その中で、日本アニメの多くは、例えば純丘教授が言うように「学園もの」にこだわって、永遠に成熟できない「学園祭体験」を提供したとか、山本監督の指摘するように「『狂気』を招く共犯関係」というレベルまで、表現を洗練したということはあるかもしれません。
さらに言えば、高校生が主役の学園ドラマは、高校生が主要なターゲットであるべきであるのに、事実上は大人のアニメファン向けに制作され、さらにこのお二人が反発しているように、「オタク」の心情に媚びるような表現を使うことで、ある種表現の側も、受容の側も一線を越える「のめり込み」の世界に入っていったというのも事実かもしれません。
ですが、現実を忘れさせるのが芸術であり、またそのように現実を忘れる時間を持つことが人生の豊かさであり、人間性の補完であるのならば、アニメには罪はないのだと思います。山本監督も、純丘教授も追悼と怒りを込めた断腸の想いの中で、指摘しているのはわかりますが、アニメそのものには直接的に殺人や破壊へと人々を誘導するような要素はなかったわけです。
問題は、実社会にあるのだと思います。
実社会がいまだに昭和的な前近代を引きずっているのが問題なのです。
人々に同調を強いて少数者を弾圧する社会、上下関係を機能だけでなく人格的服従を強いるものとして放置している社会、原理原則ではなく動物的な情動で他人を支配することが放置されている社会、突出した才能をみんなで叩き潰す社会、そのような中で、成長の過程で、あるいは社会人として、意味もなく多くの人々が傷ついている、そのような実社会に問題があるのです。
そんな中で、人々は、より総合的な芸術による別世界を追い求めるのは自然な流れではないかと思うのです。そして、アニメがその役割を一定程度果たしたのも、これは日本の文化史の流れにおける宿命だと思います。
その延長で、暴力に走るような病理が生まれたのだとして、その病理の温床が仮にアニメ文化の異様な洗練にあったのだとしても、そうした負のエネルギーを生み出したのはアニメそのものではないと思います。
過剰なまでに人々を傷つけ、過剰なまでに人々に現状逃避を強いた、そんな「昭和を引きずった実社会」の中に負のエネルギーを誘発した原因があるのです。アニメには罪はないと思います。
一つ考えられるのは、アニメにおけるセクシズム表現の問題です。それが、一線を超えていることで病的なエネルギーを作っているのではないか、そんな議論は一回はしておく必要はあると思います。
勿論、その点で問題視されるべき作品は相当にあると思います。ですが、メジャーな表現、それこそ京アニの作品のような場合は、例えば、現代社会の様々な年代の女性たち、あるいは日本だけでなく欧米やアジアの女性たちが見て許容できないようなセクシズム表現はされていないと思います。
その意味でも、やはりアニメには罪はないと思うのです。個別の犯罪については、実行犯が責任を負うべきです。そして、アニメを取り巻く全体状況に病理があって、そこに何らかの問題があるという議論をするのであるのならば、やはり罪はアニメにはなく、過剰なまでに人々を追い詰めた実社会にあるのだと思うのです。
image by: InfantryDavid / Shutterstock.com