親というのは我が子のことが心配でならないものですが、それを表に出してしまっては子供の主体性を損なってしまいます。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』のテーマは「何が子供の成長を阻害するのか」。著者で現役教師でもある松尾英明さんが、子供の成長を望むなら過度な干渉は慎むべきと力説しています。
子どもの成長を確実に阻害する方法
17年半の間、学級担任として様々な子どもたちを見てきた。同時に、様々な保護者とも接してきた。
教育において、環境は大切である。地域というのは、多様性において無視できない要素である。山間の学校。街中の学校。新興住宅地。私立学校や附属学校。
それぞれ、かなり生活スタイルの異なる人々が暮らしている。それぞれに良さもあり、大変な面もある。しかし、どの環境に暮らす人であっても、共通項は見えてくる。
今日紹介するのは、そんな多様な状況の中で見えてきた、子どもの成長を確実に阻害する方法である。これを裏返せば、すべての子どもの劇的な成長を促す方法ともいえる。
これは、多くの人にとって、多大な興味があるのではないかと思われる。研究者による社会実験等の結果ではなく、あくまで私の現場感覚による実感だが、自信がある。信じるも信じないも自由である。その程度で読んでいただきたい。
ずばり。成長を阻害する一番の方法とは、
「心配しすぎ」
これである。親でも学級担任でも同様。これに尽きる。この傾向があると、とにかく「指示」「注意」「禁止」が多くなる。更に「他責」が加わる。子どもに対しても心配だし、担任の先生や学校、習い事のコーチに対しても心配なのである(そんなに心配なら全部自分で世話してください、と特に習い事や保育園の先生は強く思っている気がする)。
当然、子ども自身も、心配性になり、指示待ち傾向が強くなり、他責的になる。自分が失敗するのは、指示を出した親や教師、あるいは周りの仲間の責任であると考えるようになるからである。これに伴って、いじめる、いじめられる、傍観、便乗するという傾向にもつながる。
ちなみに心配とは「慎重」とは違う。慎重とは、熟考し、軽々しく断定や行動をしないことである。大局を見る視点であり、こちらは大切である(私は、慎重に見てきた上で、敢えて断定して述べている)。
ここでいう「心配」とは、失敗を無暗やたらに怖れて子どもの挑戦を阻止し、先回りして解決しようとする行為である。この一文を読むだけでもわかると思うが、これを習慣的に行えば、子どもがどういう方向に育つかである。
過剰な心配性は
- 臆病
- 事なかれ主義
- 他者依存
- 他責
ひいては他人に対し
- 指示・支配的
- 聞く耳をもたない
- 失敗を責める
- 挑戦を馬鹿にする
こういった傾向を強めるだけである。愛する我が子に失敗させたくないのはわかるが、これでまともに育つはずがない。まして担任がその傾向だと、学級集団の全員がそうなるので、負のスパイラルである。
要はこれを裏返せば、子どもが劇的に育つ方法になる。
つまり、心配しすぎないこと。教えたら、とりあえずさせてみて、失敗しても励ます。信頼して、だんだんと任せていく。愛情をもって見守ってはいるけれど、基本的に口出し、手出しを控えて我慢する。
強く育っている子どもの親や学級担任は、大抵これをやっているようである。だから、子どもが自信に満ち溢れている。少しぐらい失敗しても叱られても、へこたれない強い子どもになっている。
書いていて気付いたが、これは山本五十六の有名な言葉と全く同じである。
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
今回は子育ての話だが、上司と部下というような関係にもほぼ完全に当てはまる。自分を信頼してくれる上司のもとでしか、人は育たない。いつも心配ばかりされて、厳しいチェックと指示、叱責ばかりの上司についていきたい人はいない(しかし部下の立場でこれに甘えるのは間違っている。大人なら、自分がしっかりする方が先である)。
子どもを「所有物」「私物」化しているから、心配性になる。子どもは一人の自立した人格なのである。親のものではないし、ましてたかだか一学級担任のものであるはずがない。
要は、いちいち細かすぎなのである。他者にそんな関心をもつ暇があるなら、自分の心配をしなさいということである。心配性の人が一番心配である。
愛しているなら、心配しすぎない。愛しているなら、信頼して任せる。
子育て、人材育成の肝である。
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