MAG2 NEWS MENU

ホンマでっか池田教授が嘆く「平等原理主義」の病。被災地で毛布が配れぬ実害も

「時にはあえて平等を選択するのが必要なケースはもちろんある。 ただし、しつこく上っ面の『平等』だけを追い求める『平等バカ』の先にあるのは、実は『不公平』であり、時としてそれはより深刻な格差にもつながるのである」。これは、CX系「ホンマでっか!?TV」でもおなじみの池田清彦教授による著書『平等バカ』の冒頭の一節です。教授は、今回のメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』でもこの「平等」こそが一番に守られなければならないとの考えの非合理性を説き、その考えに囚われると、不幸な人たちを救えなくなってしまう場合もあると警鐘を鳴らしています。

何でも平等を求める「平等原理主義」の弊害

つい最近『平等バカ』という本を上梓した。「平等」は民主主義の公準の一つだが、運用するのはなかなか難しい。例えば現行のオリンピックは、男女別に分かれている。男女が平等ならば、男女の区別なしに行えばよさそうなものだが、そうなると、金銀銅のメダルはほぼ男子が獲得して、女子の大半は予選落ちという事になるに違いない。ほとんどの人はこれを不公平と思うだろう。スポーツに関しては男女の平均的な能力差は歴然としているので、同じ土俵で戦うのはいかがなものかという意見を支持する人は多いと思う。

人間がすべて男と女で構成され、それ以外の人がいなければ、男と女を分ける基準さえはっきりしていれば、男女別にオリンピックをやるというのはそれほど不合理ではないだろう。ところが、世の中にはLGBTQと呼ばれる性的マイノリティの人々が存在する。このうちL(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシャル)の人は性的指向に関してはともかく、性自認に関しては体の性と心の性が一致するので、男女のどちらのカテゴリーに入るかについては問題はない。Q(クイア)は性自認がはっきりしていない人なので、とりあえず措くとして、問題はT(トランスジェンダー)の人である。

すなわち、生まれつきの体は女なのに性自認は男の人(FTM)と、生まれつきの体は男なのに性自認は女の人(MTF)である。FTMの人はオリンピックに出られるくらいの記録を持っているとして、女として参加する方が男として参加するより有利なので、女子として参加するだろうし、このことに目くじらを立てる人はまずいないだろう(いるかもしれないけれどね)。問題はMTFの人である。本人が自身の性自認は女なので女子オリンピックに参加したいと主張しても、他の人から見れば見てくれは男なので、ずるいと思う人も多いだろう。

近年はLGBTQの性自認や性的指向を認めるべきだという風潮が強くなってきたので(それ自体はとても好ましいことだ)、IOC(国際オリンピック委員会)も配慮せざるを得なくなってきた。権利や義務が平等であるためには、権利や義務を担う主体(個人)が同格の存在である必要がある。同格の集団を決めるためには何らかの同一性が必要である。オリンピック選手の性別チェックは、かつては身体検査次いで性染色体検査、現在はテストステロン値を測って、値が限度以上の人の女子競技への出場を制限している。

今回のオリンピックに参加したニュージーランドの女子重量挙げのローレル・ハバード選手はMTFであるが、「大会の一年前からテストステロン値を基準以下に保つ」というIOCの決定に合格したので、女子選手としての参加が認められた。男子と女子のどちらのオリンピックに参加できるかの基準をテストステロン値にすると、今度は生まれつきテストステロン値が高い女性が、テストステロン値を下げない限りオリンピックに参加できないという事が起こる。先天的にテストステロン値が高い、南アフリカのキャスター・セメンヤ選手は、陸上の女子800メートルでオリンピック2連覇中であったが、テストステロン値を下げる薬を服用せずに、東京オリンピックへの出場を禁じられた。

一方で、IOCはドーピングを禁じているが、テストステロン値を下げる薬を飲むことはドーピングにはならない、というのはご都合主義の感は否めない。いっそのこと、オリンピックは男女別をやめてノンバイナリー(性別無視)でやればいいとも思うが、するとメダルを全く取れなくなった女子選手から文句が出そうだね。

いずれにせよ、権利や義務の平等は、同格の個人の集団内でしか成り立たない概念なので、同格であることを決めるメルクマールが決定的に重要になってくる。交通事故でイヌやネコを轢き殺しても刑事上の罪はなく、せいぜい器物損壊罪で、損害賠償を支払うだけで済む。たとえ、飼い主が自分の命の次に大切だと思っていても、イヌやネコは人間と同格な存在ではないので、これは止むを得ない。もちろん、動物にも生存権はあると主張する人もいるが、そう主張する人でも細菌の生存権を擁護する人はいないようなので、動物と細菌は同格の存在とは思っていないのであろう。

同格の個人の集合で一番わかりやすいのは任意団体であろう。例えば学会は学会費さえ支払っていれば、平等な権利を与えられる。学会の役員の選挙権や被選挙権、学会誌の頒布などの権利は、学会員であれば平等である。但し金の切れ目は縁の切れ目で、学会費を一定期間納めないと退会になってしまい、一切の権利を失うことになる。尤も、学会は本人が好きで入っているので、それで不公平になることはない。

集合が任意団体でない場合は少々ややこしい。例えば、18歳以上の日本国民には平等に選挙権が与えられている。18歳以上の日本国民がすべて同格の存在だというのは一種のフィクションで(だからいけないと言っているわけではないが)、超越論的な根拠があるわけではないが、普通選挙は民主主義国家の存在根拠なので、これは外すわけにはいかないのである。

大正時代の半ばまでは、国税を一定限度以上納めていなければ、選挙権がなかったし、戦前は25歳以上の男にしか選挙権はなかった。すなわち税金を一定額以上払わない人や女性は、格外の国民だったわけだ。現在は、選挙権が一律に与えられているので、国民は全部平等だと錯覚しがちだが、貧富の格差一つとっても、各々の個人が実態として平等という事はあり得ない。民主主義国家の理念は国民の生活と安全を保障することなので、稼げなくなっても野垂れ死にする必要はないし、税金を納めなくても選挙権はあるし、いざとなったら生活保護を受給して生き延びることに後ろめたさを感じる必要もない。

金持ちになるのも、貧乏になるのも自己責任という人もいるが、個々人には能力差もあるし、運もあるし、親の資力も違うので、すべてについて平等に扱うと、結果的に不幸な人を救えなくなってしまう。東日本大震災の際の最大級の被災地支援ボランティア組織「ふんばろう東日本支援プロジェクト」の代表だった西條剛央に聞いた話だが、500人収容している避難所に毛布が300枚届いたときに、300人だけに配ると不平等になると言って、500枚になるまで毛布を全く配らないで、倉庫にしまった避難所があったという。そのうち季節が進んで、暖かくなり、毛布は全く必要なくなってしまったとのこと。

笑うに笑えない話だが、平等原理主義の呪いがかけられていたとしか思えない。被災者はそもそも体力や健康面で平等ではなく、病人や高齢者や、乳幼児のいる家庭に優先的に配ったらいいのにと思うが、ボーダーで毛布を貰えなかった人に、不公平じゃないかと文句を言われるのが嫌だったのかしらね。(メルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』2021年9月10日号より一部抜粋、続きはご登録の上、お楽しみください。初月無料です)

image by: Shutterstock.com

池田清彦この著者の記事一覧

このメルマガを読めば、マスメディアの報道のウラに潜む、世間のからくりがわかります。というわけでこのメルマガではさまざまな情報を発信して、楽しく生きるヒントを記していきたいと思っています。

有料メルマガ好評配信中

  初月無料で読んでみる  

この記事が気に入ったら登録!しよう 『 池田清彦のやせ我慢日記 』

【著者】 池田清彦 【月額】 初月無料!月額440円(税込) 【発行周期】 毎月 第2金曜日・第4金曜日(年末年始を除く) 発行予定

print

シェアランキング

この記事が気に入ったら
いいね!しよう
MAG2 NEWSの最新情報をお届け