たけし軍団のメンバーで、お笑い芸人・ミュージシャンでもあったグレート義太夫さん(本名・鈴木正之さん)が7日、都内の自宅マンションで亡くなっていたことがわかりました。67歳でした。グレート義太夫さんは、弊社まぐまぐのメルマガプラットフォーム「まぐまぐ!」で、メールマガジン『グレート義太夫の貰えるものなら病気でも!』を毎月1日・15日に発行していました。生前最後の配信は9月1日号でした。哀悼の意を表するとともに、メルマガで発信していた記事のうち、義太夫さんから生前に転載許可をいただいていたものの未掲載のままとなっていた、ビートたけしさんの名曲「浅草キッド」誕生秘話に関する記事を初掲載し、ここで追悼させていただきます。ビートたけしさんが2019年のNHK紅白歌合戦に初出場し、特別企画で歌唱を披露した名曲「浅草キッド」。この曲はどうやって生まれたのか、その現場に立ち会った弟子のグレート義太夫さんが、自身のメルマガの中で初めてその秘話を明かしていました。(MAG2 NEWS編集部・田端)
※本記事は、まぐまぐ!のメールマガジン『グレート義太夫の貰えるものなら病気でも!』2020.2.1特別号から一部を抜粋したものです。
特別編。浅草キッド誕生秘話
すいません、本当だったら前号に書かなきゃいけなかったのですが、うっかりしておりました。で、なぜ「浅草キッド」なのか?なんですが、まぁ、紅白で歌ってくれたというのもあるのですが、なんと「週刊ポスト」の「21世紀毒談」に、「浅草キッド誕生エピソード」を書いてくれたんです。友達から知らせが来て、直ぐ本屋に走りました。
「ポストありますか?」
「ポスト?駅前にあるわよ!」
「あの、『週刊ポスト』です…」
「あらヤダ(笑)」
本屋のおばちゃんと、そんなご機嫌なやり取りをしながら、何とか手に入れました。家に帰って恐る恐るパージを開き、書いてある事を確認しました。わずか数行ではありますが、間違いなく「浅草キッド」が生まれた瞬間、殿の目の前にいた事を、殿が書いてくれました。もう小躍り状態です(笑)。
だもんで、ボクも「誕生した瞬間」の事を、思い出しながらちょいと書いてみようと思います。ですので「特別号」という事で(笑)。
いきなりの通告。
確か「オレたちひょうきん族」の収録の合間、スタジオから楽屋に帰る廊下だったと記憶している。急に殿が振り向いて…、
「オイ、今度の映画よ、お前ボーヤで付いてこい」(編集部註:映画『夜叉』(1985、降旗康男監督)のこと)
当時、殿のボーヤは「ラッシャー板前」さんがやっていた。僕に声がかかるって事は、ラッシャーさん、軍団の仕事でもあるのかな?と、それくらいに思っていたら、そうではなかった。
「向こうで時間があるからよ、曲作ろうと思ってるんだ」
あ、成る程、それでボクなんですね。思いっきりの納得でした(笑)。
初健さん。
福井県美浜町にあるホテル「H」に到着した時、すでに夕飯は終わりかけていた。この時面白かったのは、車から降りて殿を先導する助監督さんが、殿の事を「ビートさん」と呼んでた事(笑)。「北野さん」じゃなくて「ビートさん」なんだ(笑)。だから、食堂に入った時も、
「ビートさん入られました!」(大拍手)
真ん中にメインの役者さんのテーブルがあった。高倉健さん、田中裕子さん、田中邦衛さん、いしだあゆみさん、小林稔侍さん…。で、付き人やマネージャーは、別にテーブルがあるんだけど、
「いいよ、ここで食べなさいよ」
健さんがそう言ってくれて、何とメインのテーブルに混ざって、殿の横で夕飯を食べる事となった。これは後で聞いた事なんだけど、健さんは、初めて一緒に仕事をする人の事を調べるらしい。だから、それまでやってきた殿のビデオとかも見ていて、いきなり、
「義太夫さんですよね? 田んぼジャンプ見ましたよ(笑)」
と声をかけられたもんだから、ビックリして茶碗と箸持ったまま立ち上がってしまい、健さんに大笑いされた。
映画『夜叉』については、また改めて。
ついに来た。
ロケが始まって、夜になってもなかなかお呼びがかからなかった。
と言うのも、食事が終わった後、健さんの部屋に呼ばれたり、取材が入っていたりで、殿が忙しかったって言うのもあった。
そして3日目だったかな、ロケが終わり、お風呂から上がった殿が、
「今晩よ、飯が終わったらオイらの部屋に来てくれ」
いよいよきた。夕飯が終わって部屋に帰り、ギター、ノート、五線紙…。殿の部屋に持って行く物を出して、テーブルに並べていた。
「無い…」
この日のために友達から借りた「テープレコーダー」が無い。入れ忘れた。
背中に冷たい物が走った。出来上がった最終形をどうやって殿に聞いてもらうんだよ!それより、どうやって覚えて帰るんだよ…!
なるべく平静を装って、殿の部屋をノックする。
「オウ、入れ」
わ、広い和室だ!さすがメインの役者さんともなると、凄いな…。そう言えば、健さんの部屋も広かったっけ…。
殿は広い和室の真ん中で座椅子に座り、テーブルの上の紙に何か書いている。
たまに「鼻歌」を交えながら。レポート用紙はもう真っ黒になりかかっている。
「ちょっと待ってろ、今纏めるから…」
そう言いながら、殿は、
「これとこれだったらよ、順番はどっちがいい?」
と聞いてくる。これが曲の「歌詞」なのかな?
「あ、それだったら逆の方が、落ち着くと思います」
そんなやり取りをして、いよいよ殿からの発表が。まずは出来上がった詞を読んでくれた。
「お前と会った仲見世の、煮込みしかないくじら屋で…、と始まるわけだよ」
「はい」
「夢を語ったチューハイの、泡に弾けた約束は…、と続くね、どうだ?」
「はい、いいっすね」
「灯りの消えた浅草の、コタツ一つのアパートで…、と、こうなるわけだ、な、いいだろう?」
「はい!」
と、こんな感じで、1行ずつ殿の確認が入った(笑)。それを聞きながら必死に清書して…、そして2番。
「同じ背広を初めて買って、同じ形の蝶タイ作り…、と、こう来るね」
「ハイ!そう来ますか!」
「同じ靴まで買う金はなく…」
「…」
あれ? 確認がこないぞ…、そう思って殿を見た。殿は、窓の外の漆黒の闇夜を見ながら、ポツリと言った。
「深見の師匠に怒られたなぁ、舞台に上がる時は、客から一番よく見える靴だけは、良い物を履けって…」
それから殿は、深見千三郎師匠との思い出、浅草での思い出を、いくつか話してくれた。それは、ボクの宝物なので、内緒(笑)。
そして全体ができあがって、
「んじゃよ、唄ってみるから、伴奏してくれ」
そうして「浅草キッド」が生まれた。ホンに自然と涙が出てきてしまうような、詞とメロだった。多少の微調整はあったけど、ほぼ殿の作ったメロである。
よく、作曲は義太夫とか言われるけど、詞も曲も作ったのは「殿」ですから。
今でも、あの瞬間あの場にいられた事は、ホンに幸せな事だと思っている。
何人もの芸人を泣かせるような「名曲」が生まれた時に、その場にいられた幸せ…。あの時ほど「ギター弾けてよかった」と思った事はなかった。
曲の構成も、この時殿と決めたと記憶している。1番・2番・間奏・Bメロ繰り返し・3番…。最終的にこれに落ち着いた。何度か殿に歌ってもらって、メロディを頭に叩き込んだ。
でも、そこからが大変だった。テープレコーダー忘れたから、コード譜はもちろんメロ譜も書けるだけ書いて、時間がある時は必死にギター繰り返して練習した。1音たりとも忘れたら大変だもの…。
デモ作り。
東京に戻って、すぐデモテープを作った。TEACの244を駆使しての宅録。
ギター2本と、ボーカル2tr。出来てすぐビクターに納品。
この時出来上がったデモを殿に聞いてもらったかどうだったかの記憶が定かではない。
「いいよ、お前作って出しとけ」
くらいの事を言われたんだと思う。しばらくして本チャンのオケが届いて、その素晴らしさに度肝を抜かれた。あのイントロもその時初めて聞いた。当時のディレクターだった小池さん(編集部註:ビクターの小池秀彦氏)に「弾いてるの誰ですか?」と聞いたら、あのイントロと曲中のギターを弾いているのは、日本アコースティック界の重鎮「吉川忠英」さんだった。そりゃ凄いハズだ。
希代の名曲。
こうして「浅草キッド」は生まれた。あの「福井の夜」の事は、一生忘れない。名曲「浅草キッドを作るお手伝いができた」それだけで、本望だ。
紅白歌合戦、見ましたか?ホンにカッコよかったですね、江戸弁で言うと「様子がいい」
スポットライトを浴びた「バックショット」
バックバンド時代、何度か見て、あまりのカッコよさに、それだけで泣きそうになった事もありました。
余談。
そう言えば、福井の夜で忘れられない思い出「朝食泥棒」の話もあるんですが、それはまた別の機会に(笑)。(まぐまぐ!メールマガジン『グレート義太夫の貰えるものなら病気でも!』2020.2.1特別号から一部抜粋)
image by: まぐまぐ!メールマガジン『グレート義太夫の貰えるものなら病気でも!』