薬学部に進みながら哲学や心理学などの本を読み漁り、人間とは何かを考え、どのように行動するべきなのかを大学生活の4年間で考え抜いた小原一将さんが、メルマガ『人間をとことん考える(人間論)』の中で今回考えているのは「死」についてです。肉体としての死と魂の死、主観的な死と客観的な死、生と死の間の状態など、秋の夜長の思索にふける小原さんとともに、「死」を哲学してみてはいかがでしょうか?
「死」についてつらつらと考えてみる
「死」についての本を読んでいるので久しぶりに「死」について考えてみる。その本を読んでいるうちにまた気づくことがあるかもしれないが、読んでいて思ったことをつらつらと。
「死」というのは肉体的なもの、つまり身体が機能を停止するという考え方と、精神的なもの、つまり魂が存在しており身体が機能を失っても魂は残るため完全に死ぬことはないという考え方があると書かれていた。
「魂」という考え方は広く人類に普及しているように思うが私はその考え方に賛同していない。もちろん「魂」というものがあれば神秘的で興味深く、そして「死」というものが受け入れなければならないハードルではなくなるのだろう。
だが私にとって「魂」があるかどうかはあまり興味がない。はっきり言ってしまえば「死」という恐怖から逃れるために作られたものであるようにすら思っている。(これは多分に感覚的なものなので異論反論あるだろうが思考を先に進める)
「魂」の存在を否定すると、肉体的に死んでしまえば全てが終わりであると言えることになる。そこで一つ思ったのが、私というこの性格や感情のまま違う身体に置き換わったとしたらそれは生きているのだろうか?死んでいるのだろうか?おそらくほとんどの人が生きていると答えるのではないか?例えば今のあなたの性格や感情を持った犬やロボットが存在すればあなたは生きているだろうか?
ここでさらに疑問として浮かんでくるのが、自分から見る自分と他者から見る自分は違うかもしれないということ。以前にも例として書いたがカフカの変身のように人が生理的に受け付けないものに変わってしまった場合どうだろうか?
確かにいわゆるあなたの人格は存在しているが、他者から見た時にあなたであると思える人は少ないだろう。それは論理的にあなたであると思っている、もしくは思おうとしているが感情的にはあなたであるように思えないということ。つまり個体として生存しているがあなたではない。しかし、あなたにとってはどんな姿になろうともあなたである。
すると、生きていると思える状態が生きている状態と言えなくもないように思う。誰かが生きているかどうかという議論は心臓の動きや動向の反射など客観的に片付けることも出来るが、大いに主観的な議論にも発展するのではないだろうか。
このように考えていくと「生」と「死」ということだけを考えていては限界があるように感じる。つまり「死」というものが包括的に全ての意味での最後を意味するのであれば、それより前の段階として主観的な「死」と客観的な「死」が存在するのではないだろうか。(「死」と書いたが包括的なものを「死」とするならこの表現も正しくない。だが適切な表現が思い浮かばないのでこのように表記する)
主観的な「死」はアルツハイマーや記憶喪失などで主観的に自分を自分だと判断出来なくなった場合が考えられる。客観的な「死」は自分を認識できているが自分以外からは自分であると思われていない場合。重大な事故で外見がほとんど変わってしまったり、SFにはなるが人格だけ別の生物などに乗り移ってしまう場合が思い浮かぶ。
どちらも身体的には生きているので「死」と言い切ることはできないが完全に生きているというわけでもないようにも感じる。当然、アルツハイマーの方や外見が大きく変わってしまった方を死んでいると言いたいわけではない。「死」というワードはかなり広義の意味が含まれる可能性があると思うだけだ。
つまり、「生」という範囲を小さくして「死」という概念を広く考えるのか、「生」と「死」という状態のプロセスの途中に別の考え方が存在しているのか。もしくは「死」という概念が私たちが思っているよりも手前にあり、それよりも先の「死」を超えた、例えば「無」といったような概念を作り出した方が良いのか。
読み進める本に書いてあるかは分からないが、気づきがあればこのメルマガに書いていこうと思う。
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