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ホンマでっか池田教授が探る「承認欲求おばけ」の心理。生きた証って何だ?

昨日まで無名だった人がある日突然有名になる。インターネット世界の可能性に賭けSNS等の更新に励む人が多くいます。「有名になりたい」との思いは「承認欲求」の最たるもので、ほかの動物にはない人間特有の願望と語るのは、CX系「ホンマでっか!?TV」でもお馴染み、メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』著者の池田教授です。池田先生はさらに、死後も承認され続ける「生きた証を残したい」という願望について考察。作品が残る芸術家も生きている間には評価されていなかったケースもある一方、一般人ほど承認欲求に飢えていないであろう大学教授も、後世に残る論文はなかなか残せないなどその困難さを綴っています。

生きた証

生きた証を残したいと願う人がいる。別に文句があるわけではないが、これは人間だけが持つ特殊な願望だ。動物は腹いっぱい食いたいとか、気に入った異性と交尾したいとかの願望はあっても、生きた証を残したいと願うことは決してないだろう。ヒトは脳が大きくなって自我という厄介なものを抱えるようになった結果、自分の生に意味を求めたくなったのだ。生きた証を残したいなどという不思議な願望もここから生じてきたに違いない。

生物学的に言うとヒトに生きる意味などはない。ヒトは生まれて成長し、繁殖して子供を作り(作らない人もいるが)、やがて老いて死ぬだけだ。他の動物と同じようにここに特段の意味はない。意味を求めようとする心があるだけだ。個々人の心は皆それぞれ異なるので、求める意味も異なり、生きた証を残すことより、今が楽しければ、それが一番という人も多いに違いない。

ヒトは食欲、性欲、生存欲といった他の動物と共通の欲望のほか、有名になりたいとか、立身出世したいとか、お金持ちになりたいとかいった欲望を持つ。これらの欲望は、まとめて一言で言えば、承認欲求ということになる。有名になりたいというのは承認欲求の最たるもので、多くの人に知られているということは、必ずしもリスペクトされているとは限らないにしても、承認欲求は十分に満たされる。

しかし、余りにも有名になりすぎると、どこにいても注目を浴びてプライバシーを守るのが大変になり、煩わしいと感じるようになるに違いない。承認欲求が満たされない人にとってはぜいたくな悩みと言えないこともないが。

立身出世したいというのも承認欲求の表れである。しかし、通常は組織の中で出世しても、組織内の人や身近な人はともかく、一般の人には身分が分からないので、リスペクトされることはない。初めて会う人と名刺交換するのは、自分のポジションを明らかにして、社会的な承認を得たいからであろう。名刺には多くの場合、肩書が書いてあるのはそのためである。ものすごく有名な人で、名前と連絡先だけが印字された名刺を持っていたり、中には名刺を持っていない人もいたりするのは、肩書がなくともすでに十分に承認されているからである。

代議士や知事といった政治家は、やたらと名前が大きく印字された名刺を持っている。選挙に勝つには何よりも名前を覚えてもらう必要があるからだろうけれど、いくら承認欲求が強くても普通の人はそこまでしない。

お金持ちになりたいという欲望は承認欲求と少し異なる、と感じる人がいるかもしれない。人知れず株式投資で大金を儲けて優雅な生活ができれば、他人に承認される必要なんてないと思う人もいるだろう。しかし、大金持ちで、狭苦しい下宿に住んで、最低限の食事をしている人はいない。

優雅な生活とは、立派な邸宅や小ぎれいなマンションに住み、好きなものを食べ、高級車に乗り、自由に旅行に行けるということだろう。要するに、自由に使えるお金が沢山あるということだ。資本主義の社会では、お金をたくさん使う人は社会的に承認されるので、お金があれば承認欲求は満たされる。

有名でなくとも、立派な肩書がなくとも、高級店で毎月高価なものを買っていれば、店の人は下にも置かないもてなしをしてくれるだろう。承認欲求はものすごく満たされるに違いない。それで、見栄を張って、借金をしてまで高級品を買いまくる快感におぼれて、気が付けば借金で首が回らなくなって、自己破産に追い込まれる人もいる。承認欲求は恐ろしいのである。

有名になったり、立派な社会的地位に着いたり、大金持ちになるには、親の七光りの人は別にして、相応の努力がいるが、借金を重ねるのに努力はいらない。中には、肩書を詐称する人がいたり、久しぶりの同窓会に出て行って、年収が500万円しかないのに、2000万円などとウソをついたりする人もいる。後者はご愛敬だけれども、前者は場合によっては犯罪になる。承認欲求は強いけれども、努力をしたくない人は、ややこしいことになりかねない。

今ここに書いた承認欲求は、とりあえず、生きている時だけの話である。しかし、中には死んだ後も、自分の存在を承認され続けられたい、との欲望を持つ人もいる。そこで、生きた証という話になる。しかし、歴史に名を留めるような人でなければ、世間一般に死後も承認され続けることはあり得ないので、せめて自分の身内や親しい人に自分のことを忘れないでほしい、と願うことは理解できる。そのための「よすが」として生きた証を残したい、ということなのだろう。

しかし、死後のことは知る術がないから、自分の死後、自分のことを多少とも覚えていて、リスペクトしてくれる人がいるかどうかはわからない。生きた証として一番一般的で確かなのは墓であろう。日本ではお盆とお彼岸に墓参りをする風習があり、この日だけは自分のことを思い出してもらえるだろうと期待できる。しかしそれも、自分のことを直接見知っている子供や孫あたりまでで、それ以降の世代に承認されようと思っても無理なのは、お墓参りに行った人ならば、みんな知っているはずだ。何も知らない人の事を承認することは不可能だ。

女房の父母の墓がある、自宅近くの高乗寺には、寺山修司と忌野清志郎の墓があり、墓参の人が時々訪れている。中には、両者のことを直接見知っているとは思われない若いグループもあり、これらの人は寺山修司の書き物を読んだり、忌野清志郎のロックを聴いたりして、ファンになった人たちだろう。だから、この両人にとっての生きた証は、生前に残した書物やコンサート(の録画)であろう。

ファンが墓参に来るのは、墓そのものに価値があるわけではなく、この両人をより身近に感じたいからであろう。何であれ、何らかの業績があり、死後もその業績をリスペクトしてくれる人がいる限り、これらの業績は立派な生きた証になる。どんな立派な墓を建てても曾孫の代には忘れられてしまうのなら、小説でも絵画でも工芸品でも、何でもいいから自分の作品を後世に残して、後世の人に承認してもらえれば、墓とは比べ物にならない生きた証になることは間違いない。

実際、生きている時は無名に近かったが、死後、作品が褒めたたえられ、名声が上がった人もいる(まあ、ほとんどの人は生きている時も、死んだ後も、無名のままだけれどもね)。

例えば、ゴッホの絵は、今では数十億~数百億円の値が付くが、生前に売れたのは「赤い葡萄畑」一点のみで、価格は400フラン(現在の価値換算では、約10万~15万円程度か)であったという。今では知らない人はいないほど有名になった宮沢賢治もまた、生前はほぼ無名で、受け取った原稿料は、「愛国婦人」に投稿した童話『雪渡り』で得た5円だけであったと言われる。

しかし、だからと言って、誰もがゴッホや宮沢賢治になれるものでもない。プロの画家や作家でない人は、沢山の絵を描き残しても、小説や詩、エッセイ、学術書などを自費出版しても、残念ながら、本人が亡くなれば、多くの場合、ゴミとして処分されると思って間違いない。子供が父親や母親の形見だと思って大事にしてくれるのは、余程、僥倖に恵まれた方だろう。

学者の中には、定年退官といった節目の時に、弟子たちに業績リストを作ってもらえる人がいる。最終講義や定年退官記念パーティなどに出席して業績リストを貰ったことがある人もいると思う。業績リストは学者として生きた証なのだ。しかし、ノーベル賞の対象になった記念すべき論文や、パラダイムを転換させたような著作以外の業績は、10年も経てば、ほとんど忘れ去られて、後世の人の口の端に上ることはない。特に、実験系のサイエンスの分野では、10年以上前の論文が読まれることは滅多にない。

image by: Shutterstock.com

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