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鎌倉幕府はイイクニからイイハコへ?なぜ成立の年号が曖昧なのか

鎌倉幕府といえば「いい国(1192)作ろう、鎌倉幕府」という語呂合わせで覚えた方も多いでしょう。しかし、最近の歴史の授業では鎌倉幕府の成立は「1185年」と教えるのが一般的で、語呂合わせも「良い箱(1185)作ろう」に変わっているのはご存知でしょうか。メルマガ『8人ばなし』の著者・山崎勝義さんは、なぜ鎌倉幕府成立の年号がはっきりしないのか、その知られざる理由を明かし、結局のところどの年号が正しいのかについて持論を展開しています。

『イイクニ』と『イイハコ』について

テレビを見ていたら、中学生らしき男女が日本史の一問一答クイズをしながら学校の廊下を歩くシーンが流れた。ドラマだか映画だか、元の番組はすっかり忘れてしまったが、その時の問答だけはしっかり憶えている。

「イイハコ作ろう?」
「鎌倉幕府!」

いつの間にか1192年が1185年になっているのにも驚いたが、「イイクニ」から「イイハコ」に語呂合わせの方もちゃっかり変わっているのには思わず笑ってしまった。記憶のための労力は無理にでも節約しようという考えである。昔も今も変わることなく、学生達の横着精神は健在なのである。

さてこの鎌倉幕府だが、その成立年に関しては、先に挙げた二つ以外にもいくつか説がある。1180年説、1183年説、1184年説、1189年説、1190年説などである。以下にそれぞれの論拠となる歴史的背景をまとめる。

  1180年
   頼朝、鎌倉入府
   侍所設置
    → 鎌倉を拠点とする、一大武家勢力の確立
  1183年
   寿永二年十月宣旨
    → 後白河法皇(朝廷)、頼朝の東国支配権承認
    → 頼朝の官位回復
  1184年
   公文所、問注所設置(四位以下の家政機関)
    → 政治機構の整備
  1185年
   公文所を政所(三位以上、即ち公卿の家政機関)に改称
    → 頼朝の私的機関が準国家機関となる
   守護・地頭設置
    → 頼朝の軍事・警察権が全国に及ぶ
  1189年
   奥州平定
    → 内乱の平定
  1190年
   頼朝、上洛
   権大納言、右近衛大将に任じられる
    → 左近衛大将と並ぶ、常設武官最高位就任
   日本国総追捕使・総地頭の地位の恒久化
    → 全国の軍事・警察権の恒久化
  1192年
   頼朝、征夷大将軍に任じられる

さて、上記のどれを以て鎌倉幕府の成立とするかだが、それを論ずる前にまず、そもそも何故これほど多くの説が存在するのかについて考えてみたい。

それはひとえに「幕府」というものの定義が判然としないことに起因している。言い換えれば、定義の数だけ幕府成立年が存在するということである。これを逆説的に言えば、定義さえしっかりすれば自ずと答えは一つに収斂するということである。

では如何に定義すべきか。ここで忘れてならないのは「幕府」という漢語が武家政権を指して、例えば「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」などと呼称するようになったのは江戸時代中期以降であるということである。ということは、江戸の学者が同時代政権である江戸幕府から時代を遡って室町の政権、鎌倉の政権を遠望した時、そこに現政権との共通点を見出すことができたということである。

その共通点を以て「幕府」の定義とすると、常設の征夷大将軍を首長とする武家政権となる。つまり、1192年説には「幕府」という名称が後付けであるが故の整合性があるのである。

しかし一方で、それぞれを固有の幕府として切り離して考えることもできる。つまり「中世前半の鎌倉的な幕府」「中世後半の室町的な幕府」そして「近世の江戸的な幕府」というふうに通時的な要素をできるだけ捨象して、その時代ならはの幕府観を作るという試みである。

その時、俄然有力になるのが1185年説なのである。

前述の通り、この年には頼朝の従二位昇叙に伴い、鎌倉では頼朝の私的機関がそのままスライドして準国家機関(政所)となっている。さらに守護・地頭の設置によって地方統治の形が一応は整った。この中央(鎌倉)と地方の統治機構は、朝廷の統治機構とは別次元にパラレルに存在するものであり、日本史上初の公武二元制とも言える。その意味においてはこれを以て鎌倉幕府の成立と言っていいのかもしれない。

ただ、肝心の頼朝自身の官職に特別な変化がない点が気になる。そもそも、それまで謀叛人として自分を遇してきた朝廷から名誉を回復され、伊豆配流以前の官位に復している時点で、頼朝自身は(少なくても表見的には)王権擁護の立場であるというのが自然であろう。

ということは、朝廷(王権)から武門の長として相応しい何らかの官職に任命されなければ依然として私的な武士団の棟梁の範疇から出ることはない、と自ら考えたとしても不思議ではないのである。

では、頼朝自身の行動から何か読み取ることはできないだろうか。前段で述べた通り、頼朝はまず1183年の寿永二年十月宣旨でそれまでの謀叛人の立場から脱却し、伊豆配流前の「従五位下右兵衛権佐」に復位復職している。今後の武家政権の確立事業において、朝廷官職による権威付けが必要と考えたのだろう。

1189年、奥州討伐を終え、1180年以来続いていた内乱を平定した頼朝は、翌1190年に上洛した。その際「権大納言」「右近衛大将」に任じられた。この時、頼朝は征夷大将軍を望んだが後白河法皇がこれを拒んだ、という話が伝えられているが真偽の程は分からない。

ただ歴史的事実として、後白河法皇が死去するや頼朝は征夷大将軍となっているから一応の筋は通っていることになる。

その一方で、頼朝がこの時点で征夷大将軍を望む理由もよく分からない。これが奥州藤原氏征討以前なら分かる。それこそまさしく征夷大将軍の職掌だからである。また、後白河法皇にしても、わざわざ鎌倉から上洛して来た武家の棟梁頼朝に対して、如何様にも名称を付けられる官位相当もない臨時の将軍職の提案などしづらかったのではないか。すぐ前の源義仲の「征東大将軍」の凶例があるからだ。

そういった両者の立場を考えると、もとより「右近衛大将(右大将)」が頼朝の本命だったのではないだろうか。この、左大将と並ぶ常設武官最高位に就くということは武家の棟梁として十分な権威付けとなった筈だからである。ただ、それが在京官職であることが問題だったため、一旦は任官するもすぐに辞退したのである。一旦は任に就いたというところが大事なのである。

そうすることによって「前右大将」となり、その肩書きにぶら下がっている職権をそのまま鎌倉に持ち帰ることができるからである。そもそも「征夷大将軍」が本命で、さらに「右大将」もすぐに辞退するのであれば、最初から「右大将」にならなければいい話である。

頼朝が鎌倉に持ち帰ったこの「前右大将」は「前右大将家」のように、今で言う「将軍家」のような意味合いで以後用いられたし、「前右大将家政所」というように機関の名称にも付けられた。こういった事実からも分かる通り、頼朝は「右大将」こそが武家の棟梁としての地位を権威付けるのに最も相応しい官職であると捉えていた筈である。故に、これを以て鎌倉幕府成立と考えたいのである。

言うまでもないことかもしれないが、「幕府」は「近衛大将」の唐名であるということをここで傍証として付け加えておきたい。

ただ「征夷大将軍」に関しては、頼朝上洛の折に、後白河法皇あるいは九条兼実あたりと「私頼朝は、『征東大将軍』木曾義仲や『鎮守府将軍』藤原秀衡を朝廷のために討ち倒しました。そして私はこれからも、彼ら以上の高い忠誠心をもって朝廷にお仕えしたいと思っております。つきましては、それに相応しい名の将軍職を賜りたいと思っているのです」といったような話をしたかもしれない。

これは飽くまで想像だが、仮にこのようなやり取りがあったとするなら、頼朝の「征夷大将軍」任命が遅れたことも納得できるのではないか。つまり、頼朝の希望を酌むなら義仲の「征東」も秀衡の「鎮守府」も駄目である。さらに、義仲は「(征東)大将軍」であるから、最低でも「大将軍」を付けなければまずかろう。などと思案しているうちに一年余が過ぎてしまい、結局1192年になってしまったということである。

最後に結論としてまとめておく。

鎌倉幕府の成立年は、江戸から遡って後付け的に「幕府」を捉えた場合→ 1192年(頼朝の征夷大将軍就任)
中世前半の固有の武家政権として「幕府」を捉えた場合→ 1190年(頼朝の右近衛大将就任)

と考えられるのである。

image by: Wikimedia commons

 

8人ばなし

著者/山崎勝義

ここにあるエッセイが『8人ばなし』である以上、時にその内容は、右にも寄れば、左にも寄る、またその表現は、上に昇ることもあれば、下に折れることもある。そんな覚束ない足下での危うい歩みの中に、何かしらの面白味を見つけて頂けたらと思う。
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