、実は、「斎藤義龍」なる戦国武将は存在しませんでした。架空の人物というわけではなく、義龍は、「斎藤義龍」を名乗ったことがなかったのです。

幼名は豊田丸、元服して利尚、道三に叛旗を翻す決意を示して范可と名乗り、道三を討ち取った後は高政と称しました。室町幕府から美濃守護職に任じられ、更には、「一色」姓を称するのを認められます。

一色氏は幕府の侍所の所司を務める名家でした。室町幕府最高職の管領は三管領といって、細川、斯波、畠山が担いました。侍所所司は四職といって山名、京極、一色、赤松の四氏が就任しました。道三が追い出した美濃守護職、土岐氏は四職に次ぐ家柄でしたので、義龍は土岐氏を凌いだのです。

更に義龍は十三代将軍足利義輝から、「義」の字を与えられました。この時に名前を、「高政」から、「義龍」に変えたのです。将軍の名の一字を与えられるのは名誉でした。特に上の方、つまり、「義輝」なら、「義」を与えられるのは大いなる名誉でした。ちなみに、上杉謙信は、「輝」を与えられ、「輝虎」と名乗ったことがあります。 武田信玄は、十二代将軍義晴の、「晴」を与えられ、「晴信」と名乗り、今川義元は、「義」を与えられたので、「義元」だったのです。

義龍は一色義龍となり、官職も左京大夫に就きます。土岐氏、父道三を凌いだ義龍でしたが、永禄四年(1561)五月に急死しました。桶狭間の戦いの翌年です。尾張を統一し、東の脅威であった今川の勢力を撃退した信長は満を持して美濃攻めを本格化させます。

名乗ったことがなかった、「斎藤義龍」が後世に伝わり、通り名になったのは、「信長公記」の影響と思われます。著者太田牛一は信長の家臣でしたので、敵対した義龍を家格的に織田家の上位として書き記すことはせず、あくまで美濃守護代家の斎藤氏を継ぐ者と位置付けたと解釈されます。

ちなみに義龍の子で信長に追放された龍興は美濃国主の頃、一色義棟と名乗っていました。

タイムトラベルで桶狭間の戦いの頃の尾張や美濃を旅したとしたら、斎藤義龍について訊いても知る者はいないでしょう。斎藤義龍という名は歴史の綾と言えるかもしれません。

image by: Shutterstock.com

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歴史、ミステリー四方山話、思いつくまま日本史、世界史、国内、海外のミステリーを語ります。また、自作の裏話なども披露致します。

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【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

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