いつも苦手に感じている「あの人」のこと。しかし、いま一度振り返ってみると、その理由は「無意識に」いうことが多いようです。あなたの「意識」を支配している「無意識」をコントロールできれば、苦手な相手に接する態度も変えることができるのかもしれません。今回の無料メルマガ『人間をとことん考える(人間論)』では、著者で薬剤師でもある小原一将さんが、この「無意識」について分析・考察しています。
「無意識」にあるものを「意識」に置いてみることとは
今、読んでいる本に「無意識」と「意識」のことについて書かれている。まだ全てを読んだわけではないが「意思の力」を養うための方法が書かれており、無意識を意識することによって自分をコントロールし、意思の力を強めようという内容である。
たしかにこれは正しいように思う。人間が意識的に行っていることは実は少なくて、無意識に行っていることの方が多いだろう。それを少しずつ意識することによってそれまでに気付かなかった周りのものや自分を見つけることができ、さらなる成長につながるはずだ。
例えば、職場のあの人が嫌いと思ってもなぜ嫌いなのかを論理的に説明できる人は意外と多くないのではないだろうか。周りが嫌っているからとか、見た目や雰囲気といった短絡的な要素で嫌いになっていることもある。
試しに自分の嫌いな人を思い浮かべて、なぜ嫌いなのかをその人のことを全く知らない人に説明する場面を想像してもらいたい。果たしてその相手もその人のことを自分と同じくらい嫌いになってもらえるだろうか?
どのように説明するかということを考えることは、「あの人を嫌い」という事象を「意識」に置くことになる。そうすると、その人へのあなたの態度が明日から変わる可能性がある。
こういったことを考えていると、この「無意識」から「意識」というプロセスはこのメルマガのテーマである「考える」ということに他ならないのではないかと思った。無意識の判断や意識せずに目の前を通り過ぎているようなものを目の前に置いて思考することをテーマとしている。
つまり私がとりあげているテーマは、いつも「無意識」の領域に置かれることが多いものを「意識」して検討してみようとしていたのだ。
そうすると、哲学的な命題も同じように考えることができるかもしれない。ハイデガーは「存在」について論じているが、一般の人にとって「存在」というものを考え続けることはあまり意味がないと思っている。「存在」を意識しなくても日常生活に何ら支障は出ないからだ。
しかし無意識にあったものを意識に置くことによって自分の見える風景が変わったり、気持ちが変化したりといったことはあり得るかもしれない。そうすると、「哲学を学ぶ必要があるのか?」といった昔からの問いに対する答えを用意できる気がする。
このように書いていくと「無意識」にする行動や言動が全て良くないものであると言っているように思われるかもしれない。当然私はそう考えてはいない。めまぐるしく変化する世の中で、全てをいちいち意識して考えながら生活することは現実的に不可能である。
さらに、インスピレーションなどの無意識での感性も私は面白いと思っている。「無意識」ではありながら、自分が生きて来た人生全てを使ってその対象を感じて評価するものがインスピレーションであると思っているので、「意識」して考えていないながらも、じっくり考える時以上の判断ができていることもあるだろう。
まだこの本を全て読んでいないので自分の中で考えがまとまっていないが、「無意識」と「意識」の議論はとても面白いように感じている。「考える」ということは「無意識」から「意識」にうつることだとすると、「意識」から「無意識」へうつることはどう表現するのが良いだろうか。
「意識」することと、ここで述べている「考えること」はある意味「言語化」することと同じだと思っている。そうすると私の中で言語化できないものは「考えること」ができないかもしれないと思っていた。この「意識」と「無意識」の関係を吟味することがヒントになるかもしれない。
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