私はその後、スリランカに関心を寄せたが、日本の新聞を隅から隅まで読んでも、スリランカのことはべた記事にもなっていなかった。大きなテロが起こった際にはさすがに記事にはなったものの、情報はすべて断片的。
マスメディアの現場に身を置き、国際報道を担当した時には、国際報道のフローや仕組みを知ることになるから、スリランカが報じられない構造も知ったものの、今回の事件が起きて、いざ「なぜスリランカで」との答えを導き出そうとしても、推察するまでの材料がないのは、やはり私たちは与えられた情報のみで生きていることを思い知らされる。
昭和の朝に日本テレビ系の「ズームイン朝」とともに朝支度をしていた人には、ワンポイント英会話のウィッキーさんの故郷である、という情報で止まっている可能性もある。
そのスリランカで起きた今回のテロは内戦の中であったテロとは明らかに違う。仏教徒が多数の国で、政治的な対立が表面的にはなかった少数のカトリック教徒が狙われたという点である。
これまでに小さな襲撃がありながらも大きな組織的な殺戮とはここ数年無縁だった時期の強行に、2020年に五輪を控えた私たちにも当てはめると戦慄を覚えてしまう。
ここで治安強化だけを考えるのは短絡的で、多様性への寛容について私たちは考える必要があるということだ。各国で起こっている小さな襲撃事件も宗教を理由にした対立も、もはや対岸の火事ではない。その対立は日常から始まっているのだ。排除する心持ちから始まっているのだ。そんな小さな対立は日本の中にもある。
来年、多くの国を迎えるにあたり、私たちはそれぞれの国や民族や宗教の「今起こっている現実」への認識を広め、深める必要とともに、受け入れるための対話を重ねなければならないだろう。
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