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故 田村正和の長兄・高廣が語った、父・阪東妻三郎との秘話

眠狂四郎、鏡竜太郎、古畑任三郎など多くの印象的なキャラクターを演じた俳優の田村正和さんが、今年4月3日に亡くなっていたことがわかり、驚きと悲しみと寂しさがコロナ禍に沈む日本を覆いました。田村正和さんは映画スター・阪東妻三郎の三男。私生活を明かさない俳優としての生き方は、母から伝え聞いた父の姿の影響ではないかとも言われています。今回のメルマガ『秘蔵! 昭和のスター・有名人が語る「私からお父さんお母さんへの手紙」』では、著者でライターの根岸康雄さんが、俳優の田村高廣さん(正和さんの長兄で故人)が父・阪東妻三郎と母について語ったインタビューを紹介。田村家の中で父の存在の大きさがどれほどであったかを伝えています。

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俳優・田村高廣~父・田村傳吉 母・静子へ「大黒柱の親父は家長だ。うちは家長を大事にした家だった」

田村 高廣(たむら たかひろ、1928年8月31日~ 2006年5月16日)。戦前、阪妻の愛称で親しまれ、一世を風靡した阪東妻三郎の長男。先日他界した俳優の田村正和、そして田村亮の兄、田村兄弟の長男。京都市出身。同志社大経済学部卒。大学卒業後、東京都内の商社でサラリーマン生活を送るが、1953年7月7日に父阪妻が急逝。木下惠介監督などから後を継ぐよう強くすすめられ、父が在籍した松竹に入社、映画『女の園』でデビュー。木下演出の下、『二十四の瞳』、『喜びも悲しみも幾歳月』、『笛吹川』に出演。1964年、1965年の大河ドラマ『太閤記』に出演。同年からの『兵隊やくざ』シリーズにて有田上等兵役を好演。勝新太郎とのコンビが人気を呼び、代表作の1つとなった。同年には『魔像・十七の首』でテレビ時代劇初主演、このドラマで田村三兄弟がテレビ初共演。

インタビュー中、ほとんど笑顔がなかったことを思い出す。お会いする2年ほど前に彼の奥様にインタビューする機会があった。彼は芸能界に入りたくなかったこと、一流大学卒で長身の息子さんは田村の意志を継ぐかのように、大手電機メーカーに勤務していること。堅物の彼だが大病を患った奥さんにやさしく接している逸話を聞いていたので、実は気さくな人物だとわかっていた。(根岸康雄)

親父、坂東妻三郎は草創期の日本映画に命を賭け仕事をした

親父は阪妻こと、阪東妻三郎。“剣戟王バンツマ”といわれた俳優だった。家族として接することが少なかった親父だった。親父は家にいても、あまり家族に姿を見せなかったのだが、親父が外から戻り家の敷居をまたぐと、お手伝いさんやお弟子さんたちの顔つきや、オフクロの立ち居振る舞いまで、ガラッと変わった。

親父が家にいるといないとでは家の雰囲気がまったく違ったのだ。親父がいると、なんていうか家の中の気圧みたいなものが違って感じられたものだ。

親父といえば、姿より声が印象に残っている。いつも何やら大声を張り上げていた。それは映画の台詞の時もあれば、ときには「キュッケェー!」「ヤスメー!」号令みたいなことを怒鳴っている時もあった。つまり、当時は弁士まかせの無声映画から、俳優が言葉をしゃべる発声映画に変わる時代で。スクリーンの中の板妻は、強くて逞しかったけど、親父の地声は実はとても優しかったから。声を張り上げ、ヤワな地声を潰していたんだ。

日本橋は馬喰町の木綿問屋を営む家に生まれた親父、子供時代に家業が傾き親父は丁稚奉公に出され、苦労したようだ。役者を志した親父は15歳で11代片岡仁左衛門の門を叩き、やがて当時、産声を上げて間がない活動写真の世界に飛び込んだ。板妻といえばチャンバラ映画の特に激しい立回りで大衆を魅了した。

24歳の時には、独立プロダクションの先駆けとなる「阪東妻三郎プロ」を設立。一所懸命、その言葉が物語るように、親父は草創期の映画界という一所で、命を掛け懸命に仕事をしていた。昭和の初めの時代、京都の祇園で、親父が芸者を総揚げして遊んだとかいう噂を耳にしたことがある。でも僕は針小棒大な話か、まったくの作り話と思っている。仮に、それと似たようなことがあったとしても、あの真面目で映画の制作に一本気だった親父は、遊びを楽しんでいたわけではないだろう。

今のようにマスコミが発展していない当時、世間の評判になるには祇園のような花柳界で派手なことをやって、ニュースソースを作るのが一番早いわけで。「独立した板妻のとこは、景気がいいらしいよ」そんな噂が流れれば、いいスタッフも役者も集まってくる。祇園での遊びも世間の評判を狙った親父の芝居だったと思っている。

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庭の片隅で台本を燃やす親父の姿

なぜ僕がそんな確信を持つかといえば、我が家はみんな想像するスターの家とは真逆で、家長の親父を先頭に本当に慎ましい生活をしていたから。普段、家の中で親父と触れ合うことはほとんどなかったのだけど、毎年夏休みには家族そろって京都府の日本海側の天橋立の方に海水浴に行った。振り返ると、それが親父と接する唯一の機会だった。

普段は僕らと話もせずに、家の奥の部屋にいる親父だが、海水浴では僕らよりもはしゃいでいたんじゃないか。あのときの親父の大きな背中、そして笑顔は今もフィルムに残っている。それは家にあった16ミリのキャメラで僕が撮影したものだ。子供ながらに家族の中でいちばん楽しんでいる親父の姿が不思議だった。多分、いつも映画のことで頭がいっぱいだった。そんな親父の遊びは限られていて、家族との海水浴は数少ない遊びの一つで、親父は家族との海水浴という遊びにも、一所懸命だったのだろう。

親父の情景でふと脳裏に浮かぶのは、庭の片隅でたき火をする姿だ。いったい何を燃やしているんだろう。子供心に不思議だった。「撮影が終わると、お父さんはああしていつも、台本を燃やしているんです」そう教えてくれたのは、オフクロだ。うちには親父が使った台本は、見事に一冊も残っていなかった。

親父は自分が演じる人物との出会いを大切にしていたのだ。ひたすらその人物を演じきることに集中していたに違いない。庭で台本を燃やす、それは撮影が終わっても、後ろ髪惹かれるその人物への思いを断ち切るため、役者としての一つの儀式だったに違いない。役柄との決別の潔さ、それは親父の役者としての親父の一つの美意識だったのだろう。

親父が出ている映画に僕は思わず大声を…

親父も自分が出た映画へのお客さんの反応を見たかったのだろう。だが、大スターバンツマが自ら映画館に足を運ぶわけにはいかない。そこで僕がオフクロのお供をして、京都の京極の映画館によく足を運んだ。そんなある時のことだ。映画館のスクリーンの中でチャンバラの立回りをしている親父が、後ろから悪いヤツに斬られそうになった。「お父さん危ない!後ろ見て!」僕は映画館の中で、つい大声で叫んだ。「あのときは私、恥ずかしかったよ」オフクロに、そう言われたことを覚えている。

僕は映画よりも、帰りに大丸デパートの食堂で食べる、ハンバーグ付きのお子様ランチが楽しみだった。家の中は質素だったし、親父もこれと言って派手なところもなかったし。大スター板妻といっても、それを意識することはほとんどなく、親父の仕事に関して僕は小さい頃からほとんど興味がなかった。阪妻の息子だと特別意識することなかったのは、活動写真の仕事に従事する人たちばかりが暮らす京都の太秦で育ったこともあった。

僕の中に“阪妻”はいない。家長として家族みんなが一目置いている親父という存在がいるだけだった。オフクロも“大スター阪妻の妻でございます”というところなど、微塵もない人だった。家長としての親父に尽くして。阪東妻三郎の妻の役割は心身共に大変だったに違いない。

寡黙なオフクロだった。目立つことをとにかく嫌った。オフクロの愛情を表わすのに、特筆すべきエピソードは僕の中にない。三度三度のご飯の支度や僕や弟が熱を出した時の看病とか、そういう日常の些細なことすべてにオフクロの愛情がにじみでていた気がする。オフクロは母親として、ごく当たり前のことを毎日変わらず、コンスタントに黙々と続けてきた、僕にはそのことがすごいと思える。多分、親父たちの時代はオフクロのような女性が、大多数を占めていたのだろう。

親父は51歳で急逝したが、オフクロは92歳まで生きた。親父が亡くなった後も、お弟子さんやみなさんに気を遣って。晩年も控えめな性格は変わらず、僕は年を取ったオフクロが純真無垢な童女のように見えた。

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ボクが貿易会社に就職すると、親父がある日……

僕には一生の謎がひとつある。あれは大学を卒業し、東京の貿易商社に勤めはじめてしばらくたった頃だった。久しぶりに京都の実家に戻り、何気無く家の庭に出ると、親父とばったり会ってしまって。ほとんど会話のなかった親子だったから、何やら気恥ずかしくて。親父も多分、そんな気持ちだったと思う。

「兄ちゃん」親父が僕に話しかけてきた。親父は長男の僕をそう呼んでいた。「兄ちゃん、今の仕事、面白いかい?」僕は芸能界に入ることを考えたこともなかったし、ふつうの会社に就職して毎日の仕事が面白かったから、「はい、楽しいですよ」と、答えました。

すると、親父は次の言葉を発するのに、ちょっと間をあけた。昔の男は表情を変えるようなことはあまりしない。親父もそうだった。だからあの時、何を考えているのか、親父の顔から察することはできなかったが、親父が次に発した言葉は今もはっきりと覚えている。「おう、そうかい、それはよかったな」

親父は多分、板妻としての名声を長男の僕に継いでほしかったに違いない。長男が家督を継ぐ、昔の男はそう考えたものだが、親父は同時に子供に対して何かを強制することはしてはいけないと、自分にタガをかけたのだろう。

家長には絶対に服従という家に僕は育った。それは日本人の美徳と称せられる面もあった。仮に、「高廣、長男のおまえが阪妻を継げ」と言われたら、嫌も応も関係ない。僕は自分の意志や自分の人生の目的とは関係なく、親父の後を継いでいたかもしれない。親父にはそれがわかっていた。だから、子供に何かを強制するようなことはしなかったのだ。

親父が51歳で急逝したのは、庭で話をしてからしばらくたった頃だった。お金を貯める役者さんもいるが、板妻はそういう役者ではなかった。稼いだお金はすべて映画につぎ込んでいた。映画界にはまったく興味がなかった僕だが、勤めている商社を辞めて松竹に入るなら、親父の松竹への借金は、帳消しにしてもいいという、大変結構なお話ももらった。

小さかった弟たちを養うのは長男の義務だ。1万円にも満たない当時の貿易商社の給料では、とても家計のやりくりはできなかった。「実はお父さんは、“映画俳優になれとは言わないが、長男の高廣がプロデューサーのような立場でも、映画の世界で仕事をしてくれないかな”と、言っていたんですよ」それは長年、親父のそばについていた番頭さんのような人から聞いた話だ。

──ああ、お父さんはそう思っていたのか。家の庭で話をしたあの時、仮に僕が、「いや、安い給料で働かされて貿易商社なんかに入って、えらいことしたなと思ってます」と、応えたら親父の反応はどうだっただろう。「そうか、どうだい高廣、実はな──」と、映画界に入る話を持ち出したかもしれない。でも、僕が社会人になって会社の仕事を喜んでやっている姿を目にして、──ああ、そうか、それなら高廣の好きにさせよう。親父はそう思ったに違いない。

あの時の親父のちょっとの間──、あれは子供の好きにさせようという決断の時間だったのではないか。番頭さんのような人の親父の逸話も、急逝した親父の遺志のようなものが見え隠れして、芸能界に飛び込む僕の背中を押した。

今、東京の我が家には親父の写真が二枚飾ってある。一枚は素顔でこちらを見て微笑む父、田村伝吉の写真。もう一枚は国定忠治に扮している阪東妻三郎の写真だ。両方とも、僕の親父である。写真の中の阪妻は横を向いている。それはあたかも、こう言っているように思えるのだ。「そうか、役者になったのか、でもね、おまえさん、国定忠治をやるには、まだまだだよ」と。(ビッグコミックオリジナル2000年5月5日号掲載)

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image by: Shutterstock.com

根岸康雄 この著者の記事一覧

横浜市生まれ、人物専門のライターとして、これまで4000人以上の人物をインタビューし記事を執筆。芸能、スポーツ、政治家、文化人、市井の人ジャンルを問わない。これまでの主な著書は「子から親への手紙」「日本工場力」「万国家計簿博覧会」「ザ・にっぽん人」「生存者」「頭を下げかった男たち」「死ぬ準備」「おとむらい」「子から親への手紙」などがある。

 

このシリーズは約250名の有名人を網羅しています。既に亡くなられた方も多数おります。取材対象の方が語る自分の親のことはご本人のお人柄はもちろん、古き良き、そして忘れ去られつつある日本人の親子の関係を余すところなく語っています。

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