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コロナ治療の希望の灯「アビガン」を生んだ富士フイルムの奇跡と軌跡

日本発の新型コロナの治療薬として大きな期待を背負う「アビガン」。その製造販売を担うのは富士フイルム富山化学ですが、なぜ富士フイルムは、カメラ・フィルム製造とはまったく畑違いの医薬品分野へ進出したのでしょうか。フリー・エディター&ライターでジャーナリストの長浜淳之介さんが今回、同社が最先端の医薬品や化粧品といった精密化学分野へアプローチするに至った軌跡を詳しく紹介しています。

プロフィール:長浜淳之介(ながはま・じゅんのすけ)
兵庫県出身。同志社大学法学部卒業。業界紙記者、ビジネス雑誌編集者を経て、角川春樹事務所編集者より1997年にフリーとなる。ビジネス、IT、飲食、流通、歴史、街歩き、サブカルなど多彩な方面で、執筆、編集を行っている。共著に『図解ICタグビジネスのすべて』(日本能率協会マネジメントセンター)、『バカ売れ法則大全』(SBクリエイティブ、行列研究所名儀)など。

「アビガン」承認も間近か?富士フイルム医薬品分野進出の軌跡

富士フイルムホールディングス傘下、富士フイルム富山化学が製造販売する抗インフルエンザウイルス薬「アビガン」(一般名:ファビピラビル)が、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の治療薬として認可されるかどうか、審議されている。昨年10月16日に厚生労働省に申請を行い、2020年12月21日に継続審議となっている。

世間の関心はワクチンに移っている感があるが、新型コロナを抑える手段が増えるに越したことはない。認可されれば、日本ではエボラ出血熱治療薬「レムデシビル」、ステロイド薬「デキサメタゾン」、血栓を防ぐ「ヘパリン」に続き4番目の治療薬となる。国内で開発された薬としては初の治療薬認可で、新型コロナ再々感染拡大、第3波に対して疲れが見える、国民にも希望の灯となるだろう。

元々写真のフィルムやカメラを製造していた、富士フイルムがどうして「アビガン」のような最先端の医薬品を手掛けるようになったのだろうか。

2000年代に入って、写真関連商品はデジタル化、さらにはスマートホンの登場によって写真市場が大幅に縮小。かつて業界の雄として世界の市場を握ったコダックは、旧来のビジネスモデルに拘泥して一度倒産の憂き目に遭っている。

一方の富士フイルムは、フィルムやカメラで培った技術を応用して、医薬品のみならず、医療機器、化粧品などの分野にも進出。精密化学のメーカーとして、今また脚光を浴びているのだ。

富士フイルムはなぜ、市場の急激な変化に翻弄されず、ビジネスモデルの変更に成功し、事業再構築ができたのか。

国内外で患者の命を救うアビガン

昨年12月18日時点で、欧米の新型コロナ感染者数は、米国1,693万人、英国195万人、イタリア191万人などとなっており、日本の19万人は断然少ない。気温が低くかつ乾燥した冬の気候で、新型コロナ第3波の感染拡大が起こっているものの、国際比較をすれば、日本はよく抑え込んでいる。

感染者数が少ない理由には諸説があるが、先日「ユーキャン 新語・流行語大賞」に選ばれた「3密」(密閉・密集・密着)が重なることで感染が拡大するという認識が、国民に周知されているからとする説、欧米人に比較的多いネアンデルタール人由来の遺伝子が重症化リスクをもたらすなどの説がある。

重症化する人が少ない理由の1つに、医療の現場で、「アビガン」の治験登録を早めに行った、昭和大学病院で実践されているように、「アビガン」にステロイドなどの既存薬を組み合わせて使う治療法が、確立されてきたことがある。

重症化した患者でも、東京大学附属病院の発表によれば、集中治療室に入っていた、30代から70代の人工心肺装置や人工呼吸器を装着していた7人を含む11人に、「アビガン」と急性膵炎などの治療薬で血栓を防ぐ「フサン」を併用したところ、75歳の男性1人は残念ながら死亡したが、10人に症状の改善が見られた。

各国でワクチンの開発が進み、接種も始まっている。ただし、新たにワクチン担当を兼任することになった、河野太郎大臣によれば、日本におけるワクチン接種の日程は未定とのこと。

しかし、ワクチンが普及していなくても、「アビガン」などの他の病気のために開発された既存薬を併用して使えば、かなりの確率で新型コロナを克服できる見通しが立ってきたのである。

このように、「アビガン」は日本で、観察研究の名目で、既に実質上の治療薬として使用されている。

また、海外では中国、ロシア、インドなどで、「アビガン」のジェネリック医薬品が新型コロナ感染症の治療に、広く使われている。日本政府では世界80ヶ国以上から要請を受け、「アビガン」の無償供与を始めている。

また、富士フイルム富山化学では、6月30日、インドのドクター・レディース・ラボラトリー社とアラブ首長国連邦のグローバル・レスポンス・エイド社に、中国とロシアを除く海外で「アビガン」を開発、製造、販売するライセンスを付与した(製造はドクター社のみ)。

富士フイルムの新型コロナの治療に対する社会的、国際的な貢献度は、非常に高い。政府は4月に200万人分の「アビガン」備蓄を決定したが、海外からの提供要請にも応えるため、同社は増産体制を整備。増産に協力した外部の14社と共に、12月21日に経済産業省より感謝状が授与された。感謝状はアルコール消毒液の増産も対象となった。

富士フイルムの富山化学買収で生まれたアビガン

「アビガン」は元々新型インフルエンザ治療薬として、富士フイルム富山化学が富山大学医学部・白木公康教授(当時、現・千里金蘭大学副学長)が共同開発したものだ。

14年に製造販売承認を取得しているが、動物実験により妊娠初期の胎児に催奇性の影響を及ぼすリスクが知られている。従って、妊婦には投与できない。また、男性も精子の量が減少する説がある。そのため、新型または再興型のインフルエンザで、これまでの治療薬に効果がない場合に、製造が開始される特殊な薬品となっている。

アビガンは、インフルエンザ・ウイルスがRNA遺伝子を複製する際に働く酵素の作用を、阻害する。ウイルスのRNAが複製できなくなるので、増殖できず、症状が治まる仕組みである。新型コロナも、インフルエンザと同様にRNA型のウイルスなので、症状を改善する可能性が高いと、アビガンへの期待が高まった。

富士フイルム富山化学は、富士フイルムが2018年に買収し、完全子会社化した製薬会社だ。買収前の富山化学工業は、1936年に設立。技術力に定評があったが、07年3月期には連結売上高約167億円に対して、最終赤字87億円を計上していた。中堅クラスの製薬会社では、膨張する研究開発費の負担が吸収できずに、08年には富士フイルム及び大正製薬と、戦略的資本・業務提携を行っていた。その時点で、富士フイルムは富山化学株の66%、大正製薬は34%を取得。富士フイルムは、ヘルスケア分野を今後の事業の柱と考えていたが、これによってヘルスケアの中核となる製薬に進出した。

08年当時の大手製薬会社トップ3の年商は、武田薬品工業、アステラス製薬、第一三共の順で、概ね1兆円前後の年商を有していた。これらに伍して研究開発力を高めていくには、富山化学は資本力で差が付き過ぎていた。ところが富士フイルムは、これら3社を上回る2兆8,470億円の規模を持っていた。

富山化学は買収を受けるのと引き換えに得た300億円の資金を全額、研究開発に回すと表明。また、富士フイルムの海外インフラを活用し、海外へ販売網を構築できるとした。そして10年後の18年に、富士フイルムは大正製薬から、残りの34%の富山化学株を取得して完全子会社化した。

創業からしばらくは赤字を計上

六本木の東京ミッドタウンにある富士フイルム本社

富士フイルムの起源は、1934年(昭和9年)に大日本セルロイド(現・ダイセル)から、写真フィルム部門を分離して、富士写真フイルムが設立されたことに始まる。

大日本セルロイドは、1908年に創業した堺セルロイドなどセルロイド製造8社が、世界大恐慌を乗り切るために19年に大合併して生まれた会社だった。セルロイドは燃えやすく火災の原因となるので、現在ではほとんど使われなくなった素材だ。

写真感光材料の製造に必要な、良質な水資源ときれいな空気を求めて、大消費地の東京にも近い箱根山麓の神奈川県南足柄村(現在の南足柄市)に、延べ面積1万1,000㎡と広大な足柄工場を建設した。

感光色素の合成や写真乳剤製造は、ドイツ人技師のマウエルホフ博士に指導を受けた。しかも、写真感光材料の日本における開拓者、東洋乾板を吸収合併。当時の有力卸商だった浅沼商会などの販売網を引き継いだ。

ところが当時のフィルム市場は、米国のコダック、ドイツのアグファなど外国製品が市場を握っていた。国産品は品質面で外国製品に大きく見劣りしていた。そればかりか外国勢の大幅な値下げ、映画界による国産フィルムのボイコットが起こり、富士フイルムは創業からしばらくは赤字を計上し続けた。

一方で、34年から早速、朝日新聞社が「ニュース映画」に富士フイルムのポジを採用。タイトルに「純国産富士フイルム使用」の字幕が表示されて、認知度アップに寄与した。ニュース映画とは、戦前から戦後のテレビが普及するまで、映画館で長編映画と併映された短編の記録映画だ。同年、女優・入江たか子が率いる入江ぷろだくしょんの「雁来紅」で長編映画でも初めて採用されたが、フイルムの品質評価は冴えなかった。

それでも、映画用のポジとネガのフイルムの改良をさらに進め、写真用のロールフィルム、X線フィルムなども世に送り出して、37年3月期決算で累積赤字を一掃した。

空前のブームで「一家に一台カメラを所有」時代に

太平洋戦争後、富士フイルムも営業を再開したが、50年に始まった朝鮮戦争の報道写真で、日本製のカメラの品質が評価されて、国内に写真ブームが到来。カメラ雑誌が次々に創刊され、アマチュア写真家も急増。瞬く間に一家に一台、カメラを所有する時代となった。

一方、カラーフイルム国産化は、35年にコダックがコダクロームを発売して以来、日本の産業界の悲願であったが、51年に日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』(木下恵介監督)が松竹から公開され、富士フイルムは製作にあたり技術的なアドバイスを行った。

55年に映画用、58年には一般撮影用の「フジカラー」ポジとネガが完成。50年代後半から60年代にかけて、一気に映画も写真もカラーの時代に入った。

一方、カメラの普及に伴い、消費者サービスとして「富士フイルムフォトサロン」が57年東京、58年大阪に開設され、製品の展示や展覧会の開催を行い始めた。

富士フイルム本社にある「富士フィルムフォトサロン」では写真展示などのイベントが開かれている


「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなり」が大ウケ

48年に「フジカシックスIA」を発売し、念願のカメラにも進出。70年には、35㎜のコンパクトカメラに加えて、一眼レフも発売して、カメラメーカーとして本格的な陣容を整えた。

この頃の富士フイルムは、高度成長の波に乗って売上が激増していった。

50年代後半より北米を中心に輸出も開始。年商は60年度に181億円だったのが、70年度には1,000億円、80年度には4,000億円に達し、国民的フィルムメーカーとしての地位を固めた。

さらには、62年には英国のランク・ゼロックス社との合弁で、富士ゼロックスを設立し、複写機事業に進出した。富士ゼロックスは80年代に年商2,000億円を超えるほど成功。コピーを取ることを意味する、「ゼロックスする」という言葉が広く普及した。

70年代には、年末年始の「お正月を写そう」キャンペーンが定番化。80年の樹木希林と岸本加世子が出演した「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに写ります」のCMコピーは、大反響を呼んだ。

大衆カメラ文化を成熟を導いた「写ルンです」

富士フイルムが世に送り出した大ヒット商品として、86年に発売したレンズ付きカメラ、いわゆる使い捨てカメラ「写ルンです」を語らずにはいられない。

この商品は、コダックが推進してきた「あなたはボタンを押してください。私たちが残りをやります」戦略のある意味で到達点となった。「写ルンです」は、コンビニ、スーパー、駅の売店、家電専門店、DPEショップ、観光地の土産物店など、街のあらゆる場所で安価で売られ、誰もがいつでもどこでも写真が撮れる、大衆カメラ文化の成熟を導いた。

フラッシュ付き、パノラマ、望遠、防水、セピアなど多彩な付加機能が次々に追加され、最盛期の2001年には世界で1億本以上を販売した。CMもユニークで、デーモン小暮閣下出演の課長シリーズはインパクトが大きかった。

今まで富士フイルムが創業以来背中を追いかけてきた、コダックやアグファが「写ルンです」をベンチマークした商品を出す時代になった。

富士フイルム、過去から現在までのフィルム商品

デジカメ参入に出遅れるも独自のカメラ戦略が奏功

ところが、「Windows95」が世界的にヒットした95年頃より、カシオ計算機、リコーなどの既存のカメラメーカーでなかった企業が、レンズ一体型コンパクトデジタルカメラ(いわゆるコンデジ)で台頭。70年代より製品化が進んでいたデジタルカメラが一気に普及した。

そして、2002年にはデジカメがフィルムカメラを出荷台数で抜き、デジタルの時代に入った。

デジカメの参入に、富士フイルムは乗り遅れた。デジカメのピーク時、2010年にはキャノン、ソニー、ニコン、サムスン電子、パナソニックの5社で世界市場の7割を占めていた。

それでも、富士フイルムはコンデジの「ファインピックス」、レンズ交換式ミラーレス一眼「Xシステム」シリーズなどを開発し、品質の高さで、今日まで存在感を示している。

富士フイルムの戦後から2000年までのヒット商品。二眼レフ「フジカフレックス」や「ファインピックス」も

2010年代のスマートホンの普及により、さらなるゲームチェンジが進行。デジカメはスマホで代用されて、ピーク時の2割程度にまで急落してしまった。

一方で、富士フイルムは独自のカメラ戦略を取り、99年に発売したインスタントカメラ「チェキ(インタックス)がプリクラブームとの相乗効果で好調。銀塩システムを採用した、ユニークな商品となっている。スマホの画像をブルートゥースで転送して、プリントできるプリンター機能も備えている。

富士フイルム本社の「FUJIFILM SQUARE」。インスタックス(チェキ)は今や富士フイルムの主力商品

「チェキ」は、iPhoneとSNSと共に売上が伸びており、13年の200万台が、5年後の18年には1,000万台を超えた。海外での販売が9割を占めるのも、「チェキ」の特徴だ。

08年には富士フイルムは前出のように、富山化学に出資して医薬品に進出すると共に、化粧品にも「アスタリフト」ブランドで進出して、精密化学を次世代の柱とする方向に舵を切った。

美白美容液「アスタリフト ホワイト エッセンス インフィルト」CMカット

「アスタリフト」は主に通販で展開。写真で培われた技術が随所に活かされており、たとえば、フィルムの主成分であるコラーゲンに関する知見や、写真の色褪せの原因である紫外線対策が、美肌づくりに応用されている。

市場の大転換を乗り切った富士フイルム

富士フイルムは、本業として磨いてきたフィルムとカメラの市場が、デジタル時代に入って壊滅的に縮小し、2000年代には5,000人規模の大リストラを断行するほどの痛手を被った。

しかし、この分野でも、SNSとの相乗効果が高い「チェキ」を開発して見事、生き残った。

そして、X線写真でかねてから接点があった医療分野に着目。今また、「アビガン」で脚光を浴びているのだ。独特な化粧品へのアプローチも、注目される。

コダックが、写真にこだわって2012年に経営破綻してしまったのとは対照的だ。なお、再興したコダックも、昨年医薬品分野への進出を行っており、構造改革で富士フイルムをベンチマークしていくと思われる。

市場の大転換を乗り切り、不死鳥のように先端的な化学分野で活躍する、富士フイルムに学ぶものは多い。

image by: PETCHPIRUN / Shutterstock.com , 長浜淳之介

長浜淳之介

プロフィール:長浜淳之介(ながはま・じゅんのすけ)

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兵庫県出身。同志社大学法学部卒業。業界紙記者、ビジネス雑誌編集者を経て、角川春樹事務所編集者より1997年にフリーとなる。ビジネス、IT、飲食、流通、歴史、街歩き、サブカルなど多彩な方面で、執筆、編集を行っている。共著に『図解ICタグビジネスのすべて』(日本能率協会マネジメントセンター)など。

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