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なぜ日本は「東名あおり運転」の犯人を殺人罪に問えないのか?

2名の生命が失われた「東名高速あおり運転事件」ですが、被告側が公判で危険運転致死傷罪について無罪を主張したことが議論を巻き起こしています。米国在住の作家・冷泉彰彦さんは自身のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』で、明らかに悪意を持って他人を死に至らしめた人間を適切に裁けない事態が、なぜ日本で起こるのかについて考察しています。

日本の法律やルールは、どうしてザルなのか?

東名高速で「あおり運転」を行なった末に、強引に「追越車線に停車」させたところ、そこへ大型トラックが追突した結果、夫婦を死亡させたという事件の初公判が行われました。早速、弁護側は危険運転致死傷罪の容疑については無罪を主張しています。

横浜地裁での弁論では、弁護士側は「被害者が死亡したのは危険運転の結果ではない」「まして、今回は別の車が追突して死亡事故となったので運転中の事故でもない」と言う論理を展開しています。弁護側は、それが仕事ですから仕方ありません。

さて、この事件ですが、警察は当初は「過失運転致死傷罪」の容疑という、より罪の軽い容疑で逮捕をしています。一部の見方としては、今回の事件は危険運転致死傷罪を問う構成要件に当てはまるのか自信がなかったことが理由だと言われています。

その後、検察は「危険運転致死傷罪での起訴を行いましたが、同時にこの容疑が認められなかった場合に備えて「過失運転致死傷罪でも起訴をしています。

それにしても、悪意を持ってあおり続け、最後には強引に「東名高速の追越車線に停車させて暴力を振るう」という凶行に及んだ事件が「過失」というのは、なんとも奇妙な話です。強いて解釈するのであれば、「とにかく怒っていて、相手を停車させて殴ってやろうと思ったが、あまりに焦っていたのでウッカリ追越車線で止めてしまったので、結果的に相手が別の車に追突されて死んだというのは、「過失」だということなのかもしれません。

一部には、「やはり停車中であるし、夫婦を殺したのは別の車だし」ということで、「危険運転致死傷」では無罪になるのではという意見も強いようです。では、警察や検察は、このような凶悪事件を罰することができない(かもしれない)という状況に対して、「仕方がない」としているのかというと、勿論そうではないようです。

一部の報道によれば「今回のような事故の状況(悪質な煽りと降車強要)を法律が想定しておらず事故の現実に追い付いていない」という現場の声が紹介されていました。

また、今回の事件に関しては「殺人に等しい行為」という印象も強いわけで、こうしたケースに関しては「未必の故意」、つまり「こんなことをしたら人が死ぬかもしれない」ということを分かってやったというロジックで「殺人罪で起訴することも検討されたようです。

ですが、それも難しい、つまり「自分も同じ追越車線にいた以上は、そこには相手を他の車で轢き殺すという意図、あるいは死亡事故になるかもしれないという予測はなかった」というロジックで反論されると、殺意の証明が困難という問題があるようです。

問題はどこにあるのでしょうか?

一つは、交通や警察の当局が「あおり運転の悪質化」ということを踏まえて、新法整備への研究を行い、最終的に法案を提出して行く努力に時間がかかりすぎる問題があります。また議員立法でということも考えられますが、今回の移民法でも代案が出せないなど、野党には政策提案つまり法案策定の能力がなくダメダメだということもあります。

ですが、本当の問題は「法律よりも上位の概念としての市民社会の共通価値観というものが日本にはゼロだということがあるのです。

この「市民社会の共通価値観」というのがあれば、法律が整備されていなくても、より高度な概念を根拠にして、裁判員裁判が判例を作って行くことができます。その結果として、判例が法律に代わって機能するということも可能になります。

ところが日本の場合は、そのような「共通価値観」がありません。今回の例についても、「あおり運転という悪質な行為の果てに、2名の人命を奪ったことは許せないし再発を防止しなくてはならない」ということが、まず「市民社会の共通価値観」として揺るぎのないものとしてあれば、強くこの被告を罰しながら、今後へ向けての判例にできます。

ですが、そのような判決は許されていません。法律、あくまで議会が可決して六法全書に書いてある法律が重要で、その上位概念としての「共通価値観というのはないのです。

例えば、コンピュータを使った犯罪が横行しているわけですが、これは刑法各においては、「電磁的記録の不正使用や損壊等の行為」として、特別な条項を設けており、これに違反したものだけが取り締まれるようになっているのです。

現在の市民的な常識からしたら、「電磁記録」というのはあくまで手段であって、それは情報を記録するためものです。ところが、日本の法律は、法律に書いてなければ機能しないしその対象は目に見えるものという原則があるのです。

ですから、犯罪類型としては、「電磁的記録不正作出及び供用の罪」とか「支払用カード電磁的記録に関する罪」といった「バカみたいに具体的な決め方がされているわけです。

例えば、現在はコンピュータを誤動作させる詐欺というのも取り締まれるようになっていますが、(詐欺罪の特殊類型)、この規定ができるまでは、詐欺罪は「相手が人間の場合」にしか成立しないとして、コンピュータをだます犯罪は取り締まれなかったのでした。つまり、上位の概念としての「人間の常識、日本人の常識として、これはやってはいけない」という共通価値観がないので、事細かな法律を決めなくてはならないわけです。

では、どうして日本には、共通価値観はないのでしょうか?

一つには、長い歴史のせいということがあります。江戸時代から明治時代にかけて、法律は「お上が庶民を取り締まるため」のもので、庶民はお上の暴力から身を守ったり、コッソリ自由を満喫したり、その両者には共通価値観はなかったのです。

また20世紀には資本家と労働者という分裂もありました。労働者は、とにかく自分の立場を守るためには法律を盾に戦わなくてはならず、一方で資本家はカネを守るために戦うわけで、その両者にも共通価値観というのは無理だったのです。

その結果として、「共通価値観がないということを前提に、なんでも細かくルールを決めて、バカみたいにそれを守るという不思議な社会が出来上がったのです。中学生や高校生にバカバカしい校則を押し付けるのも、そうしたルールで管理しないと組織が回らないという教員のスキル不足ということもありますが、それ以前に先生と生徒が共通の価値観に基づいて信頼関係を作るというのではない」ミニ社会の存在があるのだと思います。

ですが、そうした法律やルールの考え方はもう限界です。技術の進歩や、情報流通の拡大によって、社会の変化スピードはどんどん加速しています。その一方で、外国人労働者の流入や、企業の多国籍化によって、海外の様々な価値観が入ってきていますし、またグローバルスタンダードへの接近という現象も見られます。

そんな中で、貿易やビジネスだけでなく、多様な人々が共存して生きて行くための共通価値観」というものを作っていかなくては、もう社会は回らないのではないかと思うのです。その上で、新しい犯罪については裁判員裁判で判例を積み上げて行く、そうでなくては社会の変化スピードに追いつかないのではないでしょうか。

専門的に言えば、英米法的な「コモンセンス」の考え方を日本風にアレンジして、グローバルスタンダードと整合性を取るという作業になり、これはこれで当初は大変になると思います。ですが、そのようなシステムを作っておかなくては、もう日本の社会は回らないのではないかと思います。

中高生の教育も、「ルールがあるから守るのが道徳」だという江戸時代のような発想ではなく、「より有効なルールを作るには?」とか「ルールの元になる共通価値観とは?」ということを考えさせ、スキルを磨くような教育に変えなくてはダメだと思います。

あおり運転の結果、「うっかり追越車線に止めた」ので、相手が死んでしまった、それが「未必の故意による殺人」でもなければ「危険運転致死」でもなく、「過失致死」で終わってしまう可能性のある社会を変えるには、そのような抜本的な改革が必要と思うのです。

image by: Shutterstock.com

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東京都生まれ。東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒。1993年より米国在住。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を寄稿。米国と日本を行き来する冷泉さんだからこその鋭い記事が人気のメルマガは第1~第4火曜日配信。

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