盛り上がりを見せた平昌五輪が閉幕し、早くも「平昌五輪ロス」になっている人も多いのではないでしょうか。しかし背後にはそんな多くの純粋な庶民の気持ちを金儲けに利用しようとしている人たちもいるようで…。米国在住の作家・冷泉彰彦さんが、自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』で、マスコミが絶対に報じない「五輪の存在意義」について詳述しています。
国家というサーカスと五輪というビジネス
平昌五輪が終わりました。アメリカでNBCを見ていると、あまりにも「アメリカ・ファースト」の報道で辟易する感じでした。ここ10年ぐらい、こうした傾向は強まっていたのですが、改めて、いかにも「トランプ時代」という感じです。
男子フィギュアでは、あくまでリッポン選手が主役で、羽生選手は紹介だけ、宇野選手に至っては「ガラ・エキシビション」の地上波放映ではカットされていたのです。女子に関しても、ロシアの2人にはとりあえずスポットライトを当てていましたが、あくまで米国の3人が中心でした。
そうした「自国中心主義」が嫌な人は、地上波(に等しい三大ネットワーク)のNBCではなく、ケーブルのNBCスポーツチャンネルか、あるいはストリーミングへ行ってくださいという運用がされていました。
こうした扱いというのは実に象徴的と思います。庶民階層には「国家というサーカス」を与えて行き、そこにマスのマーケティングを重ねて行くというビジネスモデルです。実際の経済とか最先端技術というのは、どんどんグローバル化しているのですが、とりあえず階層が下がると国境の壁が上がり、内向き志向の中で「国家というサーカス」が売れて行くという仕掛けです。
日本の場合も似たような事情があるように思います。いわゆるワイドショー的な報道におけるナショナリズムの扱い、あるいは「現役世代が帰宅する前」の21時台のニュースにおける保守化なども、こうした現象と重ねて考えるべきではないかと思います。
問題は、この種の「マスのビジネスと化したナショナリズム」というのは、
- 人畜無害な範囲なのか?
- ならば無視・放置してもいいのか?
- そうではないとしたら、叱責・批判のアプローチがいいのか?
- 持てるもののグローバリズム、持てざるもののナショナリズムという転倒がある中で、批判は「上から目線」になるのではないか?
- だからと言って、貧困ゆえにナショナリズムに酔う層を「理解し、憐憫の情を寄せる」というアプローチが有効とも思えない。
ということを考えると、答えは簡単ではありません。
例えばの話、小平奈緒選手と李相花選手の「友情」にしても、小平選手が「芸能事務所」などのマネジメントを受けていたら、あのような自然体ではできなかったかもしれません。そう考えると、クヨクヨ悩まずに、小平選手のような自然体のキャラを育て、評価して行くのが一番いいようにも思います。
その意味で、国家の代表を禁じられたロシア選手団が、それでも存在感を示し、また禁止措置への反抗を個人として表現したというあたりに、一つの均衡があったのかもしれません。そのことを思うと、この問題については、「あるべき姿」という原理主義から対立を煽るよりは、一種の均衡を求めるというのが良いのかもしれません。
さらに言えば、五輪というのは、ナショナリズムが人命を弄ぶ形で激突するのを防ぐための「ガス抜き」という面が強いわけで、尚更、ある種の均衡というのが着地点なのだと思います。
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