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コカ・コーラの誤算。五輪会場持ち込み飲料を限定させたオワコンの自爆マーケティング

次から次へと問題が噴出する東京五輪ですが、学校連携観戦が予定されている茨城県鹿島市では、子供たちが会場に持ち込むペットボトルに関して、できるだけ大会スポンサーであるコカ・コーラ社の製品とするよう求めていたことが発覚し、大きな物議を醸しています。かような理解に苦しむ「マーケティング」を、識者はどう見るのでしょうか。今回のメルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』では著者で米国在住作家の冷泉彰彦さんが、コカ・コーラ社が契約履行を現場に求めているのであれば、自爆行為としか言いようがないと批判。さらに何がこのような状況を招いたのかを、独自の目線で考察しています。

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東京五輪コカ・コーラ強制問題。排他的マーケティングはオワコン

東京五輪のサッカーの試合を学校ぐるみで観戦する際に、茨城県のある学校が「飲料はできるだけコカ・コーラ製で」などと保護者側に伝えていたことが分かったそうです。

まあ、コカ・コーラとしては、巨額のスポンサー料を払っているので、そうした権限があるということなのでしょうが、2つ大きな疑問があります。

1つは、そのような「ネガティブで排他的なマーケティング」を行うというのでは、ブランド価値を毀損してしまうというのが、現代における常識だと思います。もっと言えば反社会的ですらあります。

ですから、仮にこうした行為について、コカ・コーラ社が契約履行を現場に求めているのであれば、これは大きな勘違いであり、自爆行動としか言いようがありません。五輪委というのは、ビジネスなど理解しない人々なので、脇へ置いておくとして、それを分かった上で、仕切っているのだとしたら、広告代理店というのは何をやっているのかということです。

2つ目は、日本における権利の関係です。日本市場における、コーラの場合は、アトランタの本社が原液を厳格に管理しています。日本法人については、ボトリング、とかボトラーズと言った名前で、輸入した原液を薄めて詰めて売るだけのビジネスというスキームが本来でした。勿論、お茶や缶コーヒーなど日本独自のプロダクトもあるわけですが、商標権などはアトランタ本社が厳しく握っているはずです。

ということは、五輪のワールドワイドという規模でのスポンサーシップを、アトランタが買って、それを東京に適用している場合に、1のようなオワコンの排他的マーケティングをアトランタが日本に押し付けている可能性があります。つまり、アトランタのご本社の意向で、日本での顧客離れを起こしかねない自爆営業をやっているという構図です。各日本法人が納得していればいい(と言っても、馬鹿なのには変わりはありませんが)ですが、そうでなければ治外法権であり、日本における公正取引を阻害していると思うのですが、どうでしょうか?個人的には、違法性すら感じるのですが。

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東京五輪を直前に控えて、安全と安心の違いを考える

安心と安全という2つの言葉を並べて語るようになったのは、2011年の東日本大震災が大きな契機になったように思います。それまでは、安全ということを言えばそれで良く、安全な措置がされればそれで安心できるという語感があったように思います。

例えば、台風や集中豪雨の際に避難したり、あるいは災害を抑止するために治水工事をするのは安全のためでしたし、原子力発電所や大規模な工場なども安全であれば、それで安心ができるという考え方です。

それが安全だけでは足りない、つまり安全だけでは安心できないということになり、その辺から「安全安心」という四字熟語が生まれたように思われます。例えば、大津波は直下型では発生しないので、必ず沖合の大震度が契機となる、ならば大津波情報を遅滞なく告知して、そこで一斉に高台や頑丈な建物の4階以上に逃げればいいという考え方があります。

そうした安全思想からは、巨大な防潮堤などという発想は生まれるはずはありません。また、巨大な防潮堤を作ってしまえば、二度と美しい海岸を観光資源にすることはできなくなります。そうなのですが、巨大な惨事を経験し、親しいものの死を経験した人間の中には、それでは安心できない、どうしても海を塞いで欲しい、最悪の大津波から人間を守ってくれる防潮堤がないと安心できないという発想は出てきます。

そうした場合に、より徹底した措置が講じられなくては安心できないという人は、どちらかと言えば「弱さ」を抱えた人だという理解ができます。そうなると、やはり「弱さ」を抱えた人の寄り添うのが善であるし、反対に「弱さ」を抱えた人々を敵に回すのは得策ではないというのが社会の自然な反応になるわけです。

そうした心理が社会性を獲得することで、必ずしも科学的な安全を保障はしないが、心理的な安心を提供するモノやコトに多くの労力とコストをかけるようになったわけです。

例えば東日本大震災時に津波で全電源喪失による冷温停止失敗事故を起こした福島第一原発では、実際は線量限度を超えて被曝したことで死亡した人はゼロでした。その一方で、被災地区からきた高齢者は「放射能を浴びていて危険」といった科学的でない感情論に振り回されて亡くなった方は大勢出ました。

もっと言えば、当時は東日本で子どもを育てるのは「安心できない」として西日本に移住する人もたくさん出たのです。

では、純粋に科学的な判断をして安全を確保するのがよく、またそれ以外のことは必要はないのであって、不安心理に振り回されて「安心」のために労力とコストを使うというのは、間違いなのでしょうか?冷静に現実を直視して「安全」だけに徹すればいいのでしょうか?

これは難しい問題です。

結論から申し上げるのであれば、答えは「ノー」だと思います。人間は、自分の経験などから理解し、自分でコントロールできる危険とは共存できますが、そうした範囲を超える「理解不能なもの」「自分から遠い、違和感や異物感を感じるもの」に対しては、「危険回避の本能」を発動してしまうようにできています。

この「危険回避の本能」が不安感情であり、これに対して、その不安感情を除去することが「安心」の確保ということになります。不安感情というのは、確かに目に見えないモノですし、単純な安全確保と比較すると複雑であり、時には非合理であったりします。

ですが、この「危険を感じ、危険を回避したい」というのは、間違いなく生物としての人間の身体が実際に起こす反応ですし、その総体としては間違いなく社会現象として力を持つ性格のものです。ですから、言下にこれを否定することはできません。

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勿論、悪用は禁物です。人間の不安心理につけ込んで、金をむしり取る霊感商法であるとか、怪しい新宗教なども問題ですし、何よりも不安心理を大規模に扇動することで、社会不安を煽るファシズム運動、その変形であるスターリニズムなどは人類の敵と言っていいでしょう。

そうではあるのですが、人々の100%が大津波警報をスマホで受ければ、確実に避難できるわけでもないし、また人々の100%が原子炉の冷温停止に関して、どの程度の危険なのかを理解したり、使用済み核燃料の地層処分について十分に判断できるだけの原子核物理学の知識があるわけではありません。

では、そうしたリスク管理のリテラシーのない人は、リスク管理に関わる判断に参加する権利を停止することができるのかというと、これは難しいわけです。本当は、火というのは温度を下げ、燃料を除去し、酸素を除去することで燃焼をコントロールできるということを「知らない」人に焚き火をさせてはいけないわけですから、これと同じように、最低限のリテラシーを求めてもいいはずですが、社会の設計がそうなっていません。

つまり、時の為政者は社会における安心の確保ということを、正しく行なっていかないと、結局は有権者の不安感情が暴走することで、権力を委任してもらえなくなってしまうわけです。その限りにおいて、いかに非科学的であっても、この「安心」ということの確保を続けるということは、政治家にとっては宿命と言えます。

問題は、それが簡単ではないことです。

1つは、「安全」の確保と比べると、「安心」の確保は幅が広いということです。科学的には安全でも、心理的には安心ではないという部分にも対策を打っていくということは、はるかにコストと労力がかかる作業だということです。

2つ目は、社会全体にストレスが溜まってくると、「安心」をめぐるトラブルが深刻化するという問題があります。行政としては、まずは安全を確保すれば良く、安心というのは、その上の「プラスアルファ」とは言っていられなくなりました。マスクを巡るトラブルなどは、本当に深刻であるわけで、そのリスクを回避するためには、科学的には不要でも着用しなくてはならない、そのぐらい大きな問題になっているわけです。

3つ目は、ここから更に厄介な話になるわけですが、安全というのは科学的な推論であったり事実ですから、そう複雑ではないのですが、安心というのは心理的、主観的な問題ですから、極めて複雑だということです。要するに矛盾する複数の観点があるのです。

例えば、改めてマスクの問題について考えてみると、日本の場合ですと、効果があり必要であるケースに加えて、必要でないケースでも「お互いの安心」のために着用するというストーリーです。これはこれで面倒な話ですが、アメリカに比べればましです。

アメリカの場合ですと、コロナの知識がある人間は、例えば食料品のスーパーなどで、マスクをしない人が多い店というのは「知識や意識の低い人が多いので、危険」という理解をして、できれば避けるような行動をします。その一方で、その「知識や意識の低い」、具体的にはトランプ支持者のようなグループは、「アジア人の顔をしてマスクをしている人間」を見ると「ウィルスの塊のよう」に思ってしまうわけです。

まず彼らは、そもそも予防目的でのマスク着用というのは、政府に強制された怨念が積もっていますし、医学の理解などないので「無意味」と思っています。その反対に、マスクをしているのは「病人」であり、これに加えてアジア系の顔をしていると「中国ウィルスを撒き散らしている人間」だと直感して、危機回避本能が爆発してしまうのです。現在は、やや下火になりましたが、アジア系に対して衝動的に殴る蹴るといった暴力が横行したのはこのためです。

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一般化しますと、安全というのは合理的に絞れる一方で、安心というのは人にとって千差万別であり、場合によっては異なった安心意識が衝突することも多々あるということです。

その極端な例が、今回の東京五輪の「バブル」構想です。

この「バブル」構想がメチャクチャなのは、とにかく、バブルの中と外で全く違う「安心」のストーリーを描いているということです。

まず、バブルの外側では、五輪関係者は「海外からウィルスを運んでくるので怖い」という、まるで尊王攘夷運動のような排外心理が暴走しています。その一方で、バブルの中、つまり海外から来た五輪関係者、選手団や役員などは、「ワクチン接種率が極めて低い一方で、デルタ変異株が流行している」東京は危険だという認識があるわけです。

つまり「壁」の両側で、全く別のことを考えているわけで、こうしたことを続けて行けば、相互不信が増幅するだけとなります。そんな状態でも、壁が機能すれば五輪を中止しなくて済むと考えている、現在の政府にはそうした姿勢が透けて見えるわけで、何とも情けない限りです。

問題は、バブルの中と外の意識が矛盾しているだけではありません。まだまだあります。例えば、ワクチンに関する姿勢がハッキリしていません。フランスなどを筆頭に、ワクチン接種を条件に入国管理を緩和する動きがありますが、今回の五輪ではこれは考慮されていません。

例えば、濃厚接触者でも6時間以内にPCR陰性なら競技参加可能という話が出ていて、問題になっていますが、これは「ワクチン接種者の場合は、濃厚接触者の追跡は不要」というワクチン先進国の考えに引きずられています。ですが、「ワクチン接種の場合」というのが抜けていては、話がザルになるだけです。

先程の、バブルの中と外の矛盾の背景にもワクチン問題というのがあって、中の人たちは接種率が高いので、自分がウィルスを撒き散らすリスクも、もらうリスクも低いと思っています。ですが、バブルの外の東京の一般社会では、高齢者を除くと接種率が低いので、ワクチンを打っているのである程度安心という感覚が出ていません。その辺りの、意識のズレも今後は問題になってくると思います。

いずれにしても、東日本大震災が「安全と安心は別」というパンドラの箱を開けてしまったのです。そして、日本だけでなく、EU脱退を選択した英国や、トランプに翻弄されたアメリカでも、感情論の暴走というのは誰にも止められません。そんな中で、政治家には「安全を確保しつつ、安心も提供する」というほぼ不可能なタスクが課せられるという状況になっています。

世論が「おかしい」などと、愚痴をいうのは勝手ですが、とにかく政治家にはその両方を実現する実務能力が期待されています。そして、日本の現政権には、それが足りていないようです。

この状況を批判するのは簡単ですが、例えば野党には「安全を確保しつつ、安心も提供する」だけの統治スキルがあるのか、例えば大規模イベントを仕切る業者さんにあるのか、ないとして、一人一人がバラバラに自己防衛に走るような社会がいいのか、様々なことを考えさせられるのも事実です。

ただ、安心と安全がズレるのは仕方がないとしても、それをできるだけ重ねていくのが為政者として求められると思います。また複数の安心が矛盾したり衝突する場合は、丁寧に客観的な安全という見地に戻ることが大切です。

何よりも、安全というのは結果です。いくら安心を提供しても、それは刹那のことであって、結果的に安全が確保されていなければ為政者は政治を継続することはできません。(メルマガ『冷泉彰彦のプリンストン通信』より一部抜粋)

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image by: Ned Snowman / Shutterstock.com

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東京都生まれ。東京大学文学部卒業、コロンビア大学大学院卒。1993年より米国在住。メールマガジンJMM(村上龍編集長)に「FROM911、USAレポート」を寄稿。米国と日本を行き来する冷泉さんだからこその鋭い記事が人気のメルマガは第1~第4火曜日配信。

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