MAG2 NEWS MENU

皇族でただ一人「朝敵」の汚名を着せられた、輪王寺宮能久法親王の強い“思い”

江戸城無血開城と聞くと、みなさんは誰を思い浮かべるでしょうか。今回のメルマガ『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ」』では時代小説の名手として知られる作家の早見俊さんが、西郷隆盛、勝海舟、篤姫以外のとある人物のエピソードを紹介しています。

朝敵となった親王

江戸城無血開城と聞くと多くの人は西郷隆盛と勝海舟を思い浮かべるでしょう。官軍と賊軍とされた幕府を代表した西郷と勝によって江戸を戦火から救った偉業とイメージされています。幕末に興味のある方なら、西郷と勝の会談の前に山岡鉄舟が西郷を訪ねて談判していたとか、天璋院篤姫も西郷に使者を送ったというエピソードを思われるかもしれません。

ですが、輪王寺宮能久法親王の名を挙げる人は稀ではないでしょうか。輪王寺宮とは徳川将軍家の菩提寺東叡山寛永寺の貫主であり徳川家康を祀る日光山東照宮の山主、更には比叡山延暦寺の山主(天台座主)です。後水尾天皇の第三皇子守澄法親王が就任して以来、皇子またが貫主、山主を務め、「輪王寺宮」と尊称されてきました。

能久法親王は1847年伏見宮邦家親王の第九皇子として誕生し、翌年孝明天皇の父仁孝天皇の猶子となります。ちなみに明治天皇の叔父に当たります。1858年、数え十二歳で勅命にとり輪王寺宮の後継者に任ぜられました。次いで1864年の十二月、親王の位の第一等を授けられ、1867年五月に東叡山寛永寺に入りました。

幕末、官軍が江戸に迫る最中、東叡山寛永寺の山主となっていたのが輪王寺宮能久法親王だったのです。宮は明治になって北白川家を継ぎ北白川能久となられました。

では、宮が何故、どのように無血開城に関わったのでしょう。そして、無血開城に関わったがために皇族でただ一人の朝敵の汚名を着ることになります。

朝敵となった親王の激動の人生は最後の将軍徳川慶喜が寛永寺、大慈院で蟄居した時に始まりました。この年の正月、鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂城から脱出した慶喜は幕府艦隊の軍艦開陽丸で江戸に戻ります。薩長を主力とした討幕軍は官軍の証である錦の御旗を掲げ、慶喜を朝敵として東征軍を編成しました。

慶喜は御三家水戸徳川家出身です。水戸家は大日本史編纂を始めた光圀以来、尊皇の家風、慶喜も尊皇家でした。そのため、朝敵になったことに激しく動揺し、戦意を喪失します。強硬派の幕臣たちが声高に主張する江戸城に拠って官軍を迎え撃つなど、微塵も考えず朝廷に対し反抗の意思はないと示すために江戸城を出て寛永寺で蟄居謹慎したのです。蟄居謹慎の言葉通り、慶喜は大慈院の奥座敷で月代も剃らず正座をして過ごします。蟄居するだけでなく、朝廷に対し恭順の意思を訴えたいと輪王寺宮に嘆願しました。

慶喜は宮の他にも孝明天皇の妹で十四代将軍徳川家茂に降嫁した和宮にも頼みました。和宮は徳川家の存続の願いを文にしたためます。自分の命と引き換えにとまで書きました。和宮はこの文を慶喜が書いた嘆願書と共に側近く仕える土御門藤子に託しました。藤子は和宮の使者として東海道を進み先鋒鎮撫総督橋本実梁と面談します。橋本は和宮の母の兄の子、つまり従兄弟に当たります。橋本は伊勢の四日市に本営を置いていました。

藤子から渡された和宮の書状を読んだ橋本は感銘を受けます。徳川家存続を願う和宮の心情を橋本は汲み取り、京に上って朝廷に和宮の書状と慶喜の嘆願書を提出するよう勧めました。藤子に異存があるはずはなく、直ちに京に向かいました。藤子が提出した和宮の書状と慶喜の嘆願書を公卿たちは読み、協議しました。協議の結果を岩倉具視が藤子に伝えます。慶喜公が誠意をもって恭順謝罪をするなら徳川家の存続も不可能ではない、と岩倉は和宮様にお伝えするよう告げました。藤子は安堵して江戸に戻ります。

ところが……

慶喜追討に軟化の姿勢を見せた公卿とは違い、薩摩藩は断固慶喜を討つべしという強硬姿勢を崩しませんでした。

朝廷、官軍の考えが判明しない不安から輪王寺宮は、自らが東征総督有栖川宮熾仁親王を訪ねようと思い立ちます。有栖川宮は駿河の駿府城まで軍を進めていました。輪王寺宮は自身と慶喜の嘆願書を携え、輿に乗って寛永寺を出発します。慶応四年、二月十九日のことです。

宮が有栖川宮を訪ねるのは慶喜への同情というよりは、江戸の町と民を戦火から守りたいという切なる思いからでした。上野周辺の町人たちは宮を慕い、日ごろから魚を届けてくれ、宮も民に親しみを感じていました。江戸の町を戦火に巻き込んではならない、民の暮らしを奪ってはならない、悲壮な決意で輿に揺られ、寛永寺の執頭職にあった覚王院と僅かな供回りに守られて駿府を目指しました。

途中、雨風に祟られ、東征する官軍の兵士たちの好奇な目に晒されながら駿府城の有栖川宮と対面します。藁にもすがる思いで対面した有栖川宮の態度は冷ややかでした。有栖川宮は和宮と婚約をしていましたが、公武合体の声が高まり婚約は破棄されたという徳川家への遺恨があったのです。加えて参謀である西郷たちも慶喜許さじ、切腹をさせ江戸城は破却すべしという強硬姿勢を崩しませんでした。

以下、次号に続く。

image by: Shutterstock.com

早見俊この著者の記事一覧

歴史、ミステリー四方山話、思いつくまま日本史、世界史、国内、海外のミステリーを語ります。また、自作の裏話なども披露致します。

無料メルマガ好評配信中

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 『歴史時代作家 早見俊の無料メルマガ』 』

【著者】 早見俊 【発行周期】 週刊

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け