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働いてない人は目が死んでる。寿命100歳時代を生き抜く方法とは?

2045年、平均寿命が100歳に―。メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』の著者・伊勢雅臣さんによると、世界の多くの研究者がそう予測しているのだそうです。60代で退職しても残り30年。伊勢さんは実例をあげつつ、その「長い余生」の充実した過ごし方を論じています。

2045年に平均寿命は100歳に到達しているだろう

平成26(2014)年の日本人女性の平均寿命は86.83歳3年連続世界一を達成した。男性は80.50歳4位から3位に順位を上げた。長寿国として世界に誇れる記録である。

「いくら寿命が延びても、寝たきりの状態では」と思う読者もいるだろうが、介護が不要で、日常生活に支障なく、自立して過ごせる「健康寿命」でも、女性75.56歳、男性71.11歳と、男女とも日本が世界一であることを米国の研究チームが発表している。

厚労省は平均寿命が延びている理由として、「がんや心臓病、肺炎、脳卒中などによる死亡率が改善したことが要因」と分析し、「医療技術の進歩や健康志向の高まりに伴って『今後も平均寿命は延びる余地がある』(同省担当者)」としている。

いったい、寿命がどこまで延びるのか、という疑問に、近い将来、平均寿命は100歳に到達するという予測がアメリカでなされている。「そんな、馬鹿な」と思うかもしれないが、論より証拠、日本人女性の平均寿命の伸び具合を見て貰いたい。

 ・大正14(1925)年:43.20歳

 ・昭和40(1965)年:72.92歳

 ・平成14(2014)年:86.83歳

近年、ガン研究が急速に進展し、再生医療技術の劇的な進歩で様々な臓器が再生・移植できるようになり、かつ老化そのものを遅らせる技術も生まれつつある。世界の多くの研究者が「2045年に平均寿命は100歳に到達しているだろう」と予測している。

働いてない人は目が死んでいる

平均寿命100歳の時代となると、20歳から40年働いて、60歳代で定年を迎えても、あと30年ほども時間がある。余生というには長すぎる時間をどう活用するか、考えなければならない。

世界トップの長寿国として、そのお手本を示す責務が日本にはある。幸い、我が国には長寿社会での生き方を探求している企業がある。60歳以上の高齢者の人材派遣業を行っている、その名も「高齢社」である。

同社の社長・上田研二さんは、あるスナックのママさんの「働いているかどうかは、ひと目で分かる」「働いてない人は目が死んでいる」という言葉を紹介している。

定年退職後の半年くらいは「定年万歳」と、旅行、ゴルフ、カラオケなどで楽しく過ごす人もいるが、半年もすると暇を持て余すようになり、「毎日が日曜日」の生活に飽きてくる

運動量が減ることもあって、体重が増え、体調が悪くなる。いつも家にいることで、家族からも邪魔者扱いされる。孤独を感じ、「生きがい」が欲しくなってくる。これらの不安を一気に消し去ってくれるのが働くことだと、上田さんは指摘する。

上田さんは東京ガスの孫会社で社長をしていたが、ガス機器や水回り設備の点検・修理などの技術を持った人々が定年後も働く意欲満々なので、こういう人々に活躍の場を提供しようと新たに会社を作った。東京ガスの多くの幹部も「これからの高齢化社会にも寄与することだから」と後押ししてくれた。

平成12(2000)年に60歳以上の社員30名で、高齢社をスタートさせた。さらに高齢の女性にも家事代行サービスの仕事を提供し、その後も派遣業務の幅を広げてきた。高齢の派遣者を受け入れる側も、「仕事を丁寧にきちんとやってくれる」「高齢の方でも元気に働いている姿を見ると、周りも刺激を受ける」と好評だった。

上田さんは誰かに会ったら、必ず「何かありませんかね」と高齢者の仕事の需要がないかを聞く。「こういう仕事、やらせてもらえませんか」と自分から提案する。人手を欲している職場と、仕事が欲しい高齢者がきちんと出会っていないのが現状だ、と上田さんは指摘する。高齢社はそんな現状を変えようと挑戦している。

そんな実例を紹介しよう。

まずは朝の掃除から

高田圭子さん(65歳)は、父親の介護のために、57歳で早期退職した。60歳の時に父が亡くなり、第二の人生を謳歌しようと、1年間、デッサンやアートワークショップに通った。しかし、年金だけでは生活は厳しいので、できれば好きな絵を活かして働きたいと思った。

地元のハローワークに通ったものの、60過ぎで絵を活かせるような求人は見つからなかった。そんな時に知人が高齢社を紹介してくれ、リフォームの会社で1年契約のパートして働けることになった。高齢なのに、簡単に勤め先が決まって、正直、驚いた。

その会社は若いスタッフが多く、活気があった。高田さんは何からやったらよいのか判らないので、まず自分でできることとして朝の掃除から始めた。「それをやっちゃうと、あなたがずっと掃除係になるよ」と親切心から忠告してくれる人がいた。しかし、みんなが気持ちよく仕事できるなら、それでもいいと思い、やはりずっと掃除担当になったが、後悔はなかった

それに加えて、苦情を言ってくるお客さんや、難しいお客さんの対応は自ら進んで引き受けた。若い社員がストレスを受けるより、人生経験のある自分の方が対応も容易だと考えたからだ。

さらに手書きでリフォーム後のパース(完成予定図)を描いてやると、見積もりの際に役立つと、皆が高田さんに依頼するようになった。翌年にはパソコンでパースを描ける人が転入してきたので、2年で契約終了となったが、最終日には真っ赤なバラの花束を職場のみんなからプレゼントされ、温かく見送ってくれた。充実した2年間だった。

そんな今の自分が、一番好きです

次の仕事も、高齢社がすぐに紹介してくれた。段ボール構造を利用したフスマのメーカーで、企画提案のできる女性が欲しいとの要望だった。

高田さんは手書きの紙芝居のような絵を描いて、お客さんに商品を紹介することを提案した。社長もそのアイデアに乗ってくれて、一緒に考えたり、アドバイスをくれた。営業担当の人々からも「お客様に分かりやすい」と好評を得た。社長は妥協のない人で、まだまだ満足はして貰っていないが、高田さんは社長が満足するまで続けようと思っている。

ある時、高田さんの席の後ろに、家電店の大きな箱が置いてあった。社長がニコニコしている。開けてみると、中から出てきたのは、パソコンとペインターソフト

手書きの味わいも良いが、修正のたびに高田さんが苦労しているのを知っていて、パソコンならそんな手間が省けるのではないか、と社長は考えたようだ。「どうかなって思って買ってみた。使えなくても全然大丈夫。これで遊んでいいんだからね

最初は正直な所「参ったなあ」と思ったが、こういう機会を与えて貰って「なんて幸せなんだろう」と思い直した。「社長に応えたい!」と奮起して、自宅で練習するために同じパソコンとソフトを買った。

「そんな今の自分が、一番好きです」と高田さんは語っている。

70歳で介護施設に就職

熊野忠孝さん(76歳)は、現役時代は商社マンとして海外を飛び回っていたが、63歳で定年退職、その後、商社時代に付き合いのあった会社で66歳まで働き、さらに70歳までは週1日の契約で、別の会社の相談役をしていた。

残りの6日間はやる事がなく、いつか中国史を学んでみたいと思っていたので、図書館通いも始めたが、だんだん足が遠のいてしまった。大の甘党なので、饅頭や大福を食べながら、朝からテレビを見ていると、体重がみるみる10キロ以上も増えてしまった。

「体は重いし、腰は痛いし、困ったな」と思っているところに、昔の職場の後輩で、介護施設を立ち上げた所長が、熊野さんを入居対象者として勧誘しにきた。もちろん入居する気はまるでなかっが、「とにかく痩せたい」と思っていた所に、「うちで働いたら、すぐ痩せますよ」の一言。

それから熊野さんは、福祉専門学校に通い、70歳手前ホームヘルパー2級在宅介護の資格をとって、水曜から日曜までの週5日、介護施設で働き始めた。仕事の内容は、日帰りのデイサービス利用者の食事介助、入浴やトイレ介助を中心に、施設内の清掃や厨房での皿洗い、と何でもこなした。

現役時代は一切家事をしてこなかったので、すべての仕事が初めてだった。入居者の抱きかかえ方、背中の洗い方などで「そんなんじゃダメだ!」と叱られれば、「日本一の三助になろう!」と努力し、褒められればとても嬉しかった。

朝5時に起きて通勤2時間、施設には7時半に着いて、夕方5時半過ぎまで働く。万歩計で計ると、毎日1万4,000~5,000歩も歩いていた。わずか半年で、かつての体重に戻った。

今日も1日お疲れ様

施設の仕事は人対人だ。仕事だから相手も遠慮しないし、ごまかしは効かない

入居者は80代が中心で、70代の熊野さんが出勤すると「おじいが来た、おじいが来た」と喜んでくれる。元魚屋さんや元パン屋さん、元校長がいたりで、元商社マンの熊野さんの知らない世界の話が聞けるのは、とても新鮮だった。熊野さんも商社マン時代に全国あちこちで仕事をしていたので、それを話す。

日々の仕事に加え、「先生」役も始めた。「五七五の会」と称して川柳のような5・7・5のリズムの詩を入居者の人たちと作る。「梅」「節分」「春」などと題を出して、みんなの前で発表して貰う。

レクリエーションに参加することを頑なに拒み続けていた男性がいたが、「梅で一句!」と声をかけたら、その男性はつい乗せられて、一句すらすらと書いた。それを褒めると、いつも怒ったような顔つきをしていたのに、とても嬉しそうな表情になった。以後、積極的にレクリエーションに参加してくれるようになった。

1日の仕事の後には、1杯の缶コーヒーを飲む。「今日も1日お疲れ様」という自分なりの儀式で、これが、今、一番の幸せの瞬間だ。介護の仕事は決して楽ではないが、やればやるほど手応えがある。奥さんとの仲も、とても良くなった。熊野さんは、そんな今が一番幸せだと感じている。

定年後に働くと、いいことずくめ

高齢社の社長・上田さんは「定年後に働くと、いいことずくめだ」と言う。

まず健康にいい。働くことで元気になる。熊野さんは毎日毎日1万4,000~5,000歩も歩いて働くことで、半年で太りすぎを克服した。適度な緊張感と責任感が、元気な体をつくり、健康寿命を延ばしてくれる。

第2に、働いて稼いだお金は、いい「お小遣い」になる。貯蓄を取り崩して遊ぶことには抵抗を感じる人が多いが、自分で稼いだ金は、孫に何か買ってあげたり、ゴルフにも気分良く行ける。

第3に「生きがい」を感じられること。遊んでいるだけでは、自分がこの世からいなくなっても、誰も困らない。職場で頼りにされることで、自分自身の存在意義を感じることができる。

社会にとっても、少子高齢化で人不足になったり、また農業や介護など、若い人が行きたがらない分野がある。そういう分野で、高齢者が進んで仕事をすることで、社会への恩返しにもなる。

体が動くうちは働いて世の中のお役に立つことが幸せ

我が国は長寿社会として世界の最先端を走っているが、同時に我が国の文化伝統には、長寿社会に適した労働観がある。

キリスト教文化では、労働とは知恵の木の実を食べたアダムやイブが神から与えられた罰とされている。だから、早く金を貯めて退職し、気ままな余生を送ることが夢になっている。そのため、働かない余生がいかに虚しいか、という事に気がつかない。

欧州では、まだ伝統的な家族制度が根づいていて、老人は孫の世話など家庭内の出番があるから良いが、アメリカでは仕事もなく、家族からも切り離された老人が寂しく公園で時間をつぶしている。

筆者も、アメリカに留学した頃、歓迎パーティで出会った老婦人から、初対面なのに「ぜひ遊びに来てくれ」と、懇願するような顔つきで誘われて、返事に窮したことがあった。家族も仕事もない余生とは、かくも寂しいものなのだな、と感じたものだ。

それに比べれば、我が国は高天原の神々でさえ、田畑を耕したり機織りをしたりして働いている。体が動く限りは働いて世の中のお役に立つことが幸せなのだ、というのが、我が国の労働観である。

こういう社会では、商社マンとして功成り名遂げた人が、70歳から介護の仕事についていても、尊敬されこそすれ、誰も軽蔑したり、不思議がったりはしない。60過ぎの老婦人が、仕事に役立てようとパソコンと悪戦苦闘していても、職場で応援されることはあっても、からかったりする人はいない

この崇高な労働観が伝統文化として根づいているのが、日本社会の美風である。その美風をますます広めて、100歳になっても世の中のお役に立つ仕事をすることが幸福だという生き方を多くの国民に実践して貰いたいものだ。そんな「寿命100歳」時代のお手本を世界に示す事は、国際世界に対する貴重な貢献となろう。

文責:伊勢雅臣

image by: Shutterstock

 

Japan on the Globe-国際派日本人養成講座
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3千人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
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