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私欲ではなかった。大政奉還が徳川慶喜の独断ではない証拠

明治維新のきっかけとなったとも言われる1867年の大政奉還からおよそ150年。幕府側の当事者にして最後の将軍・徳川慶喜公については「毀誉褒貶相半ばする人物」との声も聞こえますが、事実、どのような方だったのでしょうか。今回の無料メルマガ『致知出版社の「人間力メルマガ」』には、水戸史学会会長の宮田正彦氏の見解が掲載されています。

あなたはどうみる? 徳川慶喜の決断

いまだその人物評は定まっていない最後の将軍・徳川慶喜。本誌では「大政奉還」などの歴史的決断が下された背景が資料をもとに明かされています。

活機応変 宮田 正彦(水戸史学会会長)

大政奉還は慶喜公の独自の発想であり、独断だと思っている人もいるかもしれませんが、そうではありません

幕府が天下の政治を専断している根拠は朝廷に権限を委任されているからだ、という認識はむしろ当時の常識でした。

後年の回想によれば、慶喜公は将軍職に就いた時点で、既に幕府だけでは国家の難局は乗り切れないと見通し、いつかは大政奉還しなければならない、と考えていました。問題はいつどのようなタイミングで行うかだったのです。

この慶喜公の大政奉還の決断に対して、「政権を投げ出した」「自分が権力を握るための政略だ」などという見方が多くありますが、それは違うと私は考えています。

なぜなら、この時、慶喜公は政治の実権から離れようとはしていないからです。『大政奉還の上表』の中にも、

……当今、外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈、朝権一途に出申サズ候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ盡シ、聖断ヲ仰ギ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕リ候得ハ、必ズ海外万国ト並ビ立ツベク候……

と記されているように、政治から身を引くとは言っていません。

つまり慶喜公は、このまま幕府と倒幕派の対立が激化すれば、国内が分裂し、西洋列強の介入の危機を招いてしまう。だから、ここは政権を朝廷にお返して聖断を仰ぎ共に心を合わせ力を尽くしましょうと言っているのです。

そして慶喜公の大政奉還の決断の根底にあったのは、自分が権力を握りたいといった私欲ではなく、20歳の時に伝えられた「朝廷に向ひて弓引くことあるべくもあらず」という水戸家の家訓水戸学の精神だったのだと思います。

事実、明治34(1901)年頃、伊藤博文に「どのような信条で大政奉還をなさったのでしょうか」と訊ねられた慶喜公は、「私は水戸の生まれですから、父の教えに従ったまでですよ」と答えたといいます。

image by: Wikimedia Commons

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【著者】 致知出版社 【発行周期】 日刊

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