人間は弱い生き物です。悲しい現実ですが、だからこそ他人を攻撃しようとするのかもしれません。今回の無料メルマガ『「二十代で身につけたい!」教育観と仕事術』では著者で現役教師でもある松尾英明さんが、満たされない自己の存在感がいじめを生むメカニズムを解明し、「いじめはなくならない」という現実を認識した上で対処すべきと論じています。
負へのニーズといじめ
普段から、テレビを全く観ない。ただ先日の土曜日の夕方、テレビのついている環境にたまたまいた。そこで我が子たちと一緒にニュースを眺める状況になった。
最初に流れたのが、スポーツ界の若きスター少女たちの大活躍のニュース。つづいて、海外の歌手の、少女たちへの連続暴行事件。ニュースキャスターの方も、また余計なほどに詳しく事件について解説してくれる。何気なくチャンネルを変えても、同じニュースがやっていた。
これは、意図があるのか、あるいはないのか。私はメディアの裏側に詳しくないのでわからない。ただせめて、もう少しニュースの種類を、棲み分けできないのかと思う(心理学的に計算されていて、わざとなのかもしれないが)。深夜ならまだしも、お茶の間の団欒の時間に流すニュースとして、これが相応しいのか、甚だ疑問である。
世の中の負や悪の面を知ることも大事だ、という意見もある。しかし、その手の情報については、そんな気を遣っていただかなくてもいい。ご親切に、テレビ以外にも生活の至るところに溢れていて、常にお腹いっぱいで吐きそうである。
何で多くの人に一生無関係な、海外での婦女暴行事件をわざわざニュースで流さないといけないのか。「悪を世に問うためだ」などといくらでも理屈はつけられるだろう。しかし実情は単に、不謹慎にも「それが面白いから」ではないかとしか思えない。
スキャンダルや凶悪犯罪、殺人事件の類が、多分人々にとって「興味深い」のである。その方が売れる(=視聴率がとれる)のである。人間の中に、負や恐怖への欲望、渇望がある。ホラー映画や猟奇的な漫画等がヒットするのも、欲望の根本は同じである。
欲望への否定は、どんなにしても無意味である。多くの人が求める以上、「価値」が確実にある。
ここでいう「価値」とは、世の役に立つとかいう高尚な類のことではない。多くの人が求めるということ、「ニーズ」のことである。いいか悪いかとは全く別の次元の話である。
いじめも、欲の発露の一種である。暴力・暴言を振るうことによって、みじめな自己顕示欲を満たす。相手を痛みつけて相対価値を下げることで、脆い自分の存在価値を確かめたいという欲望。大人にも子どもにも同じようにある。脆くて弱い人間が偽りの「安心感」を得るための、卑劣で哀しい行為である。
ちなみに、痛みつける相手は、自分より価値の高いと思える相手、あるいは罪が深いと思える相手ほど、快楽効果が高くなる。特に素晴らしい人物が「磔(はりつけ)」になった時は、普段弱い人間ほどつるんで「石を投げる」行為に及ぶ。ここぞとばかりに「正義」を振りかざして、快楽を得る。
誰かに落ち度があっても、だからいじめていいということにはならない。キリストの「あなたがたの中で罪のないものが石を投げよ」という言葉があるが、実に聡明である。
実に嫌だが「いじめの快楽」を引き起こす現状がある。母親の「抱っこ」等の根源的な部分が不足して、自己の存在感を満たしきれていない子どもが相当数いる。
ここに人間の「負への欲望」が根本にある以上、根本的にいじめをなくすというのは、理想論ではあるが現実的でない。全員の人間の負の欲望そのものを「浄化」できればいいが、この世界の環境、状況を見ると、到底望むべくもない。子どもの周りにも、負の欲望を引き起こす情報が溢れているのである。いつでも「ある」前提で、対処できるように常に構えておく必要がある。
人間の抱える、負へのニーズ、欲望。目を背けたくなるが、教育において避けては通れないと感じた、久々にテレビを観ての出来事だった。
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